本能

抱き枕

第1話

朝起きたらゾンビになっていた。鏡は割れた。


外は雲一つない快晴。痛いくらいの日差しがベランダからガラス窓を通り抜けて差し込んで来ている。壁にかかった時計を見てみると短い針は丁度数字の三を指しており、後には秒針の音だけが静かな部屋の中で無機質に響いていた。そっと、首元に巻き付けたはずのロープに触れる。天井を見上げるとその片割れは首の根元を引っ張る部分が千切れて垂れ下がっており、寂しくゆらゆらと揺れている様はなんとも情けない限りだった。力を抜いてふらりと勢いよくフローリングに倒れ込むと、思い切り打ち付けた頭から生ぬるい体液がどろりと漏れ出した。手についた液体は鮮やかな赤色をしていて、朽ち落ちた椿の花が、床板一枚一枚に宿っているかのようだった。床はひんやりとしていて、自暴自棄で、今にも沸騰しそうな意識を繋ぎ止め、籠もった熱を優しく冷ましてくれる。合わなかった目の焦点がはっきりとして、全身のぶるぶるとした震えは止まり、体中の痛みは何処かに飛んでいって、心の臓がゆっくりゆらゆら眠りにつき、だんだんと鼓動が遠くなっていくのを感じた。上体を起こして軽くなった頭を振る。飛び散った血飛沫はあちこちに斑点を残して跡になった。ふらふらと立ち上がり、着ていた白のシャツの袖口で口元を拭う。べっとりと赤い血が付着して、気分はさながらパニック映画に巻き込まれた哀れな一般市民のようだった。窓に映り込んだ怪物が、けたけたと己を嗤(わら)っている気がした。

「気分が悪い」

呟いて、時計を投げつけた。窓は粉々になった。飛んで返ってきた破片が脳天を貫いて、その衝撃で後ずさり、背中から壁にぶつかる。そしてそのまま目を瞑った。浮かんでくるのは、このまま全てが終わってしまえば、それはどれ程素敵で幸せなことだろうとかいう、自身のエンドロールのことばかりであった。無益で、埒もないことを考えながらぼうっとしているとふいに携帯が鳴った。前かがみになって手を伸ばす。画面を確認すると、その殆どが以前勤めていた会社からのメッセージだった。無関心のまま、白い死んだ目と指で通知をスワイプする。右手の人差し指が長方形を全てをなぞり切った後、ふと今日の日付が目に入った

十月の三十一日。ハロウィン。聖人たちの夜。怪物たちが練り歩く、奇妙で可笑(おか)しな祭りの日。やけになって、端末を割れた窓の方へと放り投げた。随分と都合のいい話だった。そんな偶然に期待してしまう自分が、どうしようもなく腹立たしかった。一人ぼっちは、寂しかった。




夜の喧騒に支配された街を行く。狭い路地を抜けて辿り着いたのは広場のメインストリート。きらびやかな外装の建物、色とりどりの光を放つネオンに、見るもの全てを嘲るジャック・オー・ランタン、そして極めつけは馬鹿になって騒ぐ、タガが外れたケダモノ達の大行進。重い体を引きずって、気が付けば誘い込まれるようにしてその一軍に加わっていた。

「お兄さんメイク凝ってるねえ」

「血の感じが凄いリアル」

「そのガラスの破片、本当に刺さってない?」

変わらず行進は続く。道の途中で列に酔った人間を取り込んで、ぶくぶくと膨らんでいく肉の塊。しかし足取りは衰えること無く狂騒があたりを包み込む毎に群れはさらにその頭数を増やしていく。人の波に揉まれ、抵抗あえなく倒れていく人々を肉のカーペットに変えながら、浮かれた生者達は同士を哂い合う。振り返れば多種多様な仮装をした人々が、不安定な情緒のままに踊っては跳ねていた。興奮冷めやらぬ、しかしそんなアタマの中に、突如として無粋な思考が差し込まれる。

