第8話 慕情の抜け殻

 あなたとお別れして、私は抜け殻になった。

 夏の終わり、木の幹にひっそりと残されている蝉の抜け殻。飴色に透き通って忠実に成虫の姿を模している。抜け殻の主は今ごろ天寿を全うし、永遠の眠りについているかもしれない。私の慕情も同じ。思い切って殻を破り、外に出たのはいいけれど、今では闇の底に沈んで弔われるのを待っている。

 傷心を抱えて真夜中の散歩に出る。月が出ていた。海のそばの散歩道を歩く。波の音が絶えず聞こえる。

 私達の暮らした部屋にも波の音は届いた。キッチンの窓辺に座ってただ海の鼓動に耳を澄ましていると、物言わぬ静物達が空間の上にぼんやりと浮かんでくる。棚に置いた塩や砂糖、壁に掛けたレードルや小鍋、洗って乾かしているマグカップ。それら一つ一つに私達の無意識な行動が宿り、探っていけばいくほど持ち主の稟性に触れる気がした。あなたの残した書き掛けの手帳や愛用のペン、栞の挟まった本も未だに片付けられずにいる。

 肩口に目をやると降り注ぐ月光に照らされて細い繊維が白く輝いていた。波音と靴音を聞きながら何も知らない子供に戻ったようにぼんやりと歩く。平坦に見えるアスファルトにもおうとつはあり、光と影が細やかに描き出されていた。思い出のひとときにも光と影はさす。愛しくもあり悲しくもあり切なくもあった。

 二人で暮らした部屋ももう私には必要ない。いずれ退去して新しい町に行くだろう。あなたの私物もそう遠くないうちに私の手に触れて片付けられていく。次に行くのは波音が聞こえない町。あなたの面影を感じないところへ行く。

 慕情の抜け殻が心の壁に出来物のように貼り付いている。触ると痛く、いつまで経っても朽ちる気配はない。木の幹に残った飴色の抜け殻も剥がして持ち去ろうかと何度も思いながらできなかった。

 月下の散歩を終えて部屋に戻る。時計の針が透き通って見える。私達の意図がそこかしこに張り巡らされた部屋。鍵は下駄箱の上に、郵便物はテレビ台に、鞄はドア横の棚に。どの道具も使いやすいように二人で決めた置き場所だった。一人になってもその取り決めは変わらない。間取りは同じだし、置き場所を変えてしまったらきっと生活は不便になる。

 ベッド脇のナイトテーブルには私の飲まないサプリメントや私の読まない古いフリーペーパーが置き去りにされている。

 それを横目に見ながら自分のベッドに潜る。この部屋にある何もかもが過去のものであり、もはやこの部屋自体が大きな抜け殻だった。

 慕情を眠らせるように、私も眠る。

 息を引き取ったものを、この手で弔わなければならないので。

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とてもつまらない三枚綴り短編集 2 スエテナター @suetenata

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