第41話 秋、夜の公園

 チリン、と涼しさを通り越して冬を感じさせる空気の中、風鈴のような音が夜風に響いた。

 ああ、来たか、と思いながら厚手の上着を着る。今までみたいにふらっと出たら、風邪を引きそうだ。

 いつの間にかそんな季節になって――いろんなことがあったなと今日は靴を履く。

 ニューバランスは新品と言える程ではなくなってきた。理央のニューバランスも同じくらいよれてきた頃だろうか?

 いや、活発ではない彼女のことだ、靴はまだキレイなままだろう。「買ったばっかりなの」と言っても遜色ないくらいに。

 パステルピンクのNの文字が目に浮かぶ。

 そんなことさえ思い出したらいけないような気がした。チクリとした。


「おっせーよ」

「支度してきたんだよ」

「待ってる方は寒いんだよ」

 じゃあこんな暗くなってから来るなよ、と思ったけど、塾があったのかもしれない。

 そういうところはプライベートなので特に話さないし、お互い言わなくてもわかることが多い。

 それが長い付き合いというものだ。

 今日もまた自転車を引いて歩く。

 一緒に僕も自転車で来ればよかったんじゃないか、と思いついたけどそれは違う気がした。

 こうしてほとんど喋ることもなく二人きりで歩く時間が、実は一番、気持ちが通じている。

 スポークの軽い音が、僕たちの間をすきま風のように通り過ぎていく。

 その隙間を埋めるのは、沈黙と時間だ。


 なにも言わずにいつものコンビニ前で洋が止まる。いやいや、さすがに公園はもう寒いだろうと僕は抗議した。ファミレスだって、カフェだって数百円出せば暖かい場所はいくらでもある。

 洋は自転車のスタンドを立てながらこっちを向いた。

「明るい場所じゃ話せないことだってあるんだよ」

 ずっしり、重い言葉だった。


 あれから洋とはなにもなかったかのように、それでいてお互いに深く接触しないように過ごしてきた。

 あの日のことは話していない。

 理央とどういう話し合いがあったのかも知らない。

 それでも洋は行き帰り、理央の手を繋いでいたし、なにも知らないやつらは二人の間になにか良くないことが起こったなんて思ってもいないはずだ。

 現にこのことで誰にもなにも聞かれてはいない。

 皆、自分にしか興味がないのに、他人のゴシップは好きなものだ。


 仕方がないので洋の後ろについてコンビニに入る。

 ホッカイロが目につく。

 必要かもしれないと思うが手には取らない。

 風邪は引きたくない。

 我が愛しの姫君に、心配かけたくないからだ。きっと丁重にお断りしても家まで押しかけてきそうだし。

 彼女は僕の台風の目だ。目の中にいる時は問題ないけど、動き始めると猛威を振るう。

 それはまずいよな、と思いながらホットドリンクを吟味する。どれもこれも簡単に冷めてしまいそうだ。結局いつもの銘柄を選ぶ。

 洋が先に精算していて中華まんを買っていたので、僕もそれを習おうと思った。中華まんはなかなか冷めない。

 肉まんを頼んだら、洋のが最後の一つだった。

 渋々ピザまんで我慢することにする。


 冷えないように、ポケットにドリンクをしまう。

 手だけは少なくとも今は暖かい。

 ピリッとした夜気が、頬を撫でる。


 洋のカゴの中にはまたなにかいろいろ入っていて、相変わらず小さいのによく食うよな、と思う。

 もっともまた夕飯は抜いて「奏と外で食べる」と嘘のような本当のようなことを言って飛び出してきたんだろう。

 塾さえ言っていれば洋のお母さんはなにも言わない。いってらっしゃい、と年頃の息子に言ったはずだ。「奏くんによろしくね」って。


 弱い風が、カゴの中のビニール袋を揺らす。カサカサと音がする。一枚三円の袋が、静寂に彩りを加える。

 ――静かな夜だ。

 月が出てない朔月の空には幾つか明るい星が光っていた。

 星にはあまり詳しくない僕でも、全天で一番明るい星、シリウスの白い輝きに目が行く。

 まるで聡子みたいだな、と思う。

 君を想う。

 そんな僕を好ましく思う。


 最初から決まっていたことのようにいつもの公園で自転車は止まり、僕たちは色鮮やかなはずのベンチに腰を下ろした。

「いつの間にかオリオン座の季節だな」

 洋が袋をガサゴソさせながら言った。

「オリオン座、どれ? 見える?」

「知らねーの? ほら、真ん中に三つ並んだ星がある、砂時計みたいな形したアレ」

 街灯の明かりで少し白けた空を指さして示してくれる。

 ああ、あれが三つ星。僕の添星は今日は見えそうにない。

「あの青白いのがリゲル。今にも爆発しそうな危ないやつ。こっちがこいぬ座のプロキオン。で、ずっと下がって一番光ってるのがおおいぬ座のシリウス」

「全天で一番明るい星」

 知ってんじゃん、と言いつつ、肉まんを食べ始める。まだ中は熱かったらしく、一度口から離す。

「あの三つで冬の大三角だよ」

「へぇ。物知りだな」

「覚えるまでやるされんだよ。究極、誰にでも覚えられる」


 洋の今までの世界はきっとそうだったんだろう。

 好むと好まないに関わらず、手に入れるまで、何度も繰り返す。

 繰り返し、間違え、繰り返し、飽きるほどやる時もあるんだろう。

 洋が我が強そうに見えるのは、そういう鍛錬を続けてきたことで身に付いた自信が目に見えるからだと僕は思っている。そして物事に固執すると頑として譲らない。

 軟式テニスをやっていた頃の洋は、まるでなにもかもがつまらなさそうだった。ポスンと軟らかいボールみたいに。バスケをやらせてもらえなくなった時、唯一認められたのが軟式テニスだった。

 弱小部で練習も任意、試合にさえきちんと出ればOK。

 体さえ動かせればいいんだ、とあの時洋は言ったけど、ラケットを持った洋の姿を見たことは多くはなかった。

 それより僕の練習が終わるのを、体育館の入り口の磨かれた床に座って眺めていたことの方が印象に残ってる。鈍く光る床、洋の影。


 つまり皆が思っているような、小さいくせに偉そうで、傲慢で、意地っ張りで、強気なやつは本当はいない。

 それは虚像だ。

 本物は傷つきやすく、大事なところで嫌だと言えず、いつも拒絶されるのを恐れて座り込んでいる、小さな少年だ。これは背の話ではなくて。

 多分、ずっとそばにいた僕だけが知ってる。


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