第12話 小山内家2

 新しい編集者が今日このアパートに、あと一時間もしないうちに訪れる。この部屋の惨状といったら、汚部屋という一言で片付いてしまう。しかしこの状況は一言では片づかない有様だ。



 散乱するDVDケースやら、鑑賞時に必需品としている菓子類のゴミやら酒缶が散乱している。これらが床にぶちまけられているのは、昨夜酔った状態で立ち上がった際に膝をテーブルにぶつけた結果によるもの。片付けようとも思わずにそのまま気持ちよく眠ってしまったのだ。



 携帯の目覚ましアラームによって二日酔いの気怠さを伴って目が覚めた。携帯のカレンダーには編集者顔合わせ、と今日の日付にメモされていた。メモ書きの時間と実際の時間を見て大きな溜息を一つ、広げた袋にゴミを回収しているわけである。



 目立つゴミを捨てたら残りは掃除機で綺麗にしてしまえばいい。室内の淀んだ空気は全開にした窓から流れ込む空気が浄化していく。同時に二日酔いも幾分かは軽減し、これなら問題なく新しい編集者と顔合わせもこなせるだろう。



 掃除の次は自身を綺麗にしなければならない。



 もう一度現時刻を確認してまだ三十分の余裕がある。シャワーを浴びて髭を剃る。私服に着替えて茶の用意をすればいつでも迎える準備が整う。



 一息ついたタイミングでインターフォンが鳴った。



 どういう奴なのか。怖い人じゃないだろうか。いきなりダメ出ししたり、話しづらい寡黙な人間ではないだろうか。そんな不安が一歩一歩と玄関に向かう毎に募っていく。



――まったく臆病な性格だ。



「降旗先生ですよね。初めまして、自分、先生の大ファンなんです。そんな大先生の編集者として働ける喜びをどう表現して良いか!」



 なんともハッスルしている若い青年であった。見た目でいえば体育会系の短髪にすっきりした顔立ち。鼻息が少し荒いのは興奮しているせいだろうか。これが常時でもそうなら、自分はこの鼻息の音を堪えながら会話をしたりしなくてはならない。



「ああ、うん。俺の大ファンなのは嬉しいね。立ち話もなんですし、さあ、上がってください。換気していたのでちょっとまだ寒いですけど、すぐに暖房とお茶で温まりますから」



 初めに彼は部屋を見渡し、「SF小説がいっぱいありますね。DVDは……、SF以外も観るんですね。俺も……、ああ、いえ、自分もDVDは色んなジャンルを観るんですよ」強く首を振って一人称を訂正した彼に、「いいんじゃないかな。俺、でも」笑ってみた。



「そういえば、名前聞いてなかったね」



 お盆に急須と湯飲みを載せてテーブルに置く。



須藤すどう道治みちはるです。好きなジャンルは時代劇とSFとミステリ-と恋愛です」

「へえ、時代物も好むんだ。じゃあ、いい子を紹介するよ。彼女は時代作家志望でね」

「え、彼女って降旗先生に恋人が!?」

「その意味での彼女じゃないよ。俺の弟子……、っていうことにはなっているんだけどね。その子、大家さんの娘さんなんだ。その縁で小説のアドバイス等々をね」

「可愛いっすか、その子!」

「元気いっぱいで、可愛いとは思うよ」



 余計に鼻息が荒くなる須藤君に吹き出すのを我慢して茶が飲めずにいた。よく見れば鼻孔がピクピクと膨張と収縮を繰り返している。それが余計に可笑しく、視線を逸らそうにも鼻孔に釘付け。



――釘付け……。



 彼の両の鼻に釘をねじ込んでいる想像をしてしまい、ああ、もう限界だ。笑ってはいけない。失礼だぞ、と自分に言い聞かせても、崩壊した笑いのダムは元には戻らない。



「な、だ、大丈夫っすか、降旗先生!?」

「いいや、ダメだ。少し待ってくれるかな。ああ、ああ、苦しいよ。俺の持病なんだ、気にしないでくれると嬉しい」



 爆笑して転げる俺をきっと彼は変人でも見るように見下ろしているに違いない。彼の鼻孔にやられた俺はクッションに埋めた顔を持ち上げることができないでいる。持ち上げたらまた彼の伸縮を繰り返す鼻孔に、視と想が、釘付け、にされてしまうからだ。責めの二重苦だ。



