姫はユキを呑み込んで

咲川音

姫はユキを呑み込んで

 あたし、あの人と心中しようと思うの。だから綾ちゃんも協力してね。

 これには流石の私もゾッとして、暫く声が出せないでいた。

「ねえ綾ちゃん、聞いてるぅ?」

 舌足らずな声が私の名を呼ぶ。その媚びを含んだ甘い響きがいつもの如く神経を逆撫でてゆき、我に返る。

「聞こえてるから、もうちょっと声抑えて」

 人通りのほとんどない田舎のバス停といえど、外で話すような内容ではない。

「で、何だって。心中? あんた死ぬつもり?」

「そう!」

 呆れて言えば、夢見心地に指を組んで、

「だって毎日辛いことばっかりなんだもん。でも、あの人と一緒に死ねたらあたし、最高に幸せ!」

 ユキちゃんと手を繋いで逝けたら、こんなクソな世の中も全部全部許せちゃう。まるでデートの約束を取り付けるかのような軽さで笑う。まあいつものことだ。この子にとって死を語ることはもはや日常と言ってもいい。

「で、あんたの大事な恋人さんは了承してるの、そのこと」

「してないよ?」

 まだ話してないもん、さっき綾ちゃんの顔を見たときに思いついたばっかりなんだから。この子は言葉の端々にこういう呪いを滲ませ、私に擦り付けていく癖がある。いちいち取り合っていたらきりがない。

「いくらなんでも嫌がるんじゃないの? 私と一緒に死んでくれなんて」

「そんなわけないじゃん。ユキちゃんはあたしのこと世界で一番愛してくれてるし、優しいし、何でも言うこと聞いてくれるんだから! 絶対いいよって言ってくれるもん」

 私は顔も見たことがない彼に心底同情してしまった。奇妙な話だけれど。

「じゃあもうすればいいんじゃない? 心中でもなんでも」

「だからぁ、綾ちゃんの協力が必要なんだってば!」

 彼女の身振り手振りを交えた拙い説明を要約すると、『あたしたちの死は永遠の愛の証で美しいもの』なので間違っても腐乱死体となって発見されないよう、事情を知る私に通報して貰いたいこと。そしてなるべく痛い思いはしたくないので、楽な死に方をご教示願いたいとのことだった。

「嫌だ。なんで私が犯罪者にならなくちゃいけないんだ」

「えー、犯罪じゃないよ? 綾ちゃんが殺すわけじゃないんだし」

「あるんだよ、自殺幇助罪ってのが」

「ええー、でもでも、こんなこと頼める友達なんて綾ちゃんしかいないんだもん! ねえ、お願いお願い」

 友達じゃなくて、腐れ縁ね。心の中で訂正しながら、私はため息をついた。

「分かった。ただし、ユキさんに会ってちゃんと計画を立ててからね。今すぐは無理」

「わあ、やったぁ! 綾ちゃん大好き!」

 抱きついてくる彼女を引き剥がす。子うさぎのように束ねたツインテールが首筋をふわふわと擽った。


 私たちの出会いを語るには小学生の頃まで遡らなくてはならない。

 彼女が「ひめ」と名乗った時は聞き間違えたのかと思った。

「妃芽?」

「うん」

 可愛いでしょ、と言いたげにニコニコしていたけれど、正直親の程度が知れると思った。いくら親ばかといえど、姫を連想させる響きを付けるなんて全く将来のことを考えていない。現に彼女は日本人に平均的な彫りの浅い顔立ちをしていて、完全に名前負けしていた。

 加えて妃芽は頭の悪い子供に特有な社会性の欠如があった。彼女の中では家庭と学校がそのまま地続きになっていて、クラスメイトや教師を親か何かと勘違いしているようだった。妃芽の機嫌は乱気流で、気を使って優しく話しかけてやっても、虫の居所が悪ければそれをそのまま態度に表す。一重の目をさらに細めて睨み付けてくる様は、彼女の両親ならば愛くるしく思うのかもしれないが、十歳そこそこの私たちには腹立だしいだけだ。そのくせ気分のいいときには馴れ馴れしくくっ付いてくる。

 自分は家族に愛されていて、だから他の人たちもありのままの自分を受け入れてくれるに違いないという、短絡的思考が癪に障った。うちの五歳の妹だってもう少し賢いのに。それは皆も同じだったようで、妃芽が厄介者の烙印を押されるのにそう時間はかからなかった。

 それでも、誰とでも仲良くするのが美徳だと信じ込まされている小学校時代はなんとか輪の端をあけてもらっていたが、中学に上がるとそうもいかない。妃芽は底意地が悪い子供たちにとって格好のサンドバッグだった。

「あれが『姫』って顔かよ」

 妃芽が何かをするたび、彼らは聞こえよがしにヒソヒソと笑い合っていた。とはいえ、その寄せられた顔たちも王子や姫とは程遠いものだったが。

 私はというと、あまりの馬鹿馬鹿しさに文庫本を開いたまま傍観者に徹していた。

 そもそもこういう問題は大人が介入するべきなのだ。私や他のクラスメイトが咎めたところで猿山の馬鹿共が改心なんてするはずがない。それに私は、少なくとも三月までこのコミュニティに属さなければならないのだ、不本意だけれど。攻撃のターゲットが移ると厄介だ。

