第6話 約束

「お屋敷の裏手に森があるでしょう?」


 うんと昔、まだ雪子が私と遊んでくれた頃のとある昼下がり。

 テラスから庭で遊ぶ私と雪子を眺めていた母が思い出したかのようにポツリと言った。


「あそこには、絶対に、行ってはいけませんよ」

 穏やかに、けれど、キッパリとした口調だった。


 母は凛とした人だった。

 いつも凪いだ海のように微笑み、楚々とした美しい所作で振る舞う母だが、心の奥に気高く堂々としたものを秘めていた。


 それは週に何回かしか帰ってこない父に代わって『お城』の主人を努めなければならない母が当然備えなければならない資質だったのだろう。


 そんな母が、だめだ、と言ったものはダメであり、黒と言ったものは黒なのだ。


 けれど、私はまだ幼かった。

「お母様、どうして、森に行ってはいけないのですか?」


 無邪気に問う私を隣の雪子が慌てて諫めようとしたが、母はそっと手で制した。


「危ないからです」

「どうして危ないのですか?」


 一つ覚えみたいに「どうして」を繰り返す私。

 隣でハラハラとした表情で見つめる雪子。

 母は私の質問には答えず、逆に問う。


「美冬さんはどうしてだと思いますか?」


 私は母の予想外の反応に少し戸惑いながらも腕を組んで考えた。

 森の中、危ない、……。

「狼が出るからですか?」

 思いつきを口にした私に雪子がそっと耳打ちする。

「今の日本に狼は生息していません」

「じゃあ、虎が出るからですか?」

「日本に虎も生息していません」

「じゃあ、ク……」

「日本に熊は生息していますけど、お屋敷の裏にはいないと思いますよ。絵本の世界と現実の区別をもっとつけてください」


 雪子にそのものずばり指摘されて私はむくれた。雪子は涼しい顔をしている。

 私は母の方に向き直る。


「正解は何ですか?」


 母は表情一つ変えずに答えた。



 私はポカンとしてしまう。そして、


「ねえ、日本にお化けは生息しているの?ねえ」

 と横の涼しい顔をした人に尋ねてみると、雪子は嫌そうな顔をしてプイっと明後日の方に顔を逸らしてしまう。


 もう一度母の方を見ると母は口元を緩めていた。


「冗談ですよ」


 私はほっとする。母は「けれど」と言って続けた。


「けれど、森が危ないのは本当です。いくら整備されているとはいえ、急に木が折れることもあります。蜂や毛虫、蛇が出ることもあります。

 思わぬところにあった窪地にはまってしまったり、道に迷ってお屋敷に帰れないこともあり得ます

 そんな場所に氷川の将来を担う大切な子に行って欲しくない。

 私の言っていることはわかりますか?」


 私は幼かったが馬鹿ではなかった。

 淡々と説く母を前にして何と答えるべきか、そして、今後どう振る舞うべきかを心得ている。


「はい、わかりますお母様。森には絶対に行きません」


 私は元気よく答えると、母は静かにうなづいた。

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