砂の計算式

花邦イチ

砂の計算式

 エゴノキが白く愛らしい花をつけ、桂の葉は溢れるほどの生命力を解き放ち青々としている。

工場が建ち並ぶ大通りから一本外れた道へ入ると、閑静な住宅街の中に公園があった。

広々として遮るものはなく、冬は柔らかな陽光が隅々まで満ちて心も体も暖めた。

夏は木陰が暑さを和らげ、葉の擦れ合う音が実に涼やかで心地良かった。

暖かな頃になるとハナミズキが一斉に総苞を開かせ、春の訪れに華を添える。

四季ごとの落ち葉も木の実も、ここで遊ぶ子どもたちにとっては好奇心をくすぐられる最高の宝物だった。

街中にあって、これほど季節の移り変わりを豊かに感じられる環境はそうそうない。

 「芳喜くんママ、下の子を起こして連れてきたいんだけどお兄ちゃんを一緒に見ててもらっても良い?」

顔の前で手を合わせ、高月晴乃は申し訳なさそうに言った。

去年までは挨拶程度の関係であったが、子どもたちが仲良くなるにつれ、次第に子育ての話をするようになった。

今では互いの子どもの面倒を見合う仲である。

晴乃はすぐ近くの一軒家に住んでおり、次男の昼寝中にこうして長男と遊びに来ることも少なくない。

「いいよ、いってらっしゃい。」

芳喜の母である宮瀬和香はにこやかに手を振った。

子どもは芳喜一人だけだが保育園勤務の経験があったため、相手をする子どもが一人増えたところでなんてことはない。

ましてや年長だ。

「昌士ったら、来年から幼稚園なのに昼寝が欠かせなくて。まぁ、そういうところがお兄ちゃんと違って可愛いんだけどね。倫太朗、お兄ちゃんなんだから芳喜くんに優しくしてよ。」

「あぁ。」

晴乃は軽快な口調で長男の倫太朗に言い放った。

「そうそう、最近弟のおもちゃを取り上げて泣かせたり、私の話を無視したりするのよ。あの子がわからないわ。」

「それだけママのことが好きってことじゃない?」

でも困っちゃうよね、と笑い合いながらも晴乃は倫太朗を横目でちらりと見ると小走りで公園を後にした。

当の本人はというと、全く振り向きもせず小さな水たまりに砂を入れている。

 和香は少し前から倫太朗の様子が気になっていた。

親たちなどには目もくれず年下の子たちを従えて遊んでいたのに、最近は何かと和香の注意を引こうとすることが増えたのだ。

その頃晴乃はというと、倫太朗からずいぶん離れたところで弟の昌士と一緒に遊んでいる。

そんな母と弟のやりとりを、まるで他人事のように見ている姿が寂しかった。

倫太朗の心は、まるで肥沃な大地が飢えと乾きの果てにひび割れてしまったかのように思えてならなかった。

 母の姿が見えなくなると倫太朗が得意気に訊ねた。

「あのさ、3+4ってなにか知ってる?」

「15。」

「ちがう7だよ。」

「そっか、間違えちゃった。」

「2+1は?」

「これは簡単、5に違いない。」

「3だよ!」

笑いながらも落ち着かない様子で体を揺する。

大人なのだからわかるだろうと言わんばかりだ。

まばゆい日差しが七分丈の袖から出た腕をジリジリと焼き、汗が首にまとわりつく。

倫太朗は日光に顔を火照らせながら、今にも折れそうな小枝で地面に計算式を書いていく。

「じゃあさ、6+8はなんだ?」

「そうね、きっと37。」

「全然ちがうって。14だよ。なんでそうなるんだよ!」

しびれを切らし、つま先で小突いていたどんぐりを思い切り踏みつけた。

乾いた音を立て殻が割れた。

遠くの方から飛行機の音が近付いてくる。

芳喜が辺りをキョロキョロ見回すので、そっと人差し指を上に向け目で合図した。

年少になってもやはり動いているものは気になるらしい。

「なんでこんなのもわかんないの?」

「うーん、難しいわ。倫太朗くんはわかるなんてすごいね。」

すると芳喜が母の手を握って叫んだ。

「かあちゃん、みてみて!よしきもつくった。うめぼしと…おかかと…」「ねぇ!!じゃあこれは?」「かぁーちゃん!」

倫太朗に遮られながらも、芳喜は1+1と書かれた上に三枚の葉をそっと置いた。

スダジイ、コブシ、百日紅とそれぞれの葉はまだ瑞々しく葉脈が美しかった。

いつの間に拾ってきたのだろうか。

だが、やめろよと葉を払いのけ倫太朗が彼女の腕にしがみついた。

工場の重厚な金属音が地面を伝って響いてくる。

日が少し陰ってきた。

「これはね、田んぼの田!」

「なに言ってんの?」

「よしきはね、おにぎりつくったの。どうぞ。」

計算式の横に行儀良く葉が並べ直されている。

笑窪を見せながら芳喜が二人を代わる代わる見た。

「おいしそう、いただきます。おいしいなぁ!」

「2だよ。こんなの塾でやったよ。」

彼女の顔を覗き込み、母親似の大きな目を潤ませた。

「そっかそっか、倫太朗くんがこんなに知っているのは塾で教えてもらったからなんだね。」

「そうだよ。だってもう年長になったから塾行って勉強してるんだもん。」

ふいに何かの影が地面を横切った。

芳喜は空を見上げ、口をあんぐり開けたまま影の主の行方を目で追った。

カラスさんいっちゃった、と微かに聞こえた。

「じゃあなんで1+1が2になるの?」

「そんなの1+1が2になるからに決まってるだろ。」

「どうしてそうなるのか、塾では教えてもらわないのかな?」

「教えてもらわないよ…」

ばつが悪そうに口ごもりながら答えた。

少し意地悪だっただろうかと思いながらも、倫太朗を優しく見つめた。

倫太朗は瞳を動かさず言葉も発さず俯いて口を尖らせている。

「じゃあ今度はこちらから問題。ここには倫太朗くんと、おばちゃんと、芳喜の3人がいます。

これから倫太朗くんのママと、弟の昌士くんが来たら」

「5人になる。」

「そうなんだけど」

3+2と書いて手を止め、倫太朗を見た。

利発そうな顔には疑惑の色が浮かんでいる。

「たしかに5になるよね。でもね、みんながいたらすごく楽しい気持ちになるでしょ。だから、5なんかよりもっとたくさんの100になったら良いと思うんだ!」

「そんなわけないじゃん!」

バキッ。

倫太朗は持っていた枝を折って力いっぱい投げた。

芳喜の背を僅かに掠めた。

「かあちゃん、おつきさんだ!しろいおつきさんだよ!」

芳喜は勢い良く立ち上がると、高い空を指差して目を丸くさせた。

そのまま風に乗って羽ばたきそうであった。

「本当だ。きれいなお月さんだね。」

母の思いなどお構いなしに、芳喜は満足そうな顔で松ぼっくりを探しに行くと言って、茂みへ入っていった。

「お母さん、まだかな…」

そう呟いた倫太朗の小さな背に蜜蜂が羽音をたてて寄り添った。

 ドクダミの苦い香りと汗のツンとした匂いが初夏の空気に混じり合う。

少し強い風が砂を巻き上げて吹き去った。

足元の計算式と共に。

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