第40話 冒険者

 奇妙な肌の岩が散らばり不気味な植物が生える、悪趣味な色の大地。その果てにうっすらと見える切り立った山岳。更に上に広がるのは汚泥めいた空。

 心を蝕むような景色の場所――魔界。


 そこに、緊張した面持ちをした一人の少年が立っていた。

 若さは残っているが、精悍な顔立ち。体格は細身ながらも筋肉があり、痩せた印象はない。

 胸や肩など部分的に金属の鎧を身に付け、武器は長剣。エンカウントでは比較的多く見られる、一般的な装備一式だった。

 彼は気合いを入れるように短く息を吐き出し、そして右の拳を左の手の平に打ち付ける。


「っし。行くぞ!」


 その前方には、ある意味で少年にも見慣れた影がいた。

 爬虫類めいた顔、長い尻尾、鱗に覆われた灰色の肉体、そして皮膜の翼を持った、体長二メートル程の魔物。細身ではあるが、まさしくドラゴンだった。威嚇の為か牙を見せて唸っている。


 だがその強敵が緊張の理由ではない。

 少年はその敵を、全く見ていなかった。

 顔も体も、向くのは魔物より右。倒さなければならない存在がいない空白地帯、明後日の方向へと走り出す。

 敵前逃亡というにはあまりにも勇ましく堂々とした姿で。

 だが全力で去っていく獲物を、狩人がみすみす見逃す訳もない。

 魔物は猛り咆哮を轟かせる。翼を広げて強靭な四肢で地を蹴り、空へと舞い上がった。龍らしい勇猛な威容で飛翔し、追跡を開始する。


 少年はドラゴンに追いかけられている事を確認しながらも、真っ直ぐ前へ走り続けた。

 ただ逃げているのではない。彼を動かすのは怯えや恐怖といった弱さではなく、むしろ強い決意だ。

 目指すは障害を迂回した、前方の遥か先。薄く見える険しいシルエットの向こう側だった。




 きっかけはインターネットで見つけた、とあるサイトだった。

 物好き達が集まり、魔界の地図を作って公開しているものである。エンカウントが始まって間もない頃からあるそれには数十年近くの古い歴史があった。

 公的機関でも魔物や装備についての情報は提供しているが、調査に手間のかかる割にメリットの少ない地形については詳細なデータはなかった。だからエンカウントを調査している人間にとっては貴重な資料として有名になっている。


 とはいえ、その地図は完成には未だ遠い。長い時間と多くの人手をかけていても穴空きの多い不完全なものしか出来ていなかった。不規則で運が絡むエンカウントの性質の為だ。

 ただし、一つ。それだけの理由では説明がつかない点がある。地図の中には、ポッカリと空いた不自然なドーナツ状の空白があったのだ。山脈周辺と、その奥に隠された部分である。

 エンカウントの際の場所はランダムだが、ギザギザのシルエットが見える時はいつも地の果て。ハッキリ見られる位置に移動したという報告は世界中の誰からもなかった。


 少年はこの場所に、なにか重要なものがあると思ったのだ。

 それは例のサイト内でも支持されている説ではあった。だが、途中で断念したという話はあっても最後まで実行したという話はない。魔物に阻まれるか、遠過ぎる距離に心が折れるか。増えるのは失敗談だけだ。

 だがそれでも彼は賭けに挑む事を決めた。


 それだけ強く、エンカウントを憎んでいるから。




 そうして決死の思いで臨んだ探索行だが、早速問題が生じていた。

 原因は魔物の種類。流石に飛行するドラゴンが相手では競争するには不利過ぎたのだ。

 最初に作ったリードはまだ残っていても、徐々に追いつかれている。

 目的地はまだまだ遠い。このままでは辿り着く前に接触するだろう。途中で重い鎧も外したが、大した効果はなかった。


 となれば、切り抜ける手段は限られる。


「仕方ないか……!」


 邪魔者を退ける為、少年は戦う事を選択した。


 走る速度を緩め、振り返って剣を構える。

 目的が探索である以上、エンカウントは終わらせられない。魔物を倒してはいけないのだ。だから狙いは、致命傷にはならないが戦闘不能にはなる程度のダメージ。しかも後の行程を考えれば、自身の負傷はなるべく抑えた方がいい。

