なんでもないように笑うから

蒼天

なんでもないように笑うから

「わぁ、見て! この道、懐かしいね!」


 夕暮れ時の少し赤みがかった緩やかな上り坂に、凛とした鈴の音のような少女の声が透き通るように響き渡る。


 目の前で満面の笑みを浮かべているその声の主は軽快な足取りでくるくると、まるで踊っているかのように坂道を登っていく。


 そこかしこに植えられた桜の木から零れ落ちる花びらが穏やかな春の風に乗って、はらはらと宙を舞っていた。夕日に照らされてキラキラと光って映る桜吹雪を背景に、とても楽しそうにはしゃぐ彼女の姿がとても綺麗に見えて、思わず僕は彼女を直視することが出来なかった。


「あれ? 聞いてる? もしもーし?」

「……ああ、小さい頃はよくこの道を通って遊びに行ってたよな」


 彼女の呼ぶ声にはっと我に返り、慌てて言葉を返す。

 しかし、少しぶっきらぼうになった僕の返事を快く思わなかったのか、先程まで浮かべていた満面の笑みはスッと消え去り、代わりにじとりとした視線をこちらに突きつけてきた。


「ねぇ、なんかテンション低くない? 思い出の場所だよ? 私達の思い出の場所!」


 そう言って彼女はまるで、冬籠もりの前に大量の餌をかき集めてきたリスのように頬を膨らませた。ほんのりと赤く染まっているように見えるのは、この夕日のせいだろうか。


 どちらにせよ、可愛らしく膨らませた彼女の頬はとても柔らかそうで、触れたらきっと気持ち良いだろうな、なんて、そんな場違いなことを思い浮かべてしまう。


 もしも今、彼女の頬に触れたとしたら、彼女はいったいどんな反応をするのだろう。いや、この様子なら考えるまでもなく怒ってしまうに違いない。先程までのご機嫌で可愛らしい彼女はいったい、どこに消えたというのだろう。


 ふと、中学に上がってまだ間もない頃に『女の子の感情は山の天気よりも変わりやすいから、気をつけるように』と、母からアドバイスを受けたのを思い出す。あの頃の僕にはその言葉の意味を今一つ理解することが出来なかったが、高校卒業を果たしてようやく、その意味が少しだけ分かったような気がする。


「思い出の場所って言ってもなぁ。毎日学校からの帰り道に通ってたじゃないか」


 未だにふくれっ面を浮かべたままの彼女に僕は、淡々と言葉を返した。


 事実、僕達はまだ物心のつかない頃から今日まで、片時も離れることなく過ごしてきた。晴れの日も、雨の日も、いつどんな時だって、僕の隣には当たり前のように彼女が居た。


 思い出の場所というのであれば、僕にとってはこの街の全てが彼女との思い出の場所だ。この坂道だけ特別扱いだなんて出来やしない。だから、彼女へと返した僕の言葉は何ひとつ間違ってなんかいない。


 だけど、彼女からすればきっと、僕の言葉は間違えているのだろう。そんな思いを胸の中に留めた。自らの発言を自嘲するように笑いながら。


「そうだけどさー、今日は普段とは違う日でしょ? こう、もうちょっと情緒というか風情というか、無いのかね?」


 物言いたげな様子でぶつくさと小さく何かを呟く彼女。終いには「あーあー、つまらないなー」と不貞腐り、そのままそっぽを向いてしまう。


「ふっ、あはははは!」


 彼女の反応は僕が予想していたものと全く同じで、それが何だかとても可笑しなことに思えて、胸の中だけに留めておくつもりだった笑いがつい、声になって溢れていく。


「な、何よ、急に笑って! 何がおかしいのよー!」

「あはは! いや、なんでもないよ。そんなことよりもほら、もう着くよ? 懐かしの公園」

「あっ、ホントだ! ねぇ、早く行こ!」


 何の脈絡もなく笑った僕を見て、より一層ご機嫌斜めになった彼女の気を逸らそうと、ようやく見え始めてきた坂の頂上を指差した。すると彼女はツンと尖らせていた表情をパッと明るくさせて、無邪気な子供のように駆け出していった。


 先程までの不機嫌な様子はどこへやら。コロコロと忙しなく表情を変える彼女の姿は昔から本当に、見ていて飽きることがない。


 早く早くと急かす彼女を追いかけるように、僕も小走りで坂を駆け登る。高鳴る心臓の鼓動がやけに重く、胸の奥で鳴り響いていた。部活を辞めてから運動らしいことを一切していなかったからか、自分でも気が付かない内に体力が落ちていたみたいだ。


 僅かに息を切らしながら、坂の上で待つ彼女の隣に並び立つ。坂の向こうに広がっているのは、幼い頃によく近所の子供達と集まって遊んでいた懐かしい公園の景色だ。


「……なんか、あれだね」

「ああ。思っていたよりもちゃっちいな」


 ポツリと呟く彼女の言葉に、彼女が敢えて濁したであろう言葉の続きを代弁する。


 公園の真ん中にそびえ立つ、未だ何の種類なのかもわからない大きな木。風に揺られてキィキィと寂しげな音を鳴らす二つのブランコ。雨風に晒されて赤錆びてしまった鉄棒。塗装が剥げ、ささくれ立った黄色のベンチ。


