2話目―― 箱舟


御免ごめんください。御免ごめんくださいな」

 男の野太い声が、半醒半睡はんせいはんすいの私にはかたよって聴こえてくる。無論むろん億劫おっくうなので狸寝入たぬきねいりを決め込む。だが、どうも諦めない男の声質にはやはりかたよりがあって、また門戸もんどつづみのように叩くので助長され、私は苛立ちを隠せなくなっていった。


 「ああ、今出るから静かにしてくれ」

 そして遂に癇高かんたかぶり、上体を起こす。眩しさに目をかすめる。縁側への障子戸が開いたままだ。はて、と昨夜の事を思い出し、ふと床框とこがまちに目をやった。城壁固めの惨状さんじょうを見、あれは夢ではなかったかと落胆するまでがみちである。

仏間から出る時、一枚の掛け軸に目がとまった。其れは海面から二つ岩が顔を出し、注連縄しめなわで繋がれている夫婦岩めおといわである。そのじくは、そういえば版築仕上はんちくしあげに使ったので、縦になった座卓ざたくと、枕との隙間をだらり埋めている。


 いや、にもかくにもだ。私は門戸へ急いだ。廊下を行き、戸を開ける。すると、巨樹のようにたくましい男が一人、私をまじまじ見降ろした。彼は全身浅黒く、筋骨隆々きんこつりゅうりゅう体躯たいくで、黒の袖なし肌着一枚姿で突っ立って。また彼のつぶらな瞳には、なぜか私に対しての驚きが宿る。違う、驚きたいのはこちらであるという思いで「何用か」と尋ねると、さらには「どちら様で? 」と尋ねてくる始末しまつだ。

 「其れはこちらの台詞せりふだが」

 すると昨夜胃に入れた酒精しゅせいが腐ったか、男は臭いを気にする仕草をし、「頼子よりこさんは? 」とそっぽを向いた。

 「頼子よりこだと? 」

訪問先を誤ったのか? しかし近隣に家屋はない。


 男は、私が邪魔だと云わん様子で、其の丸太のような体躯を伸ばしたり傾けたりし、我が家を覗こうとしている。だから私も彼に合わせ、右、左、と動いてやる。二、三、四、と重なったところで男はむすっとし、「あなた。頼子さんと関係が? 」とようやく私を見た。

 時に天川が、旧家主の老婆の名を口にしていたことを想起する。其れで、「前に住んでいた老婆の事か? であれば、他界したと聞いている」と告げた。すると男は溢れん眼球で唖然とし、沈黙したままなので続け、「私は老婆とは無関係だ。用は済んだようだね? ではこれで」と一礼して戸を閉めようとするものの、妙ちきりんかな、戸が一寸とも動かない。

懸命に、さらに全霊を双手もろてに込めようとも、びくともしない。息の上がった私は残念なことに風前の灯火だった。なんと男が片手で戸を抑え、泰然たいぜんとしているのである。

 「そう、其れで。だからお線香の香りが」

男はもう片方で私を押しのけると、遠慮もなく、家へ上がり込んでくる。


 「おい、君。待ちたまえ。待ちたまえよ」

 不法侵入だと脅そうとも、彼の足は躊躇ためらうことなく廊下を滑りゆく。私は呆気に取られる、が彼は仏間に消えたので、まずいとく、ゆく。直感したのは、昨夜の怪のことであった。あれを見られて由々しきとは云わんや、しかし釈明を求められては面倒だ。

 「おい、待て! そこは! 」

 叫び、敷居に立った私は、光景に目をうたぐったのだ。正座をし、手を合わせ目を瞑り、至心ししんに拝する男の姿がそこにはあった。彼は例の床框とこがまちに向かい、まさに仏の心拍で、祈りを捧げているのである。

 だから私は束の間、祈っておる彼のかおを、仏像と見紛みまごうたのは、断じて法螺吹ほらふき話ではないのである。時に、祈る顔面がんめんが光を放っておれば、遂に私にも聖者の身姿が見えるようになったかと早合点してしまうのも無理はないであろう。或いは、昨夜来の酒精がしつこいか。