「一体何をしているのだろう」

小さく呟いて、冷めた目線で周囲を見渡すと周囲の熱気は変わらないまま、何処かつまらない、という風な、見下すような低俗な気分になって、いても立ってもいられなくなってしまった。横這いに、列からするりと抜ける。途端、ガッ、と強い衝撃が横腹にぶつかって、激しくコンクリートの上に叩きつけられた。凹み一つない白い車が、知ったことかとばかりに走り去って、段々と見えなくなる無機質な背をただじっと、静かに睨めつけていた。幸いなことにギャラリーは少なく、救急車を呼ばれる心配もない。ぐちゃぐちゃになった心臓を押さえながら、よたよたと人でなくなった感覚を受け入れられぬまま波に逆らって歩いていく。完全に人の気配が無くなって、見つけた街灯を体の支えに座りこんだ。周りには食べ残しやらゴミが散乱しており、そんなことにも気が付かない位には、肉体含め精神がほとほと疲弊しきっていた。


「大丈夫かい?」


突如、声を掛けられた――――――頭上から。

それと同時に近づいてくる、距離感の概念を無視した影の落ちた顔。思わず飛び退いて、動かないはずの心臓がばくばくと鳴りだしそうになったのを感じた。声の主はきょとんとして、それから直ぐに悪戯の成功した子供のような、そんな純粋な笑みを浮かべた。街灯に足を引っ掛け、宙ぶらりんの格好でこちらを向く彼女は何処をどうとっても奇天烈な、それでいて不思議な魅力を醸し出していた。

夜闇に映える金髪を揺らし、柱から足を離したかと思うとその場でくるりと一回転。すとん、と華麗な着地を決め、どうだと言う風に顎を引いて、反応を求めてくる。言葉も出せず、愕然とするのが精一杯で、ただ彼女を見つめていると、お気に召さないのか、つまらなさそうなカオでつかつかと近づいて来て

「返事」

とぶっきらぼうに言うので、とりあえず素直に称賛した。乾いた音に機嫌を取り戻したのか、再び笑みを披露する。そして、なんの前触れもなく態度をまるきり一変させて、腰のあたりに飛びついて鋭利な牙を突き立てられる。反応する間もなく、当然静止しようと彼女の肩を掴むが力で負けているのか一向に引き剥がせない。そのまま抵抗を続けているとふいに彼女の口が離れ、何事も無かったかのようにポケットから白いハンカチを取り出して口元を拭った。何を、と口を開こうとして、動きを止めた。傷が、完全に癒えている。抉られた肉が、破れた内臓が、隅から隅まで傷跡ごと何事も無かったかのように。

「先程の事故を見ていたんだ」

そして、気が付いたらしい。

「君、人間じゃないね?」

一周回って落ち着いた思考を働かせる。そして失礼だと分かっていながらも、まじまじと彼女の事を観察し始めた。服装は黒で統一されており、ドットの施された、シースルーの膝丈の長さまであるワンピースが、シンプルながらも本人の美しさをより一層引き立てている。髪の色に合わせているらしい首に掛かったネックレスは雰囲気を引き締め、シックな印象を際立たせておりさながら夜空に輝く黄金の月を思わせた。

「ああ、安心してくれ。別に取って食おうとかそういった考えがあるわけじゃない」

紡がれる言の葉、薄い唇から覗く鋭利な白い牙。そして滴る一筋の鮮血。そのどれもが異常で、奇妙で、非情で、それでいて確かに暖かい何かを感じた。

「私も、君と同じなんだ」

月の輪を背景に、彼女は両手を広げ心底嬉しそうにこう言った。


「ようこそ夜の世界へ。人でなし同士、仲良くしようぜ?」




 目の前には古びた木製の扉が一つ。薄暗くてよく見えないが立て看板には店名が書かれているらしい。彼女に導かれ連れられてきた結果、この場所に辿り着いた。彼女の白い指先がノブに触れる。どうやら引き扉らしく下がるように言われ、言われるがまま後ずさる。

彼女に出会ってからというもの、どうにも言うことを聞いてばかりな気もする。

「それじゃあ入ろうか」

どうやら常連のようで、店内に消えていく彼女を慌てて追いかけていった。後ろ手にドアを閉め、あからさまにため息をつくと、付いてこいと言わんばかりの態度で彼女がこちらを見るので、そのままカウンター席に腰を落ち着けた。ご注文は、とくぐもった低い声がこちらに向けられた。そういえば、と財布を持ってきていないことに今更気付く。血色も気色も悪い顔がさらに青白くなり、「今夜もツケでお願いするよ」と彼女の助け舟がなければ危うく犯罪者になる所だった。