 幼い頃はもっと色鮮やかに見えていた気がする。その証拠に、今でも記憶の底を掘り起こせば、まるで昨日のことのように思い出せる。僅か数年の月日を経ただけでこうも小さく色褪せて見えてしまうことに、形容しがたい切なさのような感情がじんわりと込み上げてくる。


「ほんと、羨ましいよね。子供の頃はこんな何も無い場所でも楽しく遊べてたんだよ?」


 彼女は愚痴を零すように小さくぼやきながら、一番近くのベンチに鞄を放り、そのまま誰も座っていないブランコに腰を下ろした。


「まぁ、そういう時期が僕達にもあった訳でして」

「そうなんだよねぇ。あー、あの頃に戻りたいなぁ」


 幼い頃の自分に嫉妬心を募らせながら力なくブランコを漕ぐ彼女の背後に回り、その背中をそっと押した。勢いの増したブランコの揺れに彼女は「もっともっと!」とはしゃいでいて、随分と嬉しそうだ。先ほど、不満気に愚痴を漏らしていたことを覚えていないかのように今を楽しむ彼女の姿に、心の中がそっと緩んでいくのを感じた。


「あっ、そうだ。決まったよ。出発の日取り」


 ブランコの揺れる音に耳を傾けていると、彼女がふと、思い出したかのように口を開いた。彼女のその言葉に緩んでいた気持ちがキュッと引き締まっていく。


 彼女はこの春、東京の大学に進学する。この街から電車で片道三時間。彼女はたった三時間だと笑うけれど、この街に残る僕にとっては、その三時間の距離が遥か遠くにある異国の地のように果てしなく感じる。


「……あぁ、結局いつにするんだ?」

「向こうでの準備もあるから、三日後の午前中には出ちゃうかな」


 僕の投げかけた質問に、彼女は間髪入れずにそう答えた。それはまるで、この質問の答えを予めに用意していたかのようで、不自然なくらいにあっけらかんとした彼女の振舞いに原因不明の息苦しさが胸を締め付ける。


「ふーん、そっか」


 先ほど交わした些細な言い合いも忘れ、またもや僕は素っ気のない態度を取ってしまった。また彼女を不機嫌にさせてしまうのではないかという不安が胸を過る。しかし、その不安は杞憂だったようで、彼女は特に反応も示さないまま、ただブランコの揺れに身を任せているだけだった。


「あっ、わかった。実は寂しいんでしょ?」

「んー、どうだろう。新生活が始まるのはこっちも同じだからね」

「あははっ! 素直じゃないね!」


 僅かな沈黙が続いた後、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう尋ねてくる彼女の問いに、どちらとも取れない曖昧な返事を送り返した。素直じゃないと笑う彼女の言葉がやけに深く胸に突き刺さる。


 こういう時に自分の気持ちをさらけ出せなくなったのは、いつからだろう。彼女のように裏も表もなく、自分の気持ちを上手く表現できるようになれば、どれほど生きやすくなるのだろうか。


「なんか、あっという間の三年間だったね」

「正直、ずっと続くもんだと思ってたよ」

「私もだよ。でも、今日で終わっちゃったんだよね」

「ああ、そうだな」


 再び僕達の間を沈黙が支配した。二人の間を取り巻くその沈黙は鉛のように重く胸の中にのしかかってきて、それを僕は見ない振りをするかのように、ただひたすら、離れては近づいてくる彼女の背中をそっと押し返し続けた。


「大丈夫だよ」


 ふいに彼女は、優しく暖かい口調でそう微笑んだ。


「……何が大丈夫なんだよ」

「わかんない。でもきっと、大丈夫だよ」


 チラリとこちらを見る彼女と視線が合う。何がそんなに楽しいのだろう。彼女はまるで、泣きじゃくる小さな子供を精一杯あやすような溢れんばかりの笑みをその顔に浮かべていた。


 本当に、昔からそういう所がズルいと思っていた。

 君がいつもそんな風に、なんてことのないようにして笑うから、釣られて僕も笑ってしまう。そんなだから、言いたい言葉も伝えたい思いも何もかも笑顔に紛れて、ずっと君に明かせないままだ。


「あ、鐘が鳴ってる」


 ふと、日の入りを告げるチャイムの音が空を割いた。頭上を見渡してみると、燃え盛るような激しいあかと、まばらに散った雲に反射する金色の光が入り交じった黄昏色たそがれいろの空が綺麗に広がっていた。


