未題(四編揃ったのち、改めて付ける)

杜松の実

躑躅

 ざぶざぶと降りしきる。日の長い折の夕立であるから、辺りがどんよりと薄明るい。河堤の東屋に、雨を凌ごうと駆け込んだ男女が居た。歳の頃なら二十歳はたちやそこらに見える。梅雨明けと知って気が緩んでいたのであろう、二人して傘はない。浴衣が絞れる程にぐっしょりと濡れている。

 長板に四つ足を付けただけの簡素な物に並んで腰かけ、男の方が懐からラジオ取り出しアンテナ伸ばしダイヤルを回す。ジーザザッというノイズの後、何やら人の声も聞こえるがそれもノイズに酷い。

「やみそうにないですね」

 と女が口を開いた。

「ごめん。少し待っておくれ」

 天気予報でも聞こうと言うのか、男はラジオの側面を、たんたんと掌で打ち付ける。

「ちがいますよ。ほら」

 と女は廂の先、真黒い雲を指さす。男は顔を上げ空を見、濡れた女の指先から女の横顔、また空とまなこが移る。

「うん、暫く止みそうにないね」

 男は変わらずザラザラとノイズを拾うラジオを傍らへ転がし、両の手を後ろに突いて背が緩み、やや顎が上がって何の気も無しに軒が目に入る。

「あっ、ひかった」

 何処かで雲の中に光が走った。二人して心内で数を数える。一、二の……七、八、九まで数えて男の方は切り上げた。と、間も無く雷声が聴こえる。

「遠いな」

「ですね」

 風が出ている。たまたま風上に座った女の足に靡いた雨粒が当たる。雪駄に覗くペディキュアは雛芥子ひなげしな赤である。雫はそのつやびいた赤を、つうっと転がる。

「くしゅっ」

 女がくしゃみをした。

「寒いかい?」

「いえ。ちょっとだけ。すみません」

「いいや。しかし、どうしようか?」

 男は立ち上がって振り返り、女やその周囲を見回すばかりである。

「そうだ。待ってておくれ。走って、傘やなんか買って来るよ」

 と男は身を返そうとする。

「え、待って! ください。買ってくるって、あの、どこまで行くつもりですか?」

「……駅、とか? その辺まで行けば何かあるだろう」

「行って帰ってだけでも一時間はかかるじゃないですか。いやですよ。そんなに一人にしないでください」

 すっと見据える女の目に男は納得し、「そうだね」と返しては、女の隣に帰って座る。

「一時間もしたらやみますよ。夕立ですから」

 雨をさしてからりと告げる女に、男の心持は随分と軽くなる。

「うん。そうだね。……。いやあ、参っちゃったね。こんなに降られるとは。びっくりしたよ」

「急でしたね。いっきにざざーって」

 これだけの湿気の中でも乾きを覚え、女はぐっと唾を飲んだ。いずい感触に、頬に張り付く濡れ髪をそっと耳へと掛ける。

「……。……。ごめんなさい。やっぱりちょっと寒いです。べつに全然平気なんですけど。でも、あの、ちょっとだけ、くっついてもいいですか?」

 女は無理と分かって言っており、捲くし立てるように早口となっている。男の方はこれをくらって動揺し、

「ええ? くっつく? それは、どういう? ああ、あの柱にかい?」

 目が泳ぐ。恥ずかしさと嬉しさが声に乗らないようにと努めたいが、どうにも上気になる。到底、女の顔なんぞ見てやることは出来ないが、女としても見られて困るほどに赤らんでいる。

「ばか、ちがいますよ。蝉や蛞蝓じゃないんですから、そんな所にへばりついたりしません。くっつくって言っても背中どうしで、こう。なんて言えばいいんでしょう? いや、ですか?」

「嫌? ううん。全然。そんなことはない。ただね、よく分からなくて」

 激しい雨音に河を下る轟音が混ざっている。堤の上からでは、川面の方は葦やら芒やらに阻まれおよそ見えない。晴れた時分であれば様子も異なるだろうが、この暗と雨烟が一入ひとしおに遮る。畢竟、霞む轟音だけが川面の便りと届けられる。

「じゃあ、ちょっとやってみますね」

 と女は立ち上がる。

「くっついたりはしません。こんな感じですよっていうのを」

 長椅子を回って男の背面へと来、男と互い違いになるように背中向けて座った。それは三四尺ばかり、ちょうど肩と肩が重なり合うような具合で、それでいて触れ合わないでいる。

