44 告げることば


 「いやだわ。先生、何も悪くないじゃない。怖いわ」


 母親が週刊誌片手に青ざめながら声を震わせる。


「子どもの悪ふざけでしょう? 頼成先生、とてもいい先生だって評判だったのに」


 しばらく前に淹れた紅茶はすっかり冷めきっているが、彼女はまだ飲む気になれないらしい。机を挟んだ正面に座る夫に意見を求めた。


「先生が事情を公にしたことで、子どもたちの間でいじっていいのかなって空気になったのかもしれない。先生はうっかりで、勘違いだけど。秘密を守ってやれなかったのも事実だな」

「でもあなた、そんなの、仲間内だったら気も緩むでしょう」

「気持ちはわかる。俺もやりがちだし。だがな、悪気のない出来事で人は傷つく。それが分かるものなら、人間はもっと違う生活が出来ているよ」


 夫はコーヒーカップを手にして湯気を揺らした。


「でも、だからって殺すことないわ。どうしてそんなことを……。最初は、先生と出会ってこの元生徒も前向きになれたのに」

「ああ。良い出会いだったはずだよな」


 母親はようやく自分の前に置いたカップを手に取り、複雑な表情のまま紅茶を飲み込む。夫も彼女に倣ってコーヒーの香りを口内に広げた。

 向かい合って議論する両親をちらりと見た後で、新太は廊下を歩く透を呼び止めた。


「新太、そんなとこで何やってんの」


 リビングに入ろうか悩む素振りを見せる新太に気づき、透が目をぱちくりさせる。


「今、事件の話してるから入りづらくって。ほら」


 新太は包帯を巻きつけた腕を軽く上げ、気まずそうにリビングに視線を寄こす。


「ああ。そっか。母さんたち、なんて話してた?」


 鹿島が逮捕された当日、新太たちが鹿島を捕らえるために動いたことがそれぞれの保護者にばれ、特に大怪我をした新太は父親からこっぴどく叱られたところだった。

 正義感はいいが、無茶をしたら意味がない。

 彼らが子どもたちを心配していることはいくら鈍感な人間でも分かっただろう。新太と透は素直に謝り、今後は何か問題があればすぐに家族に相談することを誓った。


「先生と鹿島の出会いは良いものだったはずなのに、どうしてこうなっちゃったのかな、って嘆いてた」


 新太は仲良くカップを持ち上げて微笑み合っている両親を見やる。


「でも本当。実際に鹿島はよく笑うようになってたみたいだし、意外なようにも思えるよな」


 両親が事件のあらましを聞いて苦い反応をするのも腑に落ちた。新太は軽く肩をすくめて彼らの意見に共感する。


「気を許しすぎちゃったのかも。互いにね。先生も、鹿島も」


 透は新太と一緒にリビングを覗き込む。新太はいっそう難しい顔をした。


「ボーダーラインが難しいな」

「そんなもの、あってないようなものだし」

「まぁ、そうか」

「そう。個人差があるでしょ。さらに鹿島は先生に希望を見いだせた。話を聞いてくれて、なんでも包み込んでくれるだろ、先生。それで、はじめて頼れる存在が近くにいて、世界が変わったんだろう。だからますます、先生に期待しちゃったんだ」


 透の話に新太は記事になっていた鹿島の実家の話を思い返す。父親に愛されていないと幼い頃から思い込み、成長した暁に父親の態度が柔和したかと思えば一気に蔑みの対象になる。人間不信になるのも無理はない環境かもしれない。ただそれを理由に人を殺していいのかと問われれば言葉に詰まる。


「あら。あなたたちそんなところで何してるの? もう、内緒話は怖いからやめてよ」


 二人の存在に気づいた母親が表情を明るくしてくすりと笑う。


「コーヒーのいい匂いがしたから。俺も飲んでいい?」

「おお、どんどん飲め。俺のコーヒーは絶品だからな」

「異論はないよ」


 透は父親の得意げな顔に頬を弛ませる。リビングに入っていく透の後ろで、新太はまだその場に留まっていた。


「新太くんは、どうする?」


 母親が迷っている新太に微笑みかけた。


「今日は、紅茶を飲んでみようかな」


 優しい声がなんだか歯痒かった。新太は力の抜けた笑顔を返し、母親のもとへ歩いていく。




 鹿島の逮捕劇から十日が経つ。今日は、全校集会で新たに生徒会長となったサシャの挨拶がある。集会は朝一番に始まるから、出来れば遅刻は避けたい。


「新太」


 玄関で彼を待つ透が階段の上に向かって声をかける。


「悪い悪い。ちょっと包帯が上手く切れなくてさ」


 ばたばたと慌ただしい足音とともに階段を駆け下りてきた新太は、換えたばかりの包帯をぽんっと反対の手で叩く。刺激するとまだ痛みがあるのだろう。自分で叩いた後で、小さく「いてっ」と声を洩らした。

