下界人(4)

 レース、サテン、タフタ、チュール、シフォン――様々な織り方、種類豊富で繊細な着色、生地の特徴と配色に合わせた煌びやかな装飾。


 一歩足を出す度に目移りしてしまう素敵なドレスの数々を前に、私は頭を抱えていました。


「こちらなんてどうでしょう?」


 店員さんの持ってきたドレスは、淡いピンクのミカドシルクに、細部にはレースが編み込まれ、着る人を邪魔せずドレス本来の美しさを際立たせるようにピンクダイヤモンドの宝飾が散りばめられたドレスでした。


 一目見た瞬間から明らかに他のドレスとは一線を画す、このオートクチュールで一番の出来と言うに相応しい一着でした。


「このドレスは、最優秀淑女に選ばれた女性が卒業式の日に着るドレス――それを毎年作っている当店専門の職人クリエッラ・トゥートス=トンベリが作った最新の一着です。」

「えっ!?あの有名なトンベリさんの!?そ、そんな大層なドレス、私には間に合ってます!」


 私の動揺に店員のお姉さんは首を傾げました。


「そんなご謙遜を。貴女は次期最優秀淑女の筆頭ではありませんか。そんな貴女が今度の【学院社交会ル・バリエ】で一番のドレスを着なくて誰が着るんですか?」

「それは……。」


 年に一度の学院社交会――学院外からも来賓を招き、酒池肉林を囲みながら歓談したり、ダンスを踊ったりと、ある種のお祭りのようなイベントですが、学生達にとっては今までの授業の集大成を見せる場でもあり、噂ではこの社交会でその年の最優秀が決まるとも言われています。


 今までは一学生として参加していましたが、今年はそうもいきそうにありません。


「私は、最優秀なんて言えるほど出来た淑女ではありません。」


 ガイラさんと接したこの数カ月で私はそれをより実感しました。

 本当なら今すぐにでも辞退したいとさえ思っています。

 けれど、私にそれを決める権利はありません。


「ですが、そうなれるよう努めたいと思います。」


 半ば諦めの気持ちで、私は店員さんの持ってきたドレスを試着することにしました。

 そして寸法を調整し、二週間後の社交会で着られるようお願いしました。




「ファラさん、こんばんは。」


 夜――いつものように寮を抜け出して洞穴に行き、私は慣れた手つきで鞄からお弁当を取り出しました。


「いつも悪いな。」

「いえ、お料理は好きなのでこれくらい負担にもなりません。それよりもファラさんは早く歩けるくらい元気になって下さい。はい、どうぞ。」


 お箸で唐揚げを掴んで口元に近づけてあげると、ファラさんはそれを嬉しそうに澄んだ瞳で見つめてから頬張りました。


「本当は自分で食べられればいいんだけどな……。」


 ファラさんはそう言って寂しそうに自分の手を見つめていました。


「仕方ありませんよ、その指じゃ……。それに、いつか治りますよ、きっと!」


 その言葉は気休めでしかありませんでした。

 例え医学に精通していたとしても、ファラさんの指はとても治るものではないということは誰が見ても明らかでした。


「これが夢を追い求めた代償、か……。」

「代償?」

「いや、悪い。何でもない。それよりも――」


 私が気になる素振りを見せると、ファラさんは少し焦ったように話をすり替えようとしました。


「また聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「何でしょうか?」


 ファラさんは深刻な表情で、それも怒っている様子でした。


「昨日、ここに人が来た。五人くらい。」


 それを聞いた途端、私の脳裏にあの日の出来事が思い起こされました。

 そして昨日ファラさんが何を見たのか、聞きたいことが何なのか、その全てを理解しました。


「人が一人、そこの穴に落とされた。あれは何だ?あの男は何で落とされた?落とした奴等は皆それが当たり前のように平然としていた。あんた等の中ではあれは当たり前のことなのか?」