 無論、通常の戦闘より難易度は跳ね上がる。


「……はっ。恨みはねえが苦しんでてもらうぞ!」


 苦い顔をしながらも、少年は己に自信を持たせるようにあえて強気に言い放った。

 その間にも龍の鋭い敵意が迫る。

 臆さず前へ。右側に駆け抜けながら斬りかかる。すれ違い様、剣と爪が空中に線を描いた。


「……っ!」


 少年は歯を食い縛り、呻き声を噛み殺す。

 肩を爪で引き裂かれたのだ。だが魔物の方も翼の皮膜に大きな裂け目があった。結果としては痛み分け、ほぼ互角。

 ただ、ドラゴンはまだ飛行能力を失ってはいなかった。旋回し、調子を確かめるように羽ばたいている。


 だったら、飛べなくなるまでやるだけ。

 戦意を改めた少年は得物を構え直す。

 それぞれが駆け出し滑空し、両者の暴力はもう一度衝突。速度と体重の乗った刃が二つ、明確な害意を伴って振り切られた。


「っし!」


 少年が手応えに笑みを浮かべれば、背後で奇怪な鳴き声が上がる。 

 魔物の片翼を付け根から切り落としたのだ。ただし代償として右腕に怪我を負っていた。攻撃を優先したせいか、肩よりも深い。

 その激しい痛みも気にしてはいられない。落ちたドラゴンに素早く近寄って、残る翼も断ち切る。走っても速い可能性はあるが、これでもう追いつかれないだろう。

 障害を排除し、そして少年は目的地への旅路を再び進み出した。




 傷を抱えて、彼は魔界を走る。

 景色は少しずつ変わっていた。移動していく中で植生に違いが見られ、今まであまり見た経験のない濁りきった液体の池も見かけた。

 とはいえ、それはなんの気晴らしにもならない。流れていくのが不快な景色だけでは、永遠に悪夢を見ている気分になるのだ。

 既に魔物の心配はない上に傷に響くのだが、少年は走るのを止めていなかった。早くこの時間から逃げたかったからだ。

 そうしなければ、心が折れそうになる。挫けそうになる。精神が病みそうになる。

 事前に調べた過去の挑戦者の証言を、少年は身をもって理解していた。


 それでも彼は進む。いつ終わるとも知れない長距離走に挑み続ける。

 次々に湧く弱音をかき消すべく、意識して様々な事を考えた。山脈の向こうにあるものを想像し、無事に帰ったらやりたい事を並べ、昨日の夕食を思い出す。

 そしてこの行動の原因となった幼馴染の沈んだ顔を――自分自身で定めた使命を思い浮かべた。

 唯一の対抗手段である根性で、少年は地獄の試練に立ち向かっていた。




「……また、キッツい山だな……」


 感覚では何日も何週間も。それこそ時間感覚を失う程の、拷問のような旅路の末。少年はようやく荒野の果てまで到着した。

 だが、単純に喜べはしない。そこには次なる試練が待っていた。

 目的地を囲む、険しい山だ。

 魔界らしく不気味な色をしており、尖った岩肌の急斜面が侵入者を拒むように高く高くそびえている。

 といっても一応、道具がなければならない程の絶壁ではない。このエンカウントでの体ならば、難しくとも不可能ではないだろう。


「キツいのなんて最初から解ってたんだよ……!」


 少年は再度覚悟を決めると、まず邪魔になる剣を放り投げた。そして頬を叩いて己を鼓舞し、登山を開始する。

 足を踏み外さないよう、出っ張りに手をかけつつ、ほとんど這いつくばるように登っていく。

 今度は体力勝負だった。肩と腕の怪我も辛い。一歩登る度に酷い苦痛を味わう。

 ただ、単純に走るだけでなく、頭を登山にフル活用するので精神的には楽だった。違う種類の地獄にいる現状では何の慰めにもならないが。

 既に消耗しきった体に無理をさせ、やはり挫けず折れず登り続ける。強靭な精神で戦いを継続する。

 全ては、幼馴染の少女を深い暗闇から引っ張り出す為に。


 そして、遂に目の前から岩壁が消えた。

 山頂である。

 見下ろしても霞んで大地は見えない。それだけの高さ。達成した事の大きさを実感して思わず笑えてくる。あともう少し。

 だからそこで、緊張の糸が緩んだのかもしれない。

 

 ズルリ。向こう側へ下ろうとしたところ、うっかり足を滑らせてしまった。


「うっわああぁっ!」


 急斜面でついた勢いのまま一気に山を駆け下り――いや、落下していく。

 なんとか墜落死は避けようと必死に手を伸ばすが、弾かれるばかりでほとんど無駄に終わる。何度も何度も山肌へ強かに体を打ち付け、最後に顔面から平地に突っ込んでやっと止まった。