 事件が落ち着き、区切りがついた今、怪我人の新太を一人で登校させるのも忍びなく、透は家を出発する時間をずらして新太と一緒に登校するようにしていた。

 新太は気を遣うなよ、と言っていたが、内心は嬉しそうなことが表情に現れていた。


「サシャ、どんな演説するかな」

「さぁ。すごく気合いが入ってたことだけは確かだよ」

「事件も解決したし、あいつも少しは気が楽になったかな」

「一時は犯人扱いされるところだったからね。そりゃすっきりしてるんじゃない」


 鹿島が捕まった翌日に会ったサシャの晴れやかな笑顔を思い出し、透はくすりと笑う。

 事件の解決に新太たちが一役買ったことは大々的には言わなかった。が、やはり噂とは恐ろしいもので、こぼした液体のように遠慮なく、ぐんぐんと染み渡っていくものだ。

 今では新太たちが何かしらの面で逮捕に協力したことは、校内での常識となっていた。


「目白くん! 桜守くん!」


 集会のために教室に寄らず、直接講堂に向かう二人を途中で呼び止めたのは芙美だった。彼女もバックパックを背負ったままで、つい先ほど登校したばかりのようだ。


「芙美ちゃん、おはよう」

「おはよう、生天目。あれ? 鞄、新しくした?」


 透に指摘され、芙美は背負ったバックパックを二人にジャーン、と見せつける。


「うんっ。もうボロボロだったからね。あれ、中学の時から使ってたんだよ」

「そりゃ年代物だな」


 新太が嬉しそうに話す芙美を称えるように呟く。

 鹿島に迫られた時の恐怖に支配された表情とはかけ離れた彼女の今の笑顔は、何度見ても新太の心を和ませてくれた。


「貯金してたんじゃないの?」


 透が足を進めながら芙美に訊ねる。


「うん。そうだけど。あのね、わたし、バイトを始めたんだ。だから、気合いを入れ直すためにも心機一転したくて」


 透たちと並んで歩く芙美ははにかみながら答える。


「バイト?」


 まさかまた新たな投稿をしているんじゃないよな。

 新太がそう不安を覚えた矢先、二人の警戒心が伝わったのか芙美が慌てて首を横に振る。


「違うよ! もう裏垢系女子への投稿は止めたの。アカウントも削除した。もう、未来永劫戻らないよ」

「え。そうなの?」


 透がきょとんとする。


「もちろん。嘘なんかつかないよ。桜守くん、サイトを見て調べてくれたってかまわないからね」

「えっ⁉」


 突然名前を出された新太は特に後ろめたいことは一切ないのに挙動不審に目を泳がせた。


「なななな、そんなの、俺、見ないからっ」

「新太、必死で否定すると怪しすぎるよ」


 透は他人事のように呟いて芙美と笑い合う。


「なんだよ。本当に見てないってば。それより芙美ちゃん、じゃあ、バイトって?」


 話を軌道に戻そうと新太はコホンと咳払いをしてみせた。


「ガーシュインカフェだよ。前に、頼成先生もあそこの店主は気前がいいからバイトにお勧めだって教えてくれたし。実際、すごくいい人なの。来てくれたらサービスするから、遊びに来てよね」

「へぇ。なんか楽しそうだな」

「ふふ。でしょう? わたしね、思ったの。二回も死にかけてさ、でも、どうにかまだ生きてるの。だから、それならね、もっと未来を大事にしてもいいのかもって」


 新太の言葉に芙美はふわりと微笑んだ。講堂についた三人は空いている席に並んで座り、新生徒会長の登場を待つ。割れんばかりの拍手に迎えられ、舞台に上がったサシャは全校生徒と教師陣をゆっくりと見回し、すぅっと軽やかな息を吸い込む。


