第3話

 午前十時の自宅の庭で、淳美は水を撒いていた。空の青色は深く眩しく、すくすく成長するナスと枝豆の小さな畑や、窓に張ったネットに蔓を伸ばす朝顔が、白くけぶって見えるほどに日差しが強い朝だった。気の早い蝉まで鳴いていて、まるで時計の針を進めて真夏にタイムスリップしたかのようだった。帽子をかぶって蛇口にホースを繋いだ淳美が、水を止めて背筋を伸ばした時、その呼び声は聞こえた。

「淳美ちゃん、精が出るねえ」

 しゃがれた声だった。淳美が幼い頃から変わらない、日向の布団のような温かさの声を聞いていると、今度は時計の針を巻き戻して少女時代へ跳んだ気分になる。隣家を振り返った淳美は、帽子のつばを上げて微笑んだ。

菊次きくじおじちゃん」

 浩哉が昨日うずくまっていた場所の後ろ、白と紫の桔梗ききょうの花が咲く向こうで、露原つゆはら家の居間の窓が開けられていて、山吹やまぶき色の一人掛けソファへ沈みこむように座る老人がいる。露原菊次つゆはらきくじは、軽く片手を挙げて笑ってくれた。菊次はマジシャンのようだと、淳美は思う。菊次がただ笑うだけで、風に揺れる花のように柔らかな空気が入道雲のようにむくむくと大きく膨らんで、表情にも闊達かったつさが満ちてくる。昔から淳美にとって、菊次の存在は大きいのだ。

 ただ――ソファに座る姿は、以前よりだいぶ小さく見えた。浅葱あさぎ色のパジャマが、痩せた身体に合わなくなった所為もあるだろう。淳美は、慎重に訊いてみた。

「あれから、身体はどう?」

「だいぶいいさ。ありがとう」

 菊次は、軽く顎を逸らせて笑った。愉快げな姿を見ていると、先ほど菊次が小さく見えてしまったのは気の所為に違いないと、自分を誤魔化しやすくなったから、淳美は少しだけ早く血液を送る心臓を意識しつつも、「そう」と答えて笑みを返した。

「医者も、太鼓判を押してくれたよ。予後よごは良いと」

 さらりとした声が呼び水となって、鈴の音がりんとどこかで響いた。それはきっと淳美にしか聞こえない、遠い思い出の原風景の中だけで鳴る風鈴が、風に揺れた音だった。

 予後よご。予後。あの頃の淳美は、知らない言葉だ。けれどもう子どもではない淳美は、その言葉の意味を知っている。白昼夢はくちゅうむさらわれた淳美を、菊次の声がうつつへ呼び戻した。

「淳美ちゃん。昨日は浩哉ひろやがご馳走になったって聞いたよ。いい色のスパゲティだねえ。夕焼けみたいに鮮やかな」

「え? ああ、スパゲティね」

 我に返った淳美は、どうして菊次が知っているのかと首を捻り、ワンテンポ遅れて思い出した。昨日の昼食を、浩哉がスマートフォンでバシャバシャと写真に撮っていたのだ。『あっちゃんが、初めて俺に作ってくれた、記念すべき、料理!』などと騒ぎながら。露原つゆはら家に戻ってから、菊次たちに見せびらかしたのか。淳美は頭が痛くなってきた。

「もう、浩哉は……」

「浩哉は、ずいぶん喜んでいたよ。ところで淳美ちゃん。ちと頼みがあるんだが、いいかな」

「頼み? なあに?」

 小首を傾げて訊いた瞬間、「ちょっと、お義父とうさん、いけませんよ」と三人目の声が割って入り、菊次の後ろからサマーニットに膝丈スカート姿の女性が現れた。柔らかいパーマをかけた肩口までの茶色の髪が、動作に合わせてふんわり揺れる。淳美は、隣家の中へ微笑を返した。

佳奈子かなこさん。おはようございます」

「おはよう、淳美ちゃん。ごめんなさいね、うちの人が無茶を言って」

 佳奈子は、浩哉によく似た柔和で人好きのする顔を曇らせた。昔から愛らしい笑い方をするこの女性を、幼かった淳美はどうしても、他の同級生たちが他所の家の母親を『おばちゃん』と呼ぶようには呼べなくて、淳美の母が『佳奈子ちゃん』と親しんで呼ぶのを真似て、今に至る。思い返せば淳美のこういう不器用さも、面倒見のいい菊次が目をかけてくれた一因かもしれない。菊次は、不服そうに佳奈子を見上げた。

「佳奈子さん、わしはまだ何も言っとらんよ」

「今言おうとしていたじゃないですか。淳美ちゃんは小学校の先生になってから、とっても忙しいんですから。大事なお休みを取り上げちゃいけませんよ」

「あの、佳奈子さん。菊次おじちゃん。私にお願いって何でしょうか。おじちゃんのお願いなら、叶えてあげたい。もちろん、私にできることなら」

 挙手する淳美を、佳奈子が困ったような顔で、菊次は勝ち誇ったような顔でそれぞれ見下ろした。ふと淳美は、浩哉はまだ眠っているのだろうと考えた。ニンニク入りスパゲティを食べても平気だと言っていたから、今日は用事がないのだろう。昨日の昼食を回想していたまさにそのタイミングで、浩哉の祖父であり佳奈子の義父は、楽しそうに言い放った。

「淳美ちゃん。今度うちで、昼食を作ってくれんかね?」

「え? 昼食?」

「浩哉が自慢したスパゲティが、あんまり美味しそうだったからさ。儂も食いたくなったんだよ、淳美ちゃんの手料理を。お願いだ、この通り」

 菊次は、大仏でも拝むように両手を合わせて、にかっと笑った。

「お願いって、そんなことでいいの?」

 拍子抜けした淳美は、思わず笑ってしまった。佳奈子は頬を少女のようなバラ色に染めて「ほらぁ、お義父とうさん。淳美ちゃんだって笑っていますよ。大人げないお願いをして」と文句を言ったが、二人の掛け合いも可愛く思えて、淳美は今日も露原菊次という人の大きさを実感したのだった。ささやかな願いごとを一つ唱えるだけで、周りを華やかにする菊次のそばには、いつも優しい風が吹いている。予後の風鈴を鳴らす風に、ひどくよく似たあの風だ。眼差しを遠くした淳美は頭を振って、満面の笑みで請け負った。

「二人とも、お昼ご飯はまだですよね。……台所、お借りしても構いませんか」

 その日曜日に、露原家の台所に立った淳美を一目見るなり、起き抜けのぼさぼさ頭でやって来た浩哉はぽかんと目を丸くして、「俺、やっぱり幻覚を見てるのかもしれない。あっちゃんが嫁に来てくれたように見える」などと呟いた。「それは確かに幻覚だよ」と淳美は一蹴してから、浩哉は二日続けて同じメニューになってしまったことを少しだけ申し訳なく思い、萌える緑を表すようなアスパラガスを、エビの隣に添えたのだった。

 夕焼けみたいに鮮やかなトマトクリームスパゲティを、菊次はいたく気に入ってくれた。

 そうして翌週から、毎週土曜日はスパゲティ・デーに決まったのだ。

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