 私の想像は間違っていませんでした。

 あわよくば外れてくれたら――。そんな淡い期待は叶わず、私は胸が詰まるのを感じながら落胆しました。


 まだこの前の下界落ちが合ってからほんの数カ月しか経っていません。にもかかわらず、また下界落ちが行われた。

 主教様達は今までにいったい何人の人達を穴に落としてきたのか。考えるだけでも背筋が凍ります。


「答えてくれ。あんたの返答次第じゃ俺は、この両の指を無くした意味を見失っちまう。」


 立とうとしたのか、ファラさんは岩壁に手をつきましたが、直ぐにバランスを崩して倒れてしまいました。


「その体ではまだ無理です。」

「くそっ、何で俺は……。」

「落ち着いて下さい。全部、話しますから。」


 私はこちらに倒れるファラさんの体を支えながら、落ち着いて欲しいとその指の無い手を優しく握りしめました。


「なるほど、そういうことか……。」


 私はファラさんに全てを話しました。

 この国のこと、学院のこと、クリスちゃんと見たあの日の出来事を。

 そして、私がどう思っているのかを――。


 ファラさんはしばらく黙ったまま目を瞑って何か考えているようでした。


「あんたが話してくれたこと、下界落ちを止めたいって気持ち、それらが嘘じゃないってことはよく分かった。」


 前よりは良くなっています。

 でも、まだ若干焦点の合わない目で、ファラさんは必死に私の顔を見つめていました。


「あんたの手は、それが分かるくらい温かかった。」


 そこで初めて私は、この状況――僅か数十センチのところで互いの顔を見合わせ、ファラさんの手を握っている自分に恥ずかしさを覚えました。


「ご、ごめんなさい!」

「別に……俺も気づかなくて悪かった。」


 意外でした。

 ファラさんは体力が戻っていないこともあって感情をあまり表に出せないようで、私は言葉のままにしか彼の感情が未だに読み取れません。

 けれど、この時のファラさんは初めて分かりやすく照れているのだと読み取れました。


「そ、そうだ!今日はお召し物も持ってきていたんでした!」


 私は恥ずかしさを紛らわそうと無理矢理話題を転換させました。


「お召し物?ああ、服のことか。」

「はい。一度に一式は無理なので今日はインナーだけですが、少しずつ持ってきますね。」

「これ……シャツみたいだけど、女物だよな?」

「ユニセックスのものを買って来たので、男性でも着られるはずですよ。」

「いやでも、このウサギの刺繍……。」

「可愛いですよね。」

「いや、そういうことじゃなくて……。」


 ファラはぼやける視界の中、それでも分かるほどニコリと笑うユナウの顔を見て溜息をついた。


「分かった。ありがとな。でも……。」

「どうしました?」

「この手じゃ、着るのはともかく脱ぐのが厄介だな……。」

「えっ!?」


 この時私は、この後自分がしなければならないことを容易に想像できたことを酷く恥じました。

 悩みに悩んだ末、私は覚悟を決めてファラさんの着ていた上着に手を掛けました。


「い、いきます!」

「何の宣言だよ、こっちが恥ずかしくなる。」

「そ、そんなこと言わないで下さい!余計に恥ずかしいじゃないですか!」


 いったい何をやっているのでしょう――。


 そう思いながら、恐る恐る服を脱がしました。

 しかし、ファラさんの肌が露出していくにつれ、私の中にあった恥ずかしさは次第に薄れていき、代わりに不安が湧き、それは最終的に心配へと変わっていきました。


 服の上から見ていたよりもファラさんの体は今にも折れてしまいそうでした。

 数カ月程度ではいくら何でもここまでにはなりません。


「ファラさんって、私が見つけた時は行き倒れていましたけど、私が見つけるまでどれだけの間お食事されていなかったんですか?」

「気を失っていたからな……正確には分からない。が、少なくとも最後にまともな飯を食ったのは六年くらい前だ。」

「ろ、六年!?そんなの普通死んでしまいます!その間いったいどうやって――」


 想像を遥かに超える年月に、私は途中から言葉を失ってしまいました。


「土を食ってた。」

「つ、つちぃ!?」


 その突拍子もない理解不能な返答に、私の口から人生で出したことのない声が漏れ出しました。


「土にはナトリウムとかカルシウム、鉄なんかの最低限人体に必要な栄養素が入ってる。雨が降れば沁みてくるから水分も取れる。何より消化が遅いから長時間の腹の足しにはなる。クソ不味いけどな。」


 もはやファラさんが何を言っているのか、私には理解が出来ませんでした。

 しかし、冗談を言っている感じではありませんし、確かにそれを想起させる出来事はありました。


 私は無意識に思い出したように唇に指を当ててなぞっていました。


「ファーストキスは、土の味……。」

「ん?何か言ったか?」

「あっ、いえ別に!」


 口に出したつもりはありませんでしたが、聞かれてしまったのかと私は焦って誤魔化しました。


「で、でも、どうしたらそんな状況になるんですか?六年も土しか食べられない状況なんて私にはとても思いつきません。」


 一周回って落ち着いてから、私は感じた疑問を口にしました。


「それしかなかったんだ。」


 そこでファラさんは再び指の無くなった自身の黒い手を見つめました。


「それしか?それってどういう――?」

「【ドウケツの塔】を登るには、どれだけ掛かるか分からない。荷物を沢山背負っても、負担が増えて登り切れる可能性は低くなる。身を軽くするのはどうしたって絶対条件だった。そうなれば食糧も当然持っていくことは出来ない。果樹が生えているわけでもなし。死なない為には登っている壁の、目の前の土を食べるしかなかった。」


 ファラさんは懐かしむでもなく淡々と語りました。


「ドウケツの塔って……。」

「あんたらでいうところのドウケツの洞穴――つまりは、そこの穴のことだ。」


 もしかしたら、とうすうす考えてはいました。

 けれど、そんなことはあり得ない。人知を超えている、と私は自分を騙していました。


「ファラさん、それじゃあ貴方はやっぱり――。」

「ああ。俺は下界から登って来たんだ。」


 驚きは勿論ありました。

 ですが、それ以上に私は納得していました。


 ファラさんが下界人で、下界からこの穴をひたすら登って来たのだとしたら、この国の人間らしからぬ言葉遣いも、学院やこの国のことを知らないのも、土を食べることで奇跡的に生きながらえていたことも、そのせいで体がこんなにも痩せ細っているのも、髪や髭が伸びきっていることも、腕と足だけに筋肉がついている異様さも、そして一番の謎だった異常な指の欠損の仕方も、全て辻褄が合います。


 今まで疑問に感じていたことが一瞬にして線で繋がりました。

 ですが、それと同時に私は恐ろしくなりました。


 今この状況は絶対に他の人には見つかってはいけません。

 特にファラさんは存在自体がこの国ではタブーです。

 もし見つかれば下界落ちでなくても死刑は免れないでしょう。



 戻って欲しい――。



 そうは思いますが、今のファラさんの容態では登るのと同じ要領で壁を伝って下りるのは不可能です。

 かといって、他に戻る方法も思いつきません。


 戻れないなら見つからないように隠れるしかありません。


「ファラさん、一つ約束してくれませんか?」

「なんだ?」


 私はファラさんの手を取り、その瞳を一心に見つめて言いました。


「ここから出ないで……誰にも見つからないでください。」

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