第16話 小山内家6

 改札口から出てくる男性一人一人を横目で確認しながら手に持った文庫本を読み進めていた。次の電車に乗ってくるのだろうか。捌けた改札を一瞥してからページを捲り、存在を忘れていた缶ジュースで喉を潤す。



 あまりに没頭するあまり目の前に立つ誰か、の存在を脳が認識するまでの長いラグを経て、「キミが?」足下からゆっくりと視線を上げていく。



 上等なスーツを着た細身の青年。二十代半ばか、少なくとも三十代には見えない。少し長めの髪に覆われる色白の肌。目尻を憎たらしいほどに細めながら右口角を卑しく持ち上げた彼は、「呆れるねぇ。わざわざ中野区から千葉県くんだりまで足を運んだというのに、小説片手に喉を潤すに留まらず、僕の存在に気付くまでに三分三十五秒も掛けるなんてね」わざとらしい大きな溜息をつかれた。



 確かに足を運んで貰った相手に対して失礼だった。まさか人の流れが落ち着いてから改札を出てくるとは思わなかったから、次の電車だと勝手に思い込んでしまっていた。



「海津原聖人さんだね。まずは謝罪をさせてもらうよ。電話越しに聞いた声でも若いだろうとは思っていたけど、実際に会って驚いたよ。予想よりも若々しい」

「あまり反省している態度には見えないな。まっ、いいけどさ。まさかこんな寒い場所で立ち話をするつもりでいる気かい?」



 どこか暖かい場所へ連れて行けと訴えていた。失礼をしたのは俺だが、電話通り歳上の相手を少しは敬ってもいいのではないか、という反発心もなくはない。しかし、相手の仕事を裂いて時間を貰っている以上、此方からは強く反論するのも気が引けた。



「俺の家でもいいかな。駅から直ぐの所にあるし暖房も付けっぱでね、電気代がちょっと痛いけど快適だと思うよ」

「もちろんそのつもりだよ。貴重な情報しょうひんを誰かに盗み聞きされるわけにもいかないからね。まあ、どんな安アパートでも小声で話せば隣人に漏れることもないだろ」



 色々と一言多く話さなければ気が済まない質なのだろうか。彼の言葉には必ず相手より優位に立とうという虚勢じみた言葉が含まれている。本当に虚勢なのかは定かでは無いが、もしかしたらちょっと頭の方が、アレなだけの可能性もある。



――まあ、深く詮索はしないで、こちらとしても要件が最重要なわけだし。



 アパートに帰宅して茶の用意を始める。聖人君は部屋を見渡し、「意外と普通なんだね、作家の作業部屋というのも。むしろ娯楽が部屋の大部分を占めているようだけど、こういったものから作品の着想を得るのかい?」直ぐに興味が失せたようで、テーブルの上にいくつかの資料を並べ始めた。



 熱々の湯飲みを一つ彼の前に置き、「実際に会ってから仕事を受けるか判断すると言っていた気がするけど、そこに並べられている資料は?」チラリと見て判る、松戸市で起きている事件のモノだ。



「実際に会った。僕は仕事を引き受けると判断したわけだけど、不服なのかな?」

「いや。受けてくれるなら俺はそれでいいんだ」



 たったの三日しか経過していないというのに、資料はそれなりに揃っているようにも見える。まだ二件しか、という言い方は適切ではないだろう。言い直すなら二件の事件でこれだけの情報を集めた彼が、日本で最も優秀な情報屋だと恨めしそうに評価していた祥子さんの言葉が証明されたわけだ。



「ニュースでは二件の事件と発表しているようだけど、実際は三件起きている」

「それってどういう意味。警察が一件の事件を隠蔽している?」

「違うね。関連性がないと判断しているんだ。なにせ本当の一件目は去年の秋だ」



 三つの山に分けた資料の一番端の一番上の資料を僕の方へ滑らせた。



「被害者は小山内おさない礼子れいこ。旧姓は藤井。彼女はある神社の宮司と結婚し二人の子を出産している」



 海津原君の説明を聞きながら資料を読んでいき、小山内礼子が産んだ子供の名前を二度見した。



長女、小山内玲奈。



次女、小山内玲威。



 母方の旧姓と合わせれば藤井玲奈という名前になる。決して珍しい名前ではない。探せば同姓同名の人間なんていくらでも存在するだろう。俺がまるでこの点に疑問を抱くと初めから判っていたように、真ん中の山の一番上の資料を示した。



