第25話 ありがとうは届かない

 リタが目を覚ますと、部屋はひとりだった。


「……エイトール?」


 名を呟いても、首を振っても彼の姿を確認できない。

 もやもやと、心の中に不安が生まれる。

 と同時に、ちょっと姿が見えなくなるだけでこんなにも不安になるなんて、と。

 自分がいかにエイトールに依存しているのかを自覚して、少し恥ずかしくなる。


「きっとトイレとか、そんな感じの理由でしょう」


 まるで言い聞かせるかのように呟いて、リタは着替える。

 今日は帝城に行かなければいけない。

 昨日のうちに渡された、少し豪奢ごうしゃなドレスに着替える。

 部屋に出て、食堂に向かった。

 テーブルの上にはこんもりと盛られた麦パン。

 そこにはクロッカスと、何人かのメイドが控えていた。


「おはよう、リム」

「おはようございます、叔父様。あの、エイトールを見ませんでしたか?」


 リタの質問に、クロッカスは柔和な顔を苦々しく歪めた。

 その反応に、胸の中の不安がうねる。

 きゅっ、と締め付けられた心臓。

 不吉な予感を浮かべたリタの前で、クロッカスはそれを口にした。


「エイトール君なら夜のうちに屋敷を出たよ」

「……え?」

「わかるだろ? 彼が……クレティカの王族がお前のそばにいたらいけないってことくらい」


 心臓がバクバクを喚き出した。

 混乱した脳とは別に、冷静な理性が叔父の言葉を咀嚼そしゃくする。

 新皇帝のそばに他国の王子がいてはいけない。

 その理由を、聡明そうめいなリタはすぐに理解できた。

 でも――。


「エイトール!」


 こんな別れ方なんてあったたまるか!

