終章②

 あの日から、無量は小さな「お守り」を首にかけるようになっていた。

 それは「緑色琥珀」だ。別れ際に忍から渡された。

 ──これは昔、父さんからもらった。

 忍の父・悦史が、子供の頃、与那国島の浜で初めて拾った「緑色琥珀」だという。それがあまりにきれいだったのに感動して探し始めたのが、琉球古代文字を発見するきっかけでもあった。その浜は海底遺跡がある岩場に面していた。

 最初の緑色琥珀を父から譲り受けた忍は、今日までずっと、肌身離さず持っていたという。大神神社で忍が見せた「お守り」は、父の緑色琥珀だったのだ。

 大切な形見をもらうわけにはいかない、と無量は拒んだが、忍は無量に持っていてもらいたいのだと言った。

 ──おまえなら、きっと父さんがやりたかったことを成し遂げる。これを俺だと思って、持っててくれ。心は、ずっとおまえのそばにいるよ。

 今は消息が分からなくても、無量には信じることができたのだ。きずなは生きている、と。想い続ければ、いつでもあの頃に戻っていける。

 そして、未来を紡いでいける。新しい地層の上で。

 ──おまえがいてくれたから……。

 二上山のりようせんが、澄んだ青空をくっきりと切り取っていた。古墳の周囲の土からは、小さな草花が芽吹き始めている。

 春が近い。


    *


 萌絵の生活に「日常」が戻ってきた。

 花粉症と闘いながら、家と職場を往復する毎日だ。

 奈良への長期出張を終えて、東京の事務所に戻ってきた萌絵を待っていたのは、いつもの伝票整理と派遣業務だった。だがどうにも調子があがらない。手慣れたはずのデスクワークがなかなかはかどらないのは、いつの間にか「現場」の空気にんでしまったせいのようだった。

 暖房の利いた狭い部屋でパソコンに向かう。温かい珈琲コーヒーを飲んでも、何か満たされない毎日だ。

 真冬の寒風にさらされながら、ジョレンを手にして土と格闘していた無量の姿が、今は妙にうらやましくも懐かしくもある。萌絵はキーを打つ手を止めて、てのひらを見た。

「……はあ、土が恋しい。って、なんじゃこりゃ」

「おい。いつまでもダラダラしてんなよ。面接の予約とったのか」

「まだですけど」

「最近の若いもんは現場が続かないからなあ。せめて無量ぐらい熱心だといいのに」

「そうだ。所長。西原くんの次の現場は、どこなんですか」

「無量だったら、またコロラドに戻るぞ」

「え」

 思わず、椅子をって立ち上がってしまった。

「き、聞いてませんよ。いつからですか」

「あれ? 言ってなかったっけ。今回は一時帰国で、上秦の発掘が完了次第、また元の現場に戻る契約だったはずだぞ」

 萌絵は慌てて無量の契約書を見た。確かにそう書いてある。じゃあ、また海外に!?

「そんな……っ。一言もあいさつなしで行っちゃうなんて!」

「確か今日飛ぶんだよな」

「今日!」

「夕方のフライトだったな。十六時四十五分のロス便」

 時計を見ると午後一時半だ。もうあと三時間ほどしかない。仕事もあるし、とても間に合わない。すると、おろおろしている萌絵の顔色を眺めていた亀石が、にやりと笑い、

「……あー、しまった。接待用の茶菓子切らしてるんだよな。明日あしたとっても大事な客が来るのに。そのひとなりさん名物のようかんが大好物で」

「な、成田山ですか。羊羹ですか」

「確か空港でも売ってんだよなあ。お得意さんだから、機嫌損ねると大変なことに」

「わ、私、買いに行ってきます、成田に! 仕事は帰ってきたら残業しますから」

 萌絵は大慌てでカバンをひっつかむと、飛び出していく。見送った亀石は、まゆを下げてニヤニヤしながら、しきりにあごひげでている。

「……若いねえ」


    *


 京成電鉄の改札を抜け、スーツケースを引く旅行者を次々と抜かしながら、萌絵はようやく北ウィングの出発ロビーへと辿たどり着いた。

 成田空港第一ターミナルは、夕方のフライトを控えた搭乗客でにぎわっている。航空会社のカウンターが並ぶロビーには、搭乗案内のよそゆきなアナウンスが流れている。萌絵は雑踏をかきわけて、大急ぎで、無量が指定した待ち合わせ場所に向かった。すでにチェックインを終えた無量は、パスポートと搭乗券を右手に持ち、小さめのリュックだけを足元に置いて、ロビーの椅子に腰掛けていた。