「それじゃあミルクをそれぞれ二つ、私と彼に」

畏まりました、と店長からの了承のサイン。厨房へと向かう姿が眩しい。テーブルに肘をついて俯いていると、カフェのゆったりとした雰囲気とは対照的にそわそわと落ち着かない様子でステンドグラスを眺める彼女の姿。口をもごもごさせながら、時折チラチラと視線をこちらに向けるので、どう対応すべきか迷っているのだろう。そもそも、なぜ彼女は自分をこの場に連れてきたのだろうか。彼女は一体何者なのか。人間じゃない、と言うことだけは確かで、だがそれだけだ。自身の変化にすら鈍感なのに、どうして他の物事等を気に掛けていられようか。

「なあ」

初めて自主的に話しかけた。彼女はそれに驚いたようで朱色の眼をぱちくりさせそのまま固まった。

「君は一体誰なんだ」

惚けた表情になる彼女。沈黙が続く。

「返事」

さっきの仕返しだと言わんばかりのぶっきらぼうな台詞。彼女はますますぽかんとして、顔の輪郭が溶け出しそうになっていた。瞬間、パレードとは違った大きな笑い声が場を包み込んだ。急激な環境の変化に戸惑っていると、隣の席の彼女も同じように腹を抱えてけらけらと笑っていた。それを見た他の客も、今度は過呼吸のようにぜひぜひ笑い狂い始めた。

「何を言い出すかと思えば、そんなことか」

おかしくて仕方がないや、と愉快そうな彼女。無理解が空っぽの脳みその中におもりとなって積み重なっていく。

「私達の周りをご覧よ」

言われて店内を見渡す。未だ震えながら笑いをこらえようとしているのだろう、やけに肩幅の大きい大男が目に入った。他にも頭の無い騎士の格好をした変人や物騒な鎌を装備したフードの男。角と羽と尻尾を生やした露出の多い衣装の女性、もはや人の形をを保ってすらいない異形の存在まで。

「どうぞ、ご注文の品で御座います」

極めつけは、声に反応した直後、灰色の肌に大きな二つの黒い目、鼻の穴と小さな口を持った店主―――――もとい

宇宙人としか言いようがない存在の視認。極めつけは、心臓を潰されても生き永らえた自分自身が、現在進行系でゾンビである、という決定的な証拠。詰まる所、認める他なかった。もう一度店内をぐるりと見渡す。フランケンシュタイン、デュラハン、死神、サキュバス、得体のしれないナニカ。他にも食屍鬼、狼男、スケルトンにキュクロプス、果ては街の中心で全てを嘲笑っていたはずのジャック・オー・ランタンまでもが、宇宙人の経営するこのカフェに集まって来ていた。改めて彼女の方を見やる。目と目が合って、それでも目線をそらせないのは何故だろう。

「ご明察。今君がいるのは怪物たちの巣窟、いうなれば溜まり場さ」

その発言を皮切りに空気が震え、怪物達はそれぞれ違いはあれどジョッキやらコップやらを持って立ち上がった。ゴホン、と気合いの入った咳払いがした方向にはグラスに酒を並々注いだ狼男。大きく息を吸う。そして吐き出すと同時に――――

「新たな同胞に、乾杯!!!」

歓声が上がり、既に出来上がっている客も含めて、諸手を上げての祝福だった。

気恥ずかしさを鎮めるために手元にあったミルクをぐい、と一息で飲み切る。大きな音を立ててコップを置くと、横から灰色の毛で覆われた、分厚い木の幹のような腕が飛び出してきた。狼男だった。がっちりと肩を組まれ、鍛え上げられた肉体に手も足も出ないまま違う席へとずるずると引きずられていく。助けを求めるように彼女の方を見たが、こちらを向いたかと思うと、手をひらひらと振ってそれきりだった。

「見捨てられた」

「なら俺達が拾ってやるよ」

全ての元凶が何事か宣った。強引に奥の方の席に押し込まれると出口を塞ぐようにして狼男が隣を陣取った。机を挟んだ位置にいるスケルトンとキュクロプスが興味津々と行った様子で、並べられた料理には目もくれずこちらの様子を伺っている。