 大分落ちつくと頬筋と腹が痛い。



「ああ、ごめんね。相棒としてこれからよろしく」

「前任だった村瀬さんって人、殺されたんですよね」

「ああ……、そうだよ」

「どんな人だったんですか?」

「そうだね。とても純粋で、ニコニコとしていて、異性との付き合い方を知らない普通の男、かな。間違っても殺されていいやつなんかじゃなかった」



 表情が良くなかったのか、須藤君はなんと会話を続ければいいのか困った様子で、「これからは俺が、降旗先生の作品を前任の村瀬さんに代わって世界に発信していきます!」握りこぶしを震わせてガッツポーズ。



「ああ、よろしくね。俺がご飯を食っていけるかはキミの手腕にも掛かっているんだ。大変だよ、あまり有名ではない作家を売っていくのは」

「出版社にも切り捨てさせません!」



 さっそく彼には出来上がった原稿を預け、これまでの内容と今後の展開を打ち合わせた。彼も編集者として日が浅く、まだ自分の仕事も手探り状態のようだ。俺のファンだと言うこともあり、作品の傾向や物語を把握してくれていたのが助かった。



――初めの頃の村瀬君を見ているようだ。



 眼を輝かせて原稿を捲り読み進めていく彼を置いといて、手持ち無沙汰の暇な時間を潰そうとテレビを付けた。昼時のニュース番組。見飽きて、真新しい情報も得られない繰り返し報道してきた内容。ゲスト達のどうでもいい個人的意見を、さも悲痛で我が事のように口にするだけの時間浪費。



 手元の携帯を弄る。メールの確認。ここ最近のやりとりは東儀君だけだった。遡っていくと村瀬君との短いやりとりが連続して交されていた。



――あれ、村瀬君の携帯って警察にあったかな。



 原稿を受け取りに松戸警察署に出向いた際に並べられていた村瀬君の私物。しかし、よく思い返してもそこに携帯電話があった覚えはない。犯人が個人を特定する品も一緒に持ち去っているのだから当然と言えば当然なわけだが、どうしてか、彼の携帯が無いことが気になってしまった。



「ちょっと失礼するよ」



 原稿から視線を外せない彼は、「あ、はい」たぶん言葉の意味も理解しないで、ただ返事を返しただけ。



 携帯を握りしめて部屋を出る。一月の寒さに身が縮こまる。着信履歴から普段目にしない番号を探し出しコール。



久内くないですが」



 そうプログラムされたかのような抑揚のつかない声。彼の声はまだ耳に残っていた。



「どうも、この間はお仕事の邪魔をしてしまってすいません。降旗です」

「ああ……、降旗さんね。情報でも入手しましたか?」

「一つだけ確認したいことがありまして」

「一般の、それも身内でもない人に教えられることはありませんよ」

「なるほど、確かにそれもそうですね。でも俺は警察が握っていない情報を幾つか持っています」



 しばらく沈黙があった。



「交換条件、ですか。無償提供すると仰いませんでしたか? まあ、いいでしょう。どうして降旗さん、貴方が我々警察も知らない情報を握っているのかもこの際置いておくとして、まずはどういった情報か聞かせてもらいましょう」

「あげませんよ、交換ですからね。今夜時間は空いてますか?」

「今は都合が悪いようですね。問題ありません……。では19時でどうでしょうか」

「じゃあ、その時間にまた電話を掛けさせてもらいます」



 通話を切ろうとした寸前、「言葉遊びはお好きですか?」なんだか可笑しそうに、初めて彼から感情を含んだ声を聞いた。



――交換なんだから貰われてもこまるよ。



 暖気が満ちた室内に再び戻る。彼はまだ原稿用紙と睨めっこしていた。ここまで真剣に読んでくれる喜ばしさとこそばゆさが、「昼食は食べた? まだなら、何か出前を頼もうか。奢るよ」普段は出前なんて取らないが今日はそんな気分になった。