 その激情と共に、リタは弾かれたように外への扉に向かう。

 しかし――。


「行ってはダメだ、リム!」

「――っ!?」


 普段の叔父からは考えられない怒声に、リタの身体がビクリと跳ねる。

 伸ばした手が、ドアノブの前でピタリと止まっていた。


「なぜエイトール君が何も言わずに消えた!? その意味がわからないのか!?」

「で、で、でも……こんな別れ方なんて……」

「エイトール君だって辛かったはずだ! その気持ちをお前が台無しにするのか!?」

「――っ!」


 身体の痙攣が止まらなかった。

 まるで心の隅々すみずみから途方とほうもない孤独が押し寄せてきたかのように。

 喉の奥が乾く。

 目頭めがしらは逆に熱を持って、うるむ。


「エ、エイトールは、私を、たったひとりで、これまで守ってくれて……」

「知っている。彼は素晴らしい人格者だ」

「な、何も、私は、エイトールに、返せていないのに……」

報奨ほうしょうを与えると提案したが断られたよ。友達を助けただけなのにお金なんてもらってたまるかってね」

「そ、そんな……!」


 正確には数日分の食費を求められたが、クロッカスはそれを言わなかった。

 今この場において必要なのは納得だ。

 エイトールの意志を無駄にしてはいけない。

 その一点のみが、リタを説得する唯一の手段だと察したがために。


「伝言を預かっている」


 そう言って、クロッカスは黒い箱を差し出した。

 受け取ったリタは、震えた手でふたを外す。

 青い宝石が、シャンデリアの光を浴びてキラリと輝いた。


「――『お前と見た星空は、今までで一番綺麗だったよ』。彼はそう言って、この屋敷を出ていった」

「――っ!!」


 限界だった。

 リタは膝から崩れ落ちて、その宝石を胸に抱く。

 この世界で最も大切なものを抱きしめながら、リタは泣いた。


「……エイトール……エイトール……エイトール……っ!」


 何度も……何度も何度も、彼の名を呼ぶ。

 膝を着いた地面に、涙の海が広がっていく。


「……ありがとう、エイトール……ありがとう……ありがとう……ありがとう……っ!」


 届かないと分かっていても、何度もその言葉を呟く。

 本当に最後まで、何の見返りも求めなかった。

 本当に最後まで、友達だからという理由だけで守ってくれた。

 彼の友達でいられたことが嬉しかった。

 彼の友達になれたことが誇らしかった。


 その無邪気な声を想う。

 その綺麗な瞳を想う。

 その明るい笑顔を想う。

 その眩しい心を想う。


 もうとっくに大好きだった、エイトールのことを想う。


「……ありがとう、エイトール……っ!」


 己の生涯しょうがいの中で、最も大きな感謝を――。

 きっとこれからも、越えることのない感謝をエイトールへと捧げる。

 最後まで、何の見返りを求めることもなく守ってくれた。

 そんな友達が自分にはいたのだと、この世界の全てに向けて誇りながら――。


 ***


 エイトールはもやもやしていた。

 勢いで夜中のうちに屋敷を出たのはいいが、どうしても頭からリタの顔が離れてくれない。


「や、やっぱりもう一度だけ会いにいっちゃマズイかな……?」


 心残りで、再び屋敷へと足をむけそうになるが――。

 クロッカスにあれだけの啖呵たんかを切ったのだ。

 それでノコノコと戻るのは、流石に恥ずかしい。

 うーむ、と悩んでいると――。


「おい、兄ちゃん! 人の店の前で辛気臭しんきくさい顔をするのはやめてくれ! 客足が遠のく!」


 そんな感じで屋台の主人に怒られた。

 屋敷を離れたエイトールは街に出ていた。

 とりあえず朝食を取るためだ。


「お、悪いな、おっちゃん! 謝るついでにそこのリンゴを一個くれ!」

「なんだ、客かよ! それなら歓迎だ! ほらよ、一個十五ガルドだ!」


 投げられたリンゴを受け取りながら、エイトールは小袋から金貨を取り出す。

 屋台の主人は、ギョッと目をいた。


「おいおい! リンゴ一個を金貨で払うやつがどこにいるよ!」

「悪い! 今は金貨しか持ってねぇんだ!」

「なんだ? そうは見えねぇけど、もしかして兄ちゃんは貴族の坊ちゃんなのか?」


 ちょっと時間がかかるぞ、と言って屋台の主人は釣り銭の準備に入る。

 ジャラジャラと銀貨と銅貨を広げたその光景を眺めながらも、エイトールの頭の中はリタのことでいっぱいだった。

 と、そこで――。


「ねえ、あなた。わたくしにも彼と同じものをくれないかしらぁ?」


 エイトールの横から、甘い声音が響いた。

 顔を向けると、絶世の美貌を持った女性がそこに立っている。

 ただ見ているだけで、思わず屈服してしまいそうな美しさ。

 もはや暴力的と言っても相違そういない、圧倒的な美貌だ。


「お、お、おう。随分と別嬪べっぴんさんだな。一個十五ガルドだよ」

「あら、ごめんなさい。わたくし、今、持ち合わせがないのぉ」

「え? そ、そいつは困ったなぁ」

「だから代わりに隣の彼が払ってくれるらしいわぁ」

「なんでだよ!?」


 急に支払いを命じられたエイトールが全力でツッコむ。

 その抗議の視線を受けても、その美貌の女性は優雅に微笑んだままだ。


「なんで俺がお前の分も払わないといけないんだよ?」

「見物料、かしら? わたくしの美しさをこんな近くで見れたんだもの。リンゴ一個くらいの値段は払ってくれないとぉ?」

「はんっ!」


 己の美貌に絶対の自信を持つ女性。

 確かに自惚うぬぼれるほどの容姿ではあるが、そんな美貌を前にしてエイトールは鼻で笑った。


「悪いな、お姉さん! 俺に色仕掛けは通じないぜ! 世界一可愛い女の子と俺は友達だからな!」

「……へぇ?」


 リタの顔を頭に思い浮かべれば、目の前の美女の甘言かんげんなど通じない。

 そう主張するエイトールを見て、美貌の女性はあやしく笑った。

 蠱惑的こわくてきに、妖艶ようえんに。

 或いは、面白い玩具おもちゃを見つけた子供のように無邪気に。


「じゃあ、リンゴを買うのは諦めるわぁ」

「うんうん。何事も諦めは肝心かんじんだな」

「代わりにあなたのリンゴを半分わたくしにちょうだい?」

「全然、諦めてなかった!?」


 驚くエイトールを見て、美女はただあやしく笑った。

 その口元を半月のように歪めながら。

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