「なあ、坊主の話聞かしてくんねえか。こちとら毎日同じ面子で飽き飽きしてんだ」

気が付けば、自身を攫ったはずのケモノは橙色の瞳を爛々と輝かせ、尻尾をバタバタと振りながらその時を今か今かと待っていた。調子が良い奴、なんて思いつつ、甘ったるくなった口を開く。今夜は久し振りに楽しい夜になりそうだった。



「最近運動不足だったからさあ、関節の部分から曲げる度にパキパキ嫌な音が鳴るんだ」

「そもそも骨の間どうやって繋がってるんすか」

「おれはブラッシングだな。抜け毛が大変なんだわ」

「ガタイ良いからな」

他愛もない会話が続く。吹っ切れたのか、砕けた口調で会話を続けていると、あんなに重かったはずの体が、溜まっていた膿が抜けたように軽くなっていた。

「どうした、変なカオして」

狼男が心配した素振りで水を差し出してくる。礼を言って、すれすれまで水を注がれたグラスに口を付けた。既に平らげられた料理の皿はテーブルの隅々にまで広がって、残されているのは定位置に戻されたメニュー表と食事の終わりを告げる勘定の合図だけであった。ゾンビになっても体の機能は完全に失われてはいないらしく、服の上からでも分かる膨れた腹を擦りながら消化を待つ。椅子の背もたれに体重を預けた。カフェとは言っても、様々な種族に対応するためから、注文のバリエーションは非常に豊富で、後ろの席のジャックオーランタンが「南瓜のケーキ」なんて言い出した時は傑作だった。

「すっかり馴染んでくれたみたいで、安心したよ」

かつかつとヒールを鳴らしながら近付いて来る彼女。協調性なさそうだったからね、と余計な一言には耳を塞いだ。

「吸血鬼の嬢ちゃんじゃねえか。コイツと知り合いなのか?」

「そうだね、命の恩人と言っても過言じゃないよ」

「ゾンビなんだから死にやしないだろ」

「自分で自分を治そうとする気が、さらさら無さそうだったからね――――、

言うなれば、あれは単なる私のお節介さ」

立ったままの状態で淡々と返答していく彼女。狼男は頭に疑問符を浮かべ、よく理解していない様子だった。というか吸血鬼だったのかと今更ながらに納得する。しばらくの間、沈黙が空間を覆った。そして、どうしても気になっている事が一つだけ、思考の隅にこびり付いていた。

「興味本位なんですけど、狼男さん。貴方はどうして、そんな姿になったんですか」

同類。人外。人でなし。ゾンビになった自身を含め、怪物たちがこうも人間らしく騒ぎ立て、群れをなしているのは、どう考えても違和感だった。

それは、つまり。

「……本当に今更だな、坊主」

鋭い目を細め、懐かしむよう、傷ついたように呟く狼男。明るい空気は一変し、切ない横顔を慰めるモノは手元に無く、吸血鬼の彼女が差し出したウイスキーのグラスを受け取って、その中で揺れる水面をただ見つめる。

「俺は元々、工事現場の作業員やってたんだ」

重たい口を開き、狼男はぽつりぽつりと語り始めた。

土木関係の仕事をしていたらしい彼は、そう言って自身の過去について語り始めた。

仕事に誇りを持っていたこと。同僚と酌み交わす酒が何より美味かったこと。充実した日々を送っていたこと。しかし、そんなある日、自身の過失でその仲間を亡くしてしまった。

「あれは事故なんかじゃない。俺が招いた必然だったんだ」

するりと腕から抜け落ちた鉄骨が偶々一人の人間を押し潰した。即死だったらしい。声にもならない声で叫びながら、山道を駆け抜け、行き場をなくした罪悪感と追随する痛みとで板挟みになって獣道を荒らしていった。無我夢中に山頂を目指して辿り着いた時。

