第27話 美冬

 私はとっさに何が起きたのかわからなかった。

 突然体がふわりと暖かくなった。

 タカナシさんが私を抱きしめていた。

「……タカナシさん?」


 状況を飲み込めず、そう尋ねた私の耳元でタカナシさんは囁く。


「美冬」


 私はハッとして、身体がかっと熱くなるのを感じた。


 お屋敷の人は皆、私を「美冬様」と呼ぶ。

 学校の人は皆、私を「氷川さん」と呼ぶ。

 母は私を「美冬さん」と呼ぶ。

 そして、父は私の名を呼んだことすらない。


 だから、初めてだったのだ。自分の下の名をありのままで呼んでもらうのは。


「美冬」


 タカナシさんは私をギュッと抱きしめながらまた囁く。

 私は胸の奥が暖かいような、こそばゆいような不思議な気分になった。


「……はい」

「お母さんはね、あなたのことを愛している。ずっと、ずっと愛している。それだけはどうか忘れないで」


 お日様のような温もりを感じた。私は返すべき言葉を懸命に探す。

 けれど、後少しのところで、タカナシさんがそっと手をほどいた。


「なーんちゃって、です」

 タカナシさんがいたずらっぽく笑っていた。

「いつものごっこ遊びですよ。さあ、お屋敷に戻りましょう、


 そう言ってタカナシさんは私の手を差し出した。

 私はあまりに急な切り替わりに混乱しながらも、タカナシさんの手を握った。


 そうだ。そうだよね。

 ごっこ遊び。そう、タカナシさんはノリがいいからな。

 私に合わせてくれたんだ。さすが、タカナシさん。


 頑張って自分を納得させようとする。

 けれど、私は引っかかってしまう。

 一瞬だけど、私はタカナシさんの目元を見ていたから。


 けれど、それなら、どうして?

 ただのごっこ遊びならどうしてタカナシさんは泣いていたの?

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