「おはようございます。紹介に預かりました、秦野サシャです。これから、生徒会長として、この学校をより過ごしやすく、豊かな場所にしていきたいなと考えております」


 政治家を思わせる伸びやかな声が講堂に響くと、新太たちは新しい風が吹き込んでくる気配を感じた。

 前に講堂に集合した時とは違い、この場の空気が輝いているようにも思える。

 集まった生徒や教師に変わりはないのに、まったく違った景色が見えてくるのだ。

 良い変化なのか、悪い変化なのか、今はまだ判断がつかない。けれど、心地良いものであることに違いない。


 その日の放課後から、事件に区切りがついたということで学校内には頼成の献花台が設けられた。

 長らく立ち入り禁止だったメディア室も整備が終わり、久しぶりに足を踏み入れることができた。

 頼成の献花台は屋上に続くステンドグラスの踊り場に用意されている。確かにこの場所は、校内の他のどの場所よりも色があって美しい。加えて、一番上にあるものだから、生徒たちの笑い声がよく響いてくる。生徒たちを誰よりも可愛がっていた頼成を悼む場としてこれ以上の場所はなかった。


 放課後、近所の花屋で買った花束を手に新太と透も献花台を訪れた。既にたくさんの花束が飾られていて、写真に写る生徒に囲まれて笑う頼成の顔が隠れてしまいそうになっている。


「事件は解決しても、先生は戻ってこないもんな」


 新太は分かりきっていた現実を寂しがるように情けなく頬を崩す。


「ああ。でも、犯人は見つかった。犯人が裁かれずにいるよりもずっとましだと思うしかない」

「そうだな」


 散々犯人扱いされた第一容疑者の透に対し、警察関係者からの謝罪は一切なかった。しかし透はそんなことは気にしていないようだ。花束を崩れなさそうな場所に置き、静かに手を合わせる。が、すぐに瞼を開けた。


「どうした」


 透とは違う場所に花束を置いた新太が問いかける。


「言葉が浮かばない。先生に感謝を伝えたいのに。なんて言えばいいのか、分からないんだ」


 透は静かに瞳を震わせていた。伝えたいことがありすぎて、感情の整理が追いついていないのかもしれない。新太は珍しく放心状態の透の肩をポンッと叩く。肩の力を抜けよ。そう伝えたかったのだ。


「シンプルでいいんだよ。こういうのは、聞き慣れた言葉の方が伝わるはずだろ」


 新太はニヤリと笑い、こちらに注目する透の視線を意識したまま手を合わせて頼成の写真を見る。


「千利休は言った。小さな出会いを大切に育てていくことで、人生の中での大きな出会いになることもある。だから俺は、先生との出会いをこれからも育て続ける。人は死んでも、その人の影響は死ぬことはない、って、キング牧師も言っていました。だから俺は、先生への感謝を、ずっと忘れません」


 清々しいほどにはっきりとした新太の挨拶に、透は目を丸くした。


「千利休……キング牧師……」


 歴史が苦手な新太の口から出たとは思えない名前に驚いたのだ。


「先生は歴史の教師だぜ。こういった言葉には馴染みがあるだろ。俺の想いにもちょうど合う。流石は偉人。偉大だな」


 軽くウィンクをしてみせる新太の飄々とした笑みに、透は「はぁ」と相槌を打つことしかできなかった。


「頼成先生は俺たちの背中を押してくれた。さり気なく、いや、大胆にかも? とにかく、助けられたことは間違いない」

「……だな」


 新太の言葉に同意した透は改めて頼成の写真に目を向ける。


「俺は、先生みたいに、誰かの希望になることはないんだろうな。新太みたいに豪快な明るさも持ってないし」

「お。どうした突然弱気になって」

「花束の山のせいで感傷的になってるのかも」


 透は息を吐いて肩の力を抜こうとする。しかし空気が抜けていくだけで、形容しがたい心のさざめきは消えなかった。


「まぁ気持ちはわかる。頼成先生も偉大だったし。でもな透、そんな弱気になることもないだろ」


 新太は満月の下で見た透の顔を思い出す。言いづらい告白を、それこそ頼成のように黙って吸収していた。憐れむわけでもなく、慰めるわけでもなく、励ますわけでもなく、ただ話を聞いて、傍にいてくれた。あの日のことを、新太が忘れたことはない。だから彼は、透が無用の心配をしていると確信できたのだ。