「そこで俺は、どうしようも無くなっちまった」

二度と戻れはしない、真っ当に生きてはいけない、罪を償なって救われたいだなんて、勘違いも甚だしい。

「アイツに対して、これから一生分の責任を負って生きるなんてのは、俺には出来なかった」

その日は満月。男は吠えた。ただ、それだけの話だった。

「そして気がついたら、すっかりこの姿だったのさ」

自嘲気味にグラスを弾いた。あんなに逞しかった背中はすっかりしょぼくれて、肩を落とし、垂れ下がった耳と尻尾は言葉よりもよっぽど物を語っていた。彼は逃げたのだ。責任から。絶望から。人から。自分からすら。一人になって、孤独になって、孤高になって、しかしその全てを彼は恐れた。

「ここには俺みたいな奴がごまんと集まって来る。過程は違っても、殆どが元々人間だった奴らだ」

減らないウイスキーから厚い手を離し、弱々しい瞳がこちらを見つめ返した。

「ただ、共通するのは皆が皆――――

救いようの無いロクデナシって事だけだ」

かつん、と硬質な机と爪が触れ合った音を中心に静寂が広がっていく。空気を読んだのか、いつの間にやら向かい側の二人は席を外していた。代わりに席に着いたのは、一匹の吸血鬼。彼女は微笑んだまま、瞬き一つしなかった。

「――――だけどさ」

少し間をおいて、狼男が続ける。

「この姿になって、人間じゃなくなってさ、不思議と毎日が楽しいんだ。

「最低かもしれないけど、アイツが死んで良かったって思えちまった」

「生きてるんだって実感がさ、たまらなく嬉しいんだ。こんなに幸せな事はない。俺はこんな俺を、肯定できるようになれたんだよ」

「坊主、お前はどうなんだ」

純粋な、透明な、それでいて歪んでいる、真っ直ぐな声。


「お前は今、幸せじゃないのかい」


「―――――有難う御座いました」


気付いた。気付かされた。こんな自分を肯定してくれる存在が、どうやら一人、増えたらしい。二人でで顔を見合わせて、互いで互いを笑い合う。これまでの人生で一番の笑顔は、最高にぎこちなくて、それでも一生の思い出に残ることだろう。そんな光景を、細められた朱色の瞳だけがそっと見つめていた。




「それじゃまた明日」

狼男が大きく手を振って見送る。すっかり月は沈んで、かすかな朝焼けが鮮やかに空を彩っていた。行きと同じように帰りは二人きり。レースの施された黒い日傘を手に半歩前を歩く彼女は上機嫌だった。

「私はね、彼らのように人間を辞めた怪物たちをあの場所に招いているんだ」

もちろん君も例外じゃないよ、と振り向きざまにそういう彼女。傘をくるりと回して、今度は登る太陽を背に格好つけながら言葉を紡いだ。

「頑張れよ、少年」

瞬きの間に彼女の姿は掻き消え、気が付くと、明かりの消えた街灯の下に戻っていた。物好きな吸血鬼の声援。そっと、骨の浮き出た胸に手をやる。

「僕も、自分を肯定してやらなくちゃ」

夢から覚めたような心地のまま、空を見上げる。青い空の雲間から差す光がこちらにおいで、と優しく手を伸ばすと、その手を掴んで、思い切りに振り払った。フラフラとした足取りで、しかし迷いはなく、小さな一歩を踏み出す。明日もまた、彼らに会いに行こう。




白い車が、自宅の前に止まっていた。参った、子供を迎えに行かねばならないのに足止めを食らうとは。どうやら持ち主はゴミ捨て場にいるらしく、ペチャペチャと音を立てて何事かしているようだった。

「すみません、出られないので移動してもらえませんでしょうか?」

尋ねるも返事はない。仕方なく様子を見に足を運ぶ。コンクリートの床と靴の相性が良かったのか、足音は鳴らなかった。

「あの………」

視界一杯に広がったのは、一面赤く染まった世界。体を地面に投げ出して腹部から血を垂れ流している男がいた。そしてもう一匹、それを一心不乱に貪る怪物の眼が、ぎょろりとこちらを捉えた。

急いで逃げ出そうとするも腰が抜け、その場にぺたんと座り込んでしまう。用済みになった死体を捨て、幽鬼のように立ち上がるそれは彼女にとって、最期の瞬間まで未知の存在であり続けた。 

「頂きます」

最後の抵抗とばかりにつけた傷跡からは、腐ったどどめ色の血が流れ出していた。




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本能 抱き枕 @yasuriya

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