第4話・雪中心と佐野薫

むかしむかし 神様は人間を作りました


そして 人間に言葉を教えました


でも 「奇跡」という言葉だけは教えませんでした


それは神様自身を言い表す言葉だったからです


しばらくすると 人間はかってに「奇跡」という言葉を使い始めました 


でも 人間が使う「奇跡」の意味は 神様のそれとは違っていました


神様は そんな人間を愛していました





 大丈夫だろうか。心配だ。これが、その時の印象。


 いや、僕は全くを持って大丈夫だったけども、その時の佐野さんは極度に緊張していたはずだ。先生に呼び出されて教室の前まで行くときに、右手右足、左手左足がそれぞれ同時に前に出ていた。僕はそんな佐野さんの姿を見て少しばかり和んだりしたけど、それ以上に心配だった。


 そもそも、僕は彼女の声を聞いたことがない。会ってから一ヵ月ちょっと経つけど、挨拶ですら声を聞けない。いつも、決まって彼女の返事は頷きだけだった。


 どうしてそんな頑なに喋らないのかは分からなかったけど、そのあまりの頑なさは、事情を詮索するのもはばかられるほどだった。信憑性の薄い、風に流されてきたような噂話は耳に入っていた。でも、そんな話は切って捨てるべきだと確信を持てるくらいには、喋らない彼女からは何か強い意志を感じた。


 そんな彼女が、歌えるか心配でたまらない。歌えるとしても、彼女は小声でしか歌えないだろう。そんな確信があったから、僕は不用意には(いつも合唱部でやっているようには)張った声を出さず、彼女の声に、声量に合わせることにした。彼女の声をかき消してしまっては、やり直しなんてことになりかねない。


 「はい、じゃあふたりともリラックスしてね」と先生。


 僕は大丈夫だけど、彼女の目はどこか遠くで焦点を結んでいる。肩が小刻みに上下していて、呼吸が不安定なのが伝わってくる。


 「じゃ、始めます」


 伴奏の音が、僕らを包み始める。


 イントロは短く、すぐに歌い出しになる。大丈夫か、佐野さん。


 半ば祈りながら、歌い出す。




 その瞬間だった。紛れもない。僕は、この先一生涯、あの瞬間を忘れることはない。耳に銃弾を撃ち込まれたのかと思うほどに、その衝撃は凄まじかった。


 彼女は、佐野さんは、歌っていた。今にも消えそうな声で。でも、声量なんてのは本当にどうでもよかった。


 彼女のその歌声は、どこまでも穏やかで、落ち着いていて、のびのびとしていて、それでいてどこか怯えるような、愛おしい儚さがあった。その歌声だけでも、その歌声に出会えたことだけでも十分に奇跡なのに、神様はどうやら奇跡を重ねるものらしい。


 彼女の喉から漏れ出るその声は、完璧に僕の声と踊っていた。


 本当に、なにもかもが完璧だった。それ以外の言葉が見つからない。人は、それを「奇跡」と呼ぶのだと、その時、あの衝撃とともにそれを悟った。


 男性の高すぎる声と、女性の低すぎる声。ふたつは、自由に、そして規則正しく、まるで遥か昔からお互いにそこにいるのが当たり前かのように踊っていた。美しい男性と力強い女性が完璧に社交ダンスを踊るように、お互いがお互いをどこまでも引き立たせ、それでいて互いに孤高の美しさを誇っている。

 

 彼女の歌声に撃ち抜かれた僕の脳は、その後もずっとふたりの歌声でぐちゃぐちゃにされ続けた。歌い終わると、僕の目は自然と涙を零した。


 ぼやける視界で、隣にいる佐野さんを見る。


 佐野さんは、歌い始めの時と同じように遠くを見つめ、肩を小刻みに上下させていた。そして、頬は一筋だけ光っていた。





*******





 わけがわからなかった。僕は、半ば放心していた。遠くでささやいている人の声がなぜか聞こえるような不思議な感覚で、すぐ目の前にいる先生の「はい、おつかれさま。席に戻って下さい」という声を聞いた。


 体はその命令のとおりに動いて、僕は席に座った。


 僕は、歌った。紛れもなく。でも、歌っていなかった気もする。


 久方ぶりに聞いた僕の声。しかも歌声。それは、あまりに低くて、僕が私ではあってはならない声。


 でも、聞こえてきたのは、穏やかに、落ち着きを持って雪中君の声と踊る声。よくよく聞けば、僕の声はあまりに低くて、僕が私ではあってはならない声のまま。でも、僕のその声は、当たり前のようにそれがそうでなくてはいけないという顔をして、雪中君の声と微笑み合っていた。


 僕の声が、そうであるのが当たり前だなんて。彼と、彼の歌声と出会わなければ、一生涯そんなことは思わなかっただろう。僕の声は、低くてもいいのだと、低くあることが当たり前なのだと、そんなことを知るなんて。


 それがそうであるのが当たり前のふたつが出会い、それ以上のことはあり得ない姿を見せる。それを人は「奇跡」と呼ぶのだと、まだ靄のかかった頭で、なんとなくそう確信した。


 隣に座る雪中君を見ると、泣いていた。理由は、分かる気がするし、決して分かり得ない気もする。そんな雪中君を見て、私も頬を濡らしていることに気が付いた。




 運命が走り始めたのは、それからだった。その日の放課後、ふたりはいつもの無言のまま、それでも運命の意志らしきものを感じて、教室に残った。


 そして、雪中君が話しかけてきてくれた。


 「今日の歌、ありがとう。」


 僕はいつもの癖で、頷きだけを返す。でも、次の言葉には、声を出さずにはいられなかった。


 「佐野さん。合唱部に入らない?合唱部じゃなくてもいいんだけどさ、ふたりで歌を歌おう。今日、そう思ったんだ。なんとなく、でもそう思った。自由に歌おう。カラオケとかでもいい。ふたりで、歌おう」


 僕は、今度は分かっていた。自分の頬がどうしようもないくらいに濡れていて、視界は滲んでいく一方だということを。


 そして、僕は声を出した。


 「うん。歌おうっ!」


 あの瞬間から、僕は僕になった。僕は、僕である僕の声を、それが僕なのだと、少しだけれど、好きになった。

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