――そういえば、村瀬君と初めて顔合わせをした時も出前を頼んだっけ。



「ええ!? いいんすか、すみません。俺今日まだ何も食べてないんですよ」



 強縮してしまう彼に軽く手を上げて背を向ける。キッチン脇にある冷蔵庫の上にいつ捨てようかと考えている内に溜まったチラシの束。村瀬君の時は何を頼んだか、と記憶を呼び起こしながら、「ああ、これだ。海鮮丼でもいいかい?」須藤君は首を何度も縦に振っている。



 まだ手に持っていた携帯電話で注文を済ませてから須藤君の対面に座った。



「一つ、聞いても良いかな」

「え、はい。なんでしょう」

「俺の大ファンって言ってたけど、何処に惹かれたの。ああ、ごめん。ちょっと大ファンなんて言われて舞い上がっているだけなんだ。ちょっとだけでいいから、付き合ってよ」



 素直な気持ちだった。誰だって自分の作品を評価してもらえれば嬉しいだろう。特に日陰のさらに暗い部分で埋もれ掛かっている作品であるならなおさらだ。藤井さんも俺の名前を書棚で見たと言っていたが、数多く作者の名前が並ぶ中で俺の名前を記憶してもらえたのも今思えば嬉しいことではないだろうか。



――ビバ、作家人生。



 文章に惹かれたのか。世界観か。登場人物たちか。どの要素が彼を魅了したのか是非とも本人の口から聞いてみたいという欲求が膨れ上がっていく。



 そんな調子で舞い上がる最中、「降旗先生のインタビュー記事を読んだことがあるんです」以前に一度だけインタビューをされたことを思い出しながら、語り出した彼の声に耳を傾ける。



「誰も書いたことのない、真新しい創作物を一生のうちに一作でも書き上げたい。記事に書かれていた降旗先生の言葉を目にして、俺は降旗先生のファンになったんです」

「え。インタビュー記事のその部分?」

「はい!」

「ああ……、なんてことだ。俺はてっきり」



――作品を評価されていたのだとばかり思っていたのに。



 舞い上がって調子よくしていたのが恥ずかしい。しかもあの記事は何も思いつかずに無難な言葉を並べただけの薄っぺらい内容だ。結局のところ俺は埋もれる作家なのだ。なんとかこうして副業もしないで作家の収入だけでご飯を食べていけるのは、そこそこの需要があってのこと。



――須藤君の海鮮丼をカッパ巻きに変更の電話をしようかな。



 しかし、当然そんなことはしない。大人気ないからだ。彼にへそを曲げられて売り上げに影響を及ぼすわけにはいかない。そもそも須藤君は俺の作品のファンだとは発言していない。あくまで俺のファンだと言っていた。記事を読んで、その場のノリで言ってみた一部分に感銘を受けてファンになってしまったのだ。むしろ可哀想なのは彼の方ではないだろうか。



 そんな彼の純粋な気持ちを踏みにじるわけにはいかない。



「あれ、降旗先生どうしたんすか。なんか表情が虚ろに見えるんですけど、もしかして俺、何か失言してしまいましたか?」

「ああ、いや、違うんだ。ちょっと、天狗の鼻が折れたような気がして」

「天狗の鼻……?」



 須藤君の手元の原稿用紙を指さし、「既刊分はもう読んでくれているようだから、わざわざ説明する必要も無いよね」彼はそれに大きく頷き、「もちろんです。降旗先生の作品はひと通り読ませていただきました。いや、三回は読み返してるんですよ。物語の流れは頭に入っているつもりです。それと、次巻はいつ頃に発刊予定でいきますか」手帳を捲る。



「再来月は避けた方がいいと思います。その月は人気作家たちの新作発売が重なっているんですよ。狙うならその翌月……、いや、翌々月辺りがいいかもしれないですね。目立つ作家の名前が無かったので」

「須藤君さ」

「はい?」

「いや、よく調べてるんだね」

「当然ですよ。降旗先生の作品を売らなきゃいけないんですから」



 手探りながらも彼は自分なりのより良い方向を見定めているようだった。



 話し合いもしばらく続くとインターンフォンが鳴った。海鮮丼の出前が届いたようだ。須藤君の空腹も限界だったのだろう。二人でがっつくように米と刺身を口に運び入れている。味わうなんてことはしない。味なんて舌に付着した数秒楽しめれば良い。噛むのも面倒だ。一口に四回ほど噛んだら飲み込む。



――海鮮丼な美味しいなぁ。

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