「彼女は藤井玲奈として、亡くなった母方の実家……、この近辺に住んでいる。知らない顔でもないんだろう? 学校での評判は生徒教師問わずに優良。家では祖父母の手伝いを率先して手伝っているようだ。絵に描いたような優等生じゃないか。彼女の過去を知っている僕からすれば、承認欲求が強い未成熟な個体だね。生きる上で不必要な欲求へと手を伸ばしてもがき溺れる姿は滑稽だ」

「あんまりな言い方じゃないかな。藤井さんだって彼女の理由があるだろうし、認められたいという気持ちは誰もが持っている。聖人君、キミもそうじゃないのか?」



 流石に彼の尊大な物言いに一言言ってやらねばと反論したが、彼から相手を見下す表情が消え、ジッと、感情をなんとも言い表せない眼で俺を見る。今までの憎たらしい態度を見せていた彼とは別人だ。まったくの静。器。剥がれた仮面。どうとでも今の彼を評価できる。しかしその無の奥底に、押し殺しているような、獰猛な猛獣の牙が闇の中で光ったような錯覚を説明するに足る言葉は持ち合わせていない。



「誰かに認めて貰う必要があるのかい? 僕は僕。他人は他人だ。いちいち他人の評価を気にしていて、他人の評価程度の影響を受けてやる必要がどこにある? そもそも有象無象の能無しの物差しで評価できるほど、僕という人間は安くないつもりなんだけどねぇ」

「キミの言うことにも一理ある。他人の物差しで個人を評価して枠に押し込めるのは、人間の持つ劣等感の押しつけだと俺は考えているんだ。一種の呪い、とでも言えば適切かな。評価されれば、プレッシャーや失敗に対しての恐怖を植え付けられる。その逆もまた然り。能無しのレッテルは人の成長を遮るんだ。俺もよく出版社側からとやかく言われて気落ちすることがある」



 言葉は言霊であり、人間が簡単に人を良い意味でも悪い意味でも呪える手法である。



「まあ、聖人君からしたら他人事なんだろう。でもね、人は弱いんだ。そういった評価に一々左右されて、時には壊れてしまうものなんだよ」

「僕は承認欲求自体を悪いものだとは考えていない。意識しすぎてしまうのが問題なんだ。承認欲求が強ければ強いほど、良い意味でも悪い意味でも……、いや、もっと、もっとという底の無い欲求に溺れてしまう」

「ああ、そういうこと。まったく素直じゃない性格のようだね」



 聖人君は思いっきり不服そうに表情を一瞬だけ歪めた。この言葉が不愉快だったのだろうがお互い様だ。彼の反応は俺の評価に影響を受けてのものじゃないだろうか。そのことを彼は自分で気付いているのか興味が湧いた。しかし、あまり此方としても遊んでいる状況ではない。



 話を脱線させたのは自分が突っかかったことが原因だ。



「話を戻す前に一つ、聞いても良いかな」



 どうしてもこれだけは聞いておきたかった。



「なにかな」

「幾つなの?」



 彼はまだ若い。そんな彼が歳不相応に飼い殺している感情の荒波。どのような人生や経験を経たらあんなモノを自身の内側に芽生えさせられるというのだろうか。彼の言動からは他人は他人であるという拒絶の意志が窺える。自分と他人を隔離している。さて、どちらを隔離しているのか。勝手な分析による印象ではあるが、海津原聖人という青年は他人という存在を何より恐れているのではないか。恐れていて、なおかつ彼が否定した承認欲求が人一倍強い。



「27だけど。そこに何か意味があるとは思えないね。ああ、あれかな。自分の方が歳上だからもっと敬って接しろと? 残念だけど、それはできないね。僕は僕を偽りたくはないんでね。これが僕だと諦めてくれるかい」

