おとなって理解できない

「オイ、糞爺」

 聴き慣れた声。

 でも激昂しているように声が低い。駅前の道で〝彼〟とはぐれた時、変な人に絡まれたところを助けてくれた、あの声によく似ている。

 視線を下げ、声がした方へ向けると、閉まっていた筈のドアが開いていた。

 そこには、殺意を抱いているかのように気色ばんで立つそうくん。持っていた長財布を、思い切り投げ捨てる。

 一方、梶瑛かじあきさんは彼のすぐ後ろにいて、後ろめたい気持ちがあるかのように俯いていた。

「あ、あれ? もうコンビニに行ってきたの? なんか早くない?」

 オロオロするshow先生。先程までの余裕は何処へやら。

「行ってない。つか、しほりさんから手を離せ、糞爺」

「先生に向かって糞爺はないだろ!」

「じゃあ、クズ」

「酷いっ」

 show先生は目を合わせようとしない梶瑛かじあきさんに気づき、「凛子りんこっ、話が違うじゃねえかっ」と必死に訴えていた。

 先生の手が離れた瞬間、私は駆け出した。

そうくん!」

 飛び込むように抱きつく。

「ちょ、しほりさん⁉︎」

「おこらないでっ。先生が暑そうだから脱いだらって言ってくれらの」

 私は酔っ払いながらもそうくんを説得しようと頑張った。

「あああああ⁉︎」

 すると油を注ぐ形となってしまったようだ。

 そうくんは額に青筋を貼り、目を尖らせ、すごい剣幕で先生を見下ろしている。

 おかしいな。失敗、失敗。

「どんだけ女に手を出してんだクソが」

 言葉が汚いそうくんも、良い。グッジョブ。

「あ〜〜〜〜勘違いだよー? お酒で苦しそうにしていたから、ちょっっっっとファスナーを緩めてあげようかなと思っただけで」

 両手を合わせて、必死に弁明という嘘を並べていく。その必死さといったら、そうくんがドン引きするくらい。

 そんな時に私は「あ!」と思い出し、そうくんを見上げながら口を開いた。

「先生、すごいんだよ? すっごくおとななの!」

「大人?」

がね、ねっとりというかー、ゾクッというかー。どうやったらそんなにのかなぁ! おとなっぽいね!」

 満面の笑みを浮かべた。純粋に先生の大人っぽさを尊敬する眼差し。

「ちょっと誤解を生むような言い方はしないでおくれよ! しほりぃ!」と悲鳴に似た叫び声の先生を完全に無視する。

 するとそうくんは菩薩のように優しく微笑み、私の頭をぽんぽんと叩いた。

「それは大人じゃなくて、クソエロジジイだから尊敬したり、覚えちゃ駄目ですよ?」

「んー?」

 小首を傾げる。大人じゃなかったの?

「しほりさんはまずお酒を抜きましょうね」

「はーい」

 離そうとする彼の体をガッシリと抱き締めた。

「しほりさん? 俺は糞爺を説教したいんで、水を飲みに行ってもらってもいいですか?」

「うーん」

「そろそろ離してくれません?」

「やーねぇ〜」

「……じゃあ、まずはファスナーを締めましょうか」

 力を入れて体を離そうと焦るそうくん。どうして、そんなに焦っているのでしょう。

 仕方がないので、くるりと身を翻し、横に流した後ろ髪を持つ。「ファスナーをつまめないのでお願いします」

 不器用な手付きで、彼がファスナーを締めてくれている時、

「ちょっと! 年増! そうから離れなさいよ!」

 剥がそうとする梶瑛かじあきさんに、ぷいっと顔を背けた。口が3のように尖る。

「ヤダ!」

「子供みたいなこと言わないで! 年増!」

「いや!」

「ババア! 離れろ!」

「ババアじゃないもん!」

「『もん』⁉︎ キモいんだけど!」

「離れないもん!」

 そんなやりとりを苦笑しながら彼は、私の頭をぽんぽんと撫でた。

「ファスナーが上がらないから、じっとしてて」

「だってあの子、いじわるを言うんだもん!」

 ここに来るまでに散々言われた「年増」。言われて悲しくないわけではない。ずっと我慢していたのだ。大人だから。

 しかしお酒で我慢という機能を失い、子供のように言いたいことを口にする。

 私と梶瑛かじあきさんの言い合いが止まらず、彼は「うーん」と唸った。

 更に、覗き込んでいたshow先生は、

「布を噛んで上がらない時は、一回下げるといいよ」

 と、囁く。

 きっと他の人が言ったなら助言と受け取れるのだが、先生が言うと不思議なものでエロを助長させる。

 彼の額の青筋が増えた。それをきっかけに堪忍袋の緒が切れる。

「お前ら、出てけッ‼︎‼︎」

「え、あたしも⁉︎」

 湊くんはshow先生と梶瑛かじあきさんの背中を押して、リビングから追い出した。ジタバタする二人を問答無用で。

 ぽつんとに残される私。瞬きを繰り返しながら、怒りを表す彼を眺めていた。

 彼は赤面しながら、自らの黒いティーシャツを脱ぎ、そのまま私の胸元に当てる。

「前、これで隠してて。念の為に」

 いつもの敬語は消え、彼は赤面しながら言った。

そうくんの、匂いがするにゃ」

「しほりさん……頼むから匂いは嗅がないで」

 彼は耳まで赤くなっていた。

 私をソファに座らせると、再びファスナーを締めようと試みる。が、やはり布を噛んでいるようで上がらないらしい。「一旦下げますね」と言うと、ファスナーを思い切り下げた。

「ふわっ!」

 背中が空気に触れ、声が漏れる。

「あ、すみません」

「へへへ〜涼しい」火照った体には気持ち良い。

「私ね」

 ジーと微かに音を鳴らしながら、ファスナーは上がっていく。

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