「このままもたれてもいいですかっていう」

 男は少し首を回して僅かに見やると、おもむろに正面にかえった。

「ああ、いいよ」

「ありがとうございます。じゃ、失礼します」

 女は男の肩に己の肩を預けて凭れる。男がそれを腹に力を込めて受け止める。肌と肌の間にあるのはぐっしょりと濡れた二枚の浴衣ばかり、重なった折にはうっと冷たく感じられたが、程なく二人の熱は濡れた浴衣に通じ合い緩けて整う。男の方もふっと力を抜き、女が掛けるその身に合わせて、己を女に預けることにする。しかし、支え合うのは肩のみであるから、二人して己のその全体重を相手に預ける訳にはいかず、いくら相手を信じて預けようか、どれだけは自分でその身を保つべきかと、その勘定に緊張が起こる。

「あの、ひとつ質問してもいいですか?」

「何だ? 構わないよ」

 互い違いにあっちとこっちを向いて、耳だけは背中の方へそばだてる。

「ひまなので。じゃあ、先輩って――。キスとかしたことあるんですか?」

「ふんっ。面白いこと聞くね。無いよ。何だい? してくれるのか?」

 女は眉間に立てた人差し指を当て、えー、うーん、と考えてから、

「まあ」

 とだけ答えた。

「まあ、って何だよ。まあ、ってのは」

「まあ。先輩ならべつにいいですけど?」

 遠く、もはや音さえ伝わって来ない空で光った。雨は今が盛りであると地を打ち付け、泥を跳ね上げる。詩人、石原吉郎は言う。今という存在しない感動の瞬間は人間の決断の中にだけ存在すると。「今だ」と直感し立ち止まり、そこに新たな戸口を見いだす時だけが〈今〉なのだと。またも彼方かなたで光る。今度は稲光として落っこちたようだ。しかし、空も雨も気に掛けていない東屋の下、二人にとって、こんな描写は必要のない物である。

「お前は良い後輩だな。そんなに先輩を立てなくて良いんだよ? 本当に俺がキスさしてくれって言ったら、どうするんだよ」

「ですよね。まあ、そこは。先輩を信用しているってことですよ」

 けらけらと笑う肩が男までも揺らし、揺れに釣られて意志なく笑う。

 女が自分の腕を両の手に抱いて目一杯に仰向くと、濡れた髪が男のうなじに刺さる。そこで髪が男に当たっているのを感付いていながら、気付かぬ素振りでいる。男の方ではその髪のせいで、女の頭が後ろすぐ傍にあることを一層感じ入っていた。息遣いさえ髪から伝わるようであった。女が姿勢戻し髪が離れてからも、まだそこに何か触れているような気配が残った。

 不意に静かになる。雨脚は峠を越えると、俄かにしとしと雨に変わった。

「啓主様は見てるんかな」

 と女が呟いた。

「ん? 何だい、それ?」

 男の視線の先には雨に打たれる躑躅つつじ垣があった。熱心な手入れをされていないらしく、生垣からは枝がそこかしこから飛び出し、先に赤い躑躅の花が咲いている。その和紙のように薄い花弁は最前の雨に晒され、深き赤にと染められているようである。

「ううん……。最近ハマってるやつ、と言えばいいんですかね?」

「宗教?」

「です」

 そう頷く動きが肩越しに伝い、男の肩が固くなっていることが返って女に伝う。

「そうだ!」と男へ顔を向け、「先輩もハマりません?」

 言葉が男の首筋にふっと掛かる。このとき、男は腕を組み思案の恰好で、首を女の居ない方へ横倒しに傾げてみせ、視線は黒茶けた梁に注がれていた。

「んう? そこに入って良い事はあるのか?」

「そりゃ、ありますよ」

「何? 例えば」

 外には明るさが戻り始めており、ここが陰の中になる。ぽつりぽつりと雨の尾が次第に引いて行き、躑躅は雫こぼして徐に揺れた。

「ふふん。なんと、わたしとキスができます」

「あっはははっ――」

 傾げた首が哄笑こうしょうに大きく仰向き、「何だよ、それ」と項垂うなだれ、組んだ腕が腿につく。その真下、湿った黒土の上を一匹の蟻が彷徨い歩いている。

「うん。なら、入ろうかな」

 過ぎた通り雨の跡に草いきれが、むっ、と立ち上がる。風が静まり止まり、ひどい湿気ばかりが立ち残って、夏の中でも一入に不快な宵の口である。男の傍へ転がるラジオから、ふと何やら楽し気なメロディが、ノイズ無しに聴かれて来た。虹が出るには雲は厚い。夜にもなれば風が出るのだが。




























     ――躑躅てきちょく――〈完〉




























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