「あー……クソッ」


 この体の丈夫さを喜ぶべきか、恨むべきか。少年は助かった代わりに、全身を激痛に襲われていた。自分で発した声すら痛みを増幅させる。

 どこもかしこもボロボロで、今すぐこのまま休みたい。強烈な疲労感があり、脳と心も休息を求めて叫んでいる。


 それでも甘い誘惑を蹴飛ばし、強引に顔を上げた。

 奮い立てるのは脳裏に焼き付いた顔。エンカウントで親を失って以来、笑顔を無くした幼馴染の少女の姿だ。

 使命感が燃え、壊れる寸前の体と頭を突き動かす。


 目指していた場所に着いたはず。ここまで来て諦められない。

 気力を振り絞って起き上がった時――少年はそれを発見した。


「あれは……?」


 まず抱いたのは喜びや驚きよりも疑問だった。

 そこにあったのは、真っ白な柱と屋根の荘厳な建物。古代の神殿を思わせる造りのそれは、醜悪な魔界では異様に浮いていた。違和感の塊である。

 だがそれはつまり、貴重な発見だ。少年は緊張からゴクリと唾を飲む。


「やっぱり、あった……!」


 苦労の甲斐はあった。疲労も苦痛も吹き飛ぶというもの。

 恐る恐る、しかし期待を抱いた顔つきで神殿へ近付いていく。

 念の為警戒しながら柱の間をくぐり抜け、ゆっくりと大理石のような床に足を踏み入れた。


「な、は、うわっ!?」


 その瞬間、彼は目も眩む強力な光の奔流に呑み込まれた。






 少年が目を覚ますと、何故かうつ伏せの体勢になっており体の下には硬い感触があった。

 ぼうっとした頭で辺りを見回す。確かめてみれば、あの神殿めいた建物から移動しているらしかった。

 あちこちに灯るのは幻想的な青い炎。壁や床には細かい芸術的な装飾が施され、頭上には旗が掲げられている。中世の古城にある広間といったところだ。それも、怪しい何かが根城にしていそうな不気味な雰囲気のある。


「ここ……は、ぐうっ!?」


 だが、少年にそれを眺めていられる余裕はなかった。

 突然痛みが生じて悶える羽目になったからだ。しかも重くて全く身動きが出来ない。背中の上にいる何者かによって床に押さえつけられていた。

 絶体絶命の窮地。

 そんな状態の少年の耳に、威厳に満ちた重厚な――しかし何処かで聞いた事があるような声が届く。


「無礼は止せ。客人だ」

「陛下をお守りする事が我らの使命なれば」


 二つ目の声は真上から。少年を痛めつけている張本人だ。初めの声に従ったのか、押さえる力が弱まる。苦痛まみれの体が多少は楽になった。


 だが、それどころではない。

 会話の内容の方がより高い重要性を持っていた。

 辛うじて動かせた視線で見渡せば、いつのまにやら広間は窮屈になっていた。異形の獣から巨人に竜。周囲には様々な種類の魔物の軍団がいた。そのどの個体も少年に敵意と警戒心を抱いている。