「若いね。俺なんて36だよ。この歳にもなると振り返り始めるんだ、自分の歩んできた人生というものをね。これまでに大きな後悔はなかったかな、あの時はああしていた方が良かったんじゃないかって。まあ、もう過ぎてしまった事だから、タイムスリップでもしなければ巻き戻せないんだけど。聖人君、キミも後悔しない最善の選択を、その場その場でよく考えて生きてほしい」

「ふん。僕は常に自分至上主義だ。言われなくても判っている。けど、後悔を……、選択した道を違えていないと証明したくて……、いいや、そう思い込もうと、納得させようと僕は情報屋という仕事を続けているのかもしれない。でもね、たとえ他人の人生をぶち壊そうが、誰彼が幸せになろうが、不幸になろうが関係なく、一生をこの仕事に捧げるつもりだ。これだけは他人がなんと言おうが、僕の最善の道だからね」



確固たる意志。今日会って初めて見た人間らしい、嘘も偽りも無い彼自身の言葉。真っ直ぐに向けられた眼を見て安心できた。彼は性格が歪んでいるわけではなく、純粋に自分の道を必死に探して歩いているのだと受け止められたからだ。 



「僕の眼に狂いは無かったようだ。降旗久七には何千万という金より価値のある時間を提供して貰ったよ」

「それは何より。ええと、どこまで話していたっけ」



 藤井玲奈について。小山内家の家庭について。村瀬君が関係を持っていた少女達の氏名からどういう子だったか。小山内礼子を含めて三人目の犠牲者の少女について関連付けて資料と合わせて話してくれた。



 情報収集に役立てられるかもしれない、と判断して血痕の付いた原稿用紙を見せた。「僕の仕事は情報収集と裏取りであって、犯人や次の被害者の目星をつけるわけじゃないよ」そんなものは警察の管轄だと溜息をつかれた。「でも、いいだろう。片手間に少し調べてあげるよ」茶を一口飲んで、「これも管轄外ではあるんだけど、村瀬牧人が所持していた原稿用紙の血痕。なんで、そんなものを彼は持っていたのかな?」引っかかる言い方で付け加えた。



「遺体の首と身分証を持ち去ったのは本人特定を遅らせるためと仮定して、原稿を残すなんて辻褄が合わない。じゃあ原稿用紙の役割はなんだろうか」

「それは犯人からのメッセージだと」

「ただの作家であるキミに? 不自然だと思えないお花畑な脳みそでもないだろう」



 言われなくても不自然であることくらいは承知している。血痕に隠された罪人後六人というメッセージは警察に渡ったところで判明することはない。原稿を返してもらって初めて俺が解読できる。これだけのメッセージならわざわざ原稿用紙を使わずしても残せるはず。



犯人の意図するところとはいったい。



 俺はファイルの中からもう一枚、ポストに投函されていた原稿用紙を見せた。村瀬君に渡していた中の一枚をコピーしたもの。これには左半分に血が付着していないのは、殺される前に、あらかじめコピーしておいたものだと思う。



 聖人君が手に取ったのは二枚目の、ポストに投函された方の用紙。「そういうことね」俺や東儀さんも解けなかったメッセージを難なく解いた反応をした。



「なにか判ったの?」

「自分で考えたらどうかな。まあ、ヒントくらいはあげてもいいか。原稿用紙をよく見ることだね。僕はそれ以上教えるつもりはない。だってこれは、キミに宛てた犯人からの、そう、メッセージなんだからね」



 荷物を纏め始める聖人君は、「そこの資料は置いていくから、どう活用するかはキミに任せるよ、降旗先生」立ち上がって玄関へ行こうとして立ち止まり、「ああ、そうそう。言い忘れてたことがあったんだ。降旗先生、貴方の事も少し調べさせてもらったよ」それだけ残して、俺が見送りに出るのを手で制して出て行ってしまった。



 俺のことを調べた。俺の家について。きっと彼は俺が何者かを知ってしまったようだ。だからどうということもないわけだけど、詮索されるというのはあまりいい気がしない。



 聖人君が残した資料に手を付けて三つに分けられた山。松戸市で起きている事件、小山内家について、そして。



――これは、参ったな。



 それにしても一人目の被害者は小山内礼子。これで七つの大罪という線は完全に消失したわけだ。この事件は八人の人間が命を落とす。まったく意図も掴めなければ、この暗号も意味が判らない。



――本当に参ったな。

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