「もう、こんな時間なんだな」

「うん、そうだね」

「そろそろ帰るか」

「そうだね……」


 僕がそう尋ねると、彼女は何かを言い淀むようにしおらしく俯き、そのまま黙り込んでしまう。僕は彼女の心を晴らそうと、最後に大きく彼女の背中を押した。


「ほれっ!」

「わっ!」


 ぶわっと音を立て、大きく揺れるブランコ。その勢いに乗って彼女は放物線を描くようにブランコから飛び降りる。少し体制を崩しながらもしっかりと着地した彼女に、二人して感嘆の声を上げた。


「最後の、凄く楽しかった!」

「そりゃ良かった」


 ケラケラと笑う彼女を見て、僕も笑う。

 言いたかった言葉も、伝えたかった思いも、頭の中で幾度となく繋げてみたが、ついにそれが僕の口から出てくることはなかった。


 三日後、彼女はこの街を出る。距離という名の大きな壁は僕達の間を隔てるように高く、険しく、そびえ立っている。物心のつく前から想い抱いてきた彼女への恋心も、この巨大な壁の前ではあっけなく弾かれて届きそうにもない。


 それに、もし僕がこの気持ちを彼女に打ち明ければ、きっと彼女は困ってしまうに違いない。たった一人で新天地へと旅立ち、知っている人が誰一人として居ない孤独な世界で生きようとしているのだ。そんな彼女の勇気ある行動を邪魔したくはない。


 こうするべきなのだと自分の心に言い聞かせる。

 嘘はついていない。ただ、本音を明かさないだけだ。

 人はそれを『嘘をついている』と、そう言うのだろうか。


 ただ、今となってはそれでも良いかと、開き直っていたりもする。嘘だって良くて、沢山の矛盾があるくらいの方が人間らしくて丁度良い。


 行かないで欲しいという我儘も、頑張って欲しいという思いも、全部ごちゃ混ぜにした形容しがたい感情を抱いているのが、今の僕だ。この感情を綺麗に整理させるのは、明日以降のいつかの自分に任せるとしよう。


 一頻り笑いあった後、僕達はベンチに置いた荷物を手に取り、公園を後にした。来る途中に駆け上ってきた坂道を今度はゆっくりと名残惜しみながら、二人一緒に肩を並べて下っていく。


 二人の影が夕日に照らされて細く、長く、伸びている。小さく跳ねる彼女の影を見て、少しだけ目頭が熱くなったことだけは一生涯、伝えないでおくとしよう。


「それじゃ!」

「ああ、気をつけて帰れよ」


 坂を下りきり、二手に道が分かれた所で僕達は別れの挨拶を交わした。彼女は右の道へ、僕は左の道へ。今まで何度も通ってきた分かれ道だ。ただ一つ、今までと違うのは、次の日になればまたこの場所で再会出来たのが、明日からはもう会えなくなることだけだ。


 一人帰路を辿っていく彼女の背中を静かに見送る。今まさに彼女は、途方もない距離を超える為の大きな一歩を踏み出しているように思えた。


 堂々とした彼女の後ろ姿に、このままもう、彼女に会うことは出来ないのかもしれないという不安が、吹きすさぶ嵐のように胸を埋めつくした。


 三日後、僕は彼女の居なくなったこの街で生きていく。

 いつの日か、今日という日がずっと遠い過去の話になる日が来るのだろう。その頃になったら、僕の胸の中で声を上げている彼女への恋心も、久方ぶりに見たあの公園の景色のように色褪せてしまうのだろうか。


 いや、きっと大丈夫だろう。

 何故ならさっき、彼女が笑ってそう言っていたからだ。


 何の根拠も無いその希望を、僕達はあの思い出の公園でお互いに笑い合いながら縋り合ったのだ。また会えることを願いながら。また会えた時、僕達は何ひとつ変わっていないことを望みながら。


 その願いが叶うまでの間、僕は僕のペースで生きるだけだ。

 今この場所に君が居たことを忘れないように。いつの日か、この果てしない距離を物ともしない大人になれるその時まで、懸命に生きていこう。


「ゆうくん!」


 強がりにも似た決心を胸の中に打ち立て、夕日の眩しさに目を細めながら帰路を辿っていると、後ろから凛とした鈴の音のような少女の声が透き通るように響き渡った。


 振り返って見てみると、その声の主はその小さな体を目一杯に伸ばし、細くしなやかな右手で大きく弧を描いていた。


「またね!」


 人目も憚らずにそう叫ぶ彼女の顔はやっぱり笑っていて、だけど、何かを必死に堪えているかのように、その声は震えているように聞こえた。


「――っ」


 ずっと言わずに隠してきた彼女への想いが溢れてしまいそうになるのを咄嗟に飲み込んだ。今、この言葉を彼女に言うべきではない。そんな分かりきった感情ことを彼女は今、求めていない。


 今の彼女に必要なのは好きという言葉よりも、彼女の歩みを後押しするものだ。今の僕に出来ることは、彼女の背中を押してあげることだけだ。


 僕は彼女の言葉に応えるように自身の右手を高く掲げた。彼女の元にまで届くように。彼女の行く場所からでも見えるように。大きく、大きく、右腕を掲げた。

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