 そして前方奥には、何者かが座る豪華な玉座。間違いない。


 陛下。

 その単語の意味を確信し、少年は笑みをこぼした。体が熱くなり、震える。武者震いだ。目的はもう、目の前にいるのだから。


「まあ、よい。以前のように潰そうものなら赦さなかったがな」

「以前の件は反省しておりまする。今後加減の誤りは致しません」


 堅苦しい言葉遣いの会話に、武者震いがピタリと止まった。過去にここで起きていた事を推察してしまったからだ。

 悪寒が全身を駆け巡り、遅ればせながら置かれた立場を理解する。


 少年の命は彼らの手の上なのだ。

 恐怖心からか表情は強張り、荒い呼吸が止まらない。達成感も野心も、現実の前に縮み上がっていた。


 目も合わせない無礼な客人だが、当の魔物を統べる主は気にせず少年へと語りかけてきた。


「勇敢な客人よ。そちには此処まで辿り着いた褒美をとらそう。さて、何が良いかな? 望みがあれば申してみよ」


 随分と上から、かつ余裕ある発言だった。実際それだけの差が少年との間にあるのだ。本人が持つ力にも、従える戦力にも。

 周りのどれか一体だけが相手でも今の少年には難しいというのに。

 未だに身動きはとれないし、調子は戻らない。恐ろしく、どうしても萎縮してしまう。

 生き残りたければ、大人しく褒美を受け取るしかないのだ。憎き全ての元凶から。


 屈辱的で情けなくて、それ以上に悔しかった。

 だから彼は虚勢を張った。精一杯の気合いと上手く動かない唇で、不屈の言葉を紡ぐ。


「お、俺が欲しいのは……あんたの、首だ」


 言い終えた瞬間、真上からの圧力が爆発的に強まった。全身が嫌な音を立てて壊れていく。

 覚悟の上だ。権力者に無礼を働いたのだから。事前の予定通り、歯を食い縛って堪える。

 罰は玉座の影が手をあげて制止させるまで、しばらくの間続いた。


「残念だが、それは叶えられぬ。我らの娯楽を失う訳にはいかぬのだ」

「……そうかよ。なら、自分の力で、勝ちゃあいいんだな?」

「良いな。その気勢、実に良い。これでこそ我らの娯楽足り得る。だが……客人よ。その我が与えた姿で、一体誰に勝てると思うておる?」


 問いかけをその場に残し、玉座の主がその形を変えていく。

 輪郭が膨張して、より大きくより不気味に。禍々しくて迫力ある姿に。完成したそれは怪物か悪魔か邪悪の権化か。圧倒的なプレッシャーのせいか息苦しくなる。

 目にしただけで、今まで乗り越えてきた試練がちっぽけなものに思えた。


「……は、はははっ」


 力ない、全てを諦めたような笑いが漏れる。

 虚勢すら保てない。頑丈だったはずの使命感が簡単に折れていた。

 最早、魔物が手を下すまでもなく、精神的なショックで壊れそうな有り様だ。

 声が乾いて目は虚ろに。敗北感が満ちるのに身を任せ、少年は絶望に沈んでいく。






 ――こんなに辛いって知らないで、無責任な事言ってごめんね。


 ふと、憔悴した幼馴染の少女の顔と声が思い出された。


 いつも元気に笑っていた彼女が、親を亡くして泣き喚き、それからずっと塞ぎ込んでいるその顔を。

 慰めた。支えになろうとした。それでも足りなかった。今も彼女は痛々しい姿で無理をしている。それどころか逆に気を遣わせてしまう有り様だ。昔は考え無しに話しかけて傷つけてしまった、と。


 違うのに。謝らなくていいのに。

 かつて似た境遇だった自分は、彼女が強引に構ってくれたから救われたのだから。

 その時の恩はまだ返せていないのだ。笑顔が戻った暁には、彼女に言いたい事もあるのだ。


 だから死ねない。やり遂げるべき使命もある。


 あの笑顔を奪った元凶を、倒す。

 もう、奪わせない。世界を再び安心出来る場所に。

 だから、折れてなんていられない。無理矢理に直す。ツギハギのみすぼらしい見た目でも、立ち向かえるならそれでいい。


 少年の心は奮い立ち、不遜な笑みがその顔に浮かぶ。

 腕を背中に回し、体を押さえる腕を手探りで見つけ、そして全力を込めて掴んだ。


人間おれたちをナメるな……っ!」


 バキン。広間へ景気よく響いたそれは、真上にいる護衛の鎧の前腕部分が砕けた音だった。

 周りの魔物がどよめく。上の重石がなにやら喚く。金属がぶつかり合う音が響く。この場の空気全体が殺気だっていた。


「良いな」


 そんな喧騒の真っ只中を、嬉しそうな賞賛の声が通り抜けてきた。


「やはり良い。我の期待は正しかったようだ」


 異形の巨体が満足げに笑い、腕を振る。

 直後、少年の意識は真っ白な閃光によって刈り取られた。






 真っ暗な空間に少年はいた。

 背中には柔らかい感触。懐かしさすら覚える匂い。見なくても分かる。そこは自室のベッドの上だった。


「生きてる……?」


 呆けたように呟いたが、すぐに違うと思い直す。

 生かされた。見逃されたのだ。

 その事実が心に染み渡ると、彼は声をあげて笑った。屈辱だが生きているのなら、まだ機会はある。そんな前向きな思いで。


 壁の高さと厚さを肌で経験して、それでも尚、決意は曲がっていなかった。むしろ僅かだが手応えとつけこむ隙の存在を感じていた。

 情報が揃えば、人数が揃えば、勝機はあるのではないか。再び世界が変わる可能性があるのではないか。


 より強く、歴戦の戦士めいた強気の笑みをたたえて少年は誓う。


「絶対、終わらせてやる……っ!」




 そして、彼と彼が抱いた決意の行く先には、やがて多くの賛同者が並び立ち、後の世の人々によって延々と語られる大事件さえも待っているのだが――それはまだ遠い未来の話だ。

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