私は冷ややかに咳払いし、気をりなした。


 あるまいよ。彼を照らす光の正体は、やはり花輪かりんである。夫婦の掛け軸がひらり落ち、城壁からは輝きが出でて、祈る男を仏顔に化けさせているのである。騙されてはいけない、と気丈になる根底には、やはり花は夢でなかったかと落胆するまでの礎石そせきがある。私は、観念した。

此奴こやつに見られた。最早、隠せまいと。


 自己辯護じこべんごを含ませるように、「ふん。妙な花を拝めば瑞兆ずいちょうを呼ぶか? 」と尋ねてやる。続けて、「まあ。なるほど珍妙な花ではあるが」と。昨晩、咲いたものでな。私も驚いたのだと、しかし包み隠さず教鞭をとってやろうと云うのにだ。いま瞑目めいもくし拝するこの男、図体に反して、然許さばかり小さき双手もろて接吻せっぷんしたままで、「頼子さん。最期に立ち会えなくて御免なさい」と口にした。私の話を諸共もろともしない姿勢に、私はあざやかな眩暈めまいにみまわれる。


昨夜は怪しい花が咲き、翌、見ず知らずの男が家を冒して花に祈っている。彼の声にはかたよりを感じ、肉体美ならば艶々しいさま、同性とて目が留まる程だ。どうも小賢こざかしい。ところで一体全体、君は誰なのだ。


 「君、いい加減にしてくれたまえよ。仏壇でもあるまいし」

 其れは私の声がえんやらやっと、彼の耳に達した瞬間であった。

 「え? お仏壇でしょう」

 「違うな。花だ」

 「花? 」

 男は怪を察したのであろう。困惑した様子で、「やだ、眩しい! 」と、初々しく手翳てかざししている。私が机を退しりぞけたことにるのだが、この時の男の態度にて、私はなるほど得心とくしんをした。声色のかたより。この雄々しい肉体の隠す、いうなれば婀娜あだっぽさ。

この男、男色家なんしょくかか。

 自惚れた私だったから、其の手の道楽は持ち合わせていないぞとえりすそす ぼめたこと、実に稚拙ちせつであったろう。相手にも、裁量さいりょうの権はあると云うのに。

 ともかくだ。放たれた花は、光線を散らす。ここのつの花弁が、燦々と開いている。

 「綺麗な花ね。不思議な、花ね」

 男。少女の様、まじまじと感嘆する。寄って来て。私の足元で。

 「でも、おかしいわ。先までは、きちんとお仏壇だったのに」

 私はぎょっとした。れ彼の床についた手が、偶然にも私の足指に触れたからではない。見紛みまごう、目を幾度もぱちくりとする。光を受ける彼のかおが、粉黛ふんたいよそおう白い顔へと変化へんげしてゆくのは一体どうしたことであろう。しかしさらに勢いづき、荒事芸あらごとげいの如くの化粧。伏せ目がちの瞼に金箔粉。やがて目頭に現れた星の流星群が、目尻へと流れてゆく。


 私は一つ咳払いをし、万年床を寄せて座布ざぶとした。一つ落ち着いて、して、述べた。

 「私は、酉籠とりかご 惣一郎そういちろうと云う。さきの、頼子という旧家主とは、面識はない。私は縁あって、借宿かりやどをしているに過ぎない分際ぶんざいだ。して其方そちら、名は? 」

 私の態度に感化されたのか、男は舞台演者ならぬ形相、京劇きょうげき若衆わかしゅう(と云う年齢や体躯たいくにはあらずだが)ともとれる化粧面けしょうづらをこちらに向けると、かしこまって言う。

 「ミスグロリアス・ノアよ。ノアと呼んでくれて構わない。頼子さんもそうだったし」

 「すまない。もう一度」

 「ミスグロリアス・ノア」

 「ミスグロアリ」

 「違う。グロリアスよ」

 訂正は三度に及んだ。

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天陽白花 玉宮妃夏 @tamahina

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