「間に合った……! 西原くん!」

「なんだよ、いきなり」

 相変わらず無愛想だ。物言いにはいい加減慣れても、やっぱり、むかっとする。

「なんだよじゃない。なんで一言もなく行っちゃうわけ」

「別に一生戻ってこないわけじゃないし。それにあんた仕事だろ」

「仕事だけど、挨拶ぐらいしてから行きなさいよ!」

 はいこれ、と萌絵が差し出したのは羊羹だ。無量はきょとんとした。

「なにこれ」

「おせんべつ

「って、羊羹はないんじゃね。どこのばばあだよ」

「こんなに急に行っちゃうなんて思ってなかったんだから、仕方ないでしょ」

 顔を真っ赤にして、萌絵はずっと言いたかった一言を、口にした。

「あ……ありがとうね」

 無量も、ちょっと驚いた。

「な、奈良では色々迷惑かけちゃったから。ごめんね。でも、頼もしかった。西原くんがいてくれて、あたし……その……」

 自分ひとりでは何もできなかった。ひとりだったら途中で逃げて帰ってきていたかもしれない。

「西原くんがそばにいてくれるだけで、どんなに心強かったか……」

「おあいこじゃね?」

「え?」

「あんた、すげー強かったし。あのハイキックとかマジやばかったし。こいつだけは怒らせないようにしようってマジ思ったわ……」

「そ、そっち?」

 ありがとな、と無量がぶっきらぼうにつぶやいた。萌絵は「え?」と目をいた。

 無量も照れくさいのか、目線をそらしながら、鼻の頭をかきつつ、

「あー……だから、こっちこそ色々悪かったし。身内のあれこれ巻きこんじまって」

「う、ううん。てゆーか、私……」

「忍の分もいっとくよ。あんたでよかった。ありがとな」

 と言った時、無量が初めて真正面から萌絵を見て、笑った。

 不意打ちをくらった萌絵は、次の瞬間、意味もなく顔がカアッと熱くなってしまった。なにその笑顔。なにその上目遣い。なに? なに? なに?

 ずきゅんってキタ、今!

「あ、やべ。もう行かないと」

「あの、あの、ささささ西原くん」

「なに、さささって」

「次に日本に戻ってきたら、あの、その……っ」

 無量はリュックを背負って、萌絵を肩越しに振り返った。悪戯いたずらっぽい眼をしている。

「どーでもいーけど、俺のマネージャーやんなら、もっと勉強しといてよ。せめて現場で邪魔になんないくらいに」

「ちょ……っ、西原くん」

「じゃあな」

 と後ろ姿のまま、パスポートを挟んだ右手をひらひら振ると、ゲートへと去っていってしまう。あまりにも素っ気ない出発を、萌絵は拍子抜けした気分で見送った。いや別にドラマチックな何かを期待して駆けつけたわけではないが。この素っ気なさが、無量らしいと言えば無量らしいのだが。

 必死に追いかけてきた自分と、あまりに温度差がありすぎる。

 雑踏に消えていく後ろ姿へ、萌絵は肩を落としながら脱力気味に手を振った。……うん、わかったよ。西原くん。じゃあね。またね。

 そして、自分の手を見る。あの宝島で、無量に摑まれた時の感触が、妙にありありと残っていた。

 れた軍手に覆われた『鬼の手オーガ・ハンド』は、存外に温かく、優しかったことを思い出した。

 これはもしかして、運命というやつだろうか。

 そういう道を行きなさい、という神様のみちびきだったのかな。

 そんな萌絵のカバンには、今、こっそりと発掘調査の実技本が入っている。……うん。西原くんは否定するかもしれないけれど、私はやっぱりワクワクしたよ。あのどうくつで、彼が振るうハンマーが掘り出すものを待ちながら、何が出るのかって、子供みたいにワクワクした。

 あのワクワクをまた味わってみたい。

 できれば、彼の隣で。


宝物トレジヤー・発掘師デイガー……か」

 萌絵は、右手を高く掲げ、窓にかざしてみた。

 指と指の間を、飛行機が飛び立っていく。

 この手は今も、『鬼の手』とつながっている。

 そんな気がしていた。

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遺跡発掘師は笑わない ほうらいの海翡翠 桑原水菜/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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