「そうかな」

「ああ!」

「……そうだといいな」


 透は今朝、舞台上で堂々と演説をしていたサシャのことを思い出していた。

 彼女に言われた言葉を、少しくらいは信じてみてもいいのかもしれない。

 透に気を遣ったのか、新太は献花台に続く階段に座って待つ。

 透は改めて手を合わせ、頼成への感謝を心で告げる。新太ほど気の利いたことは伝えられなかった。けれどそれでもいいのだと、数分前よりも気は楽になっていた。


「っと、そろそろ行くか」


 吹奏楽部の演奏が聞こえてきたところで、新太が階段の下に意識を向けて呟く。今日はこれから瑞希たちと待ち合わせをしていた。彼の家の庭園が整備され直す前に、そこでパーティーをしていいことになっていたからだ。

 瑞希と芙美、メディア部のメンバー、都合が合えばサシャ。あとは、数人の友人たち。

 頼成との思い出を語りつつ、大変だった日々を労い合うためのパーティーだ。

 新太に言われ、透も献花台を後にする。階段に座り込んでいる新太の腕にはまだがっしりと包帯が巻かれていた。セーターが暑いのか、腕捲りをしているせいでよく目につく。やはり見ていると痛々しくなってくる。


「親たちが言ったみたいにさ、やっぱり、身を挺してまでのめり込まなくてもよかったのに」


 彼が鹿島逮捕に躍起になっていたのは、芙美の件も勿論ある。が、何よりも発端はまず自分であることを自覚している透は、どうしても罪悪感が拭えなかった。


「そんなの気にすんなって。スリリングでなかなかいい経験になったし」


 平気な顔をして笑う新太にはどちらかと言えば達成感が見てとれた。


「友だちのためなら怪我くらいどうってことないって。いや、待てよ。もしかして、これは家族愛、ってやつ?」


 何かを思ったのか、新太が真面目な顔をして透を見上げる。


「多分だけど、どっちもじゃない」


 透が素っ気なく答える。本当は、彼が最初に動き出した原動力が何だったのか、察していないといえば嘘になる。


「なぁ透。俺たち、今、家族だよな。ほんのちょっと前まで、友だちですらなかったのに。これって、良い出会いだったのかな?」


 新太の問いには、先日リビングで話していた両親の言葉が含まれていた。頼成と鹿島の出会いは、客観的に見れば良いものだったはず。それは新太も思っていたことだ。ならば自分たちはどうなのか。透の心境が読めず、ふと聞いてみたくなったのだ。


「出会いって言葉は甘美なものだけど、必ずしもいいものとは限らないしねぇ」


 透が一度ステンドグラスに目を向けてから答える。ぎくり、と新太の心臓が嫌な音を立てた。


「この出会いがどうなるかなんて、分からないよ。でも、確かに言えることは、これは変化だってこと。確実に、変化はあった」

「いい変化?」

「そんなの自分で結論づけてよ」


 透は呆れたような目で新太を見る。


「それはいいからさ。東泉たちが待ってるよ」

「あ、ああ」


 この子犬を思わせる眼差しを見るのがなんだか久しぶりな気がする。冬の陽日が瞳に飛び込んでいた。透は自分から目を離そうとしない新太に向かって手を伸ばし、にぃっと口を横に開いて笑う。


「じゃあ行こう、兄さん」


 手を掴み立ち上がった新太は、さっさと階段を下りていこうとする透の背中をポカンと見つめていた。


「行かないの? 新太」

「えっ。今、兄さんって」

「なんのこと」

「えっ。えっ」


 すたすた歩いていく透を、新太は慌てて追いかけていく。さっきまでジグザグと不器用に動いていた心臓が、今度は驚きと喜びの狭間を飛び跳ねている。


「ちょっと、待てって、透ー!」


 一応怪我人なのに。

 そう思いながら、新太は軽やかに透の後に続いた。

 階段を下りる途中でしぶしぶ新太のことを待つ透の姿は少し離れた場所にある。にもかかわらず、満月の日に隣で語り合った時よりもずっと近くに感じられるのだから、変化というものは実に素直で、不思議なものだ。


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容疑者は俺の弟らしいって 冠つらら @akano321

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