 見ているだけの人間も虐め加害者と同罪だなんてよく聞くが、あれはよっぽどお気楽な子供時代を送った人間か、学生時代は虐める側だった人間が正義という棒で人を殴ってみたくなっただけの戯れ言である。それか教師の責任転嫁か。とにかく、担任は把握した上で放置しているのだから、私の口を出すことではなかった。妃芽も流石に自分の置かれた立場を察したのか、口を閉ざし、俯いていることが多くなっていった。

 そんなある日、図書室に向かう途中、人気のない廊下にすすり泣きが響いていた。声を辿れば曲がり角の奥、渡り廊下に続くドアの前に誰かが蹲っている。妃芽だった。彼女はこちらの気配に気づくと、援軍を見つけた怪我人のような顔で「綾ちゃん」と呟いた。

「……何やってんの、こんなとこで」

 私は否定するように平たい声を出した。彼女と言葉を交わすのは久しぶりだ。それを受けた妃芽は睫毛を伏せ、また肩を震わせてひっくひっくとやりだす。そのどこか芝居がかった態度にイラッとして、

「あんた、もう少し大人になれば?」

 つい、長年の不満をぶつけてしまった。

「……え?」

「あいつらが馬鹿なのは置いといて、あんたは明らかに空気の読めてない言動が多すぎる。子供じゃないんだからもう少し考えな。入学したばかりの頃、仲良くしようとしてくれた子たちを邪険にしたのはあんた自身だよ」

 だから今こうやって孤立してるんでしょ。ただでさえ満身創痍の彼女はそれがトドメになったようで、うわーんと声をあげて泣き出した。流石にやりすぎたか。けれどあの教室に不満を覚えているのは妃芽だけではないのだ。

 スクールカーストでの絶対的権力者は知能が高い者でもリーダーシップがある者でもない。幼稚な残虐さを振りかざし、客観性を持たない者である。そして私はそのピラミッドの下の方に組み込まれているのを肌で感じていた。

 そこまではまあ良いのだが、どうやら彼らの法律では身分の低い者は分をわきまえて暮らさなければならないらしい。毎日繰り広げられる幼い独裁ごっこに、私はほとほと疲れ果てていた。

 なんとなく妃芽が泣き止むのを見届ける責任があるような気がして、私は彼女の前に突っ立っていた。慰めは期待できないと悟ったのか、嗚咽は少しずつ止んでいき、やがて膝を抱えたまま動かなくなる。

「――じゃ、私行くから」

 背を向けようとすれば、妃芽は待ってと顔を上げた。

「なに」

「綾ちゃん、綾ちゃんはあたしのこと嫌いなの」

 私は立ち止まって考える。確かに妃芽にはイライラさせられてきたけど、というか今もだけど、彼女における問題の根源は精神年齢が幼すぎるが故の無邪気さであって、誰かを貶めてやろうという姑息さは感じられない。そういう意味ではひそやかな嘲りでしかコミュニケーションのとれない彼らよりよっぽどマシだ。だから好きか嫌いかと聞かれると、

「いや、別に嫌いではないけど」

 となる。途端、妃芽の顔に笑みが戻った。

 いや、好きだとも言ってないんだけど。なんとなく嫌な予感を覚えながら、私は彼女をその場に残して図書室に急いだ。


 そこは妃芽の憩いの場として定着してしまったらしい。

 放課後は図書室で勉強するのが日課だったから、帰り道はいつも妃芽につかまった。

「綾ちゃん今日もお勉強してたの? 偉いねぇ」

「あんたもしなよ、来年受験なんだから」

 妃芽への虐めは相変わらず続いていた。彼女はやはり俯いてじっと耐えていたし、私は傍観者であり続けていたから、引き留められれば罪悪感から隣に座った。

「あたし、綾ちゃんと同じ高校行きたいなぁ」

「いや、無理に決まってるでしょ。自分の成績分かってんの?」

 妃芽は相変わらず無邪気だったけれど、私たちを困らせたあの我儘さはだいぶ鳴りを潜めていた。この調子なら高校では友達の一人でもできるかもしれない。

 こうやって妃芽と話す時間は、私にとってそれほど楽しいものではなかった。まず彼女は圧倒的に語彙に乏しい。こちらの発言の意図を明らかに分かっていないまま、うんうんと受け流していることが殆どだ。そして言語化能力も低く、彼女の考えを明確に表現することができないでいた。

 それでも私が早々に帰宅しなかったのは、妃芽のカーストを通してものを見ない治外法権な価値観に安心を覚えたからだった。まあ、彼女の無知を無垢と勘違いしていただけかもしれないが。

 これはいわゆる黒歴史というやつで、今思い返しても羞恥のあまり布団にもんどり打ってしまうのだけれど、私は妃芽に、こっそり書きためていた小説を見せたことがある。大学ノートに綴られたそれはとても小説とは呼べない代物だったけれど、妃芽は凄いねぇ凄いねぇと目を輝かせていた。私はそれを真に受けて、将来は小説家になるんだとかなんとかのたまった気がする。脳が思い出すことを拒否しているから、記憶が曖昧だけれど。

 そんな夢、クラスの誰にも話せなかった。

 確か当時の私と同じ中学二年生の女の子が主人公だった。ある日現れた妖精と旅をして、不遇のフェアリープリンセスを救いに行く物語。

「このプリンセス、可哀想……ねえ、主人公とプリンセスは運命で結ばれてるって書いてあるけど」

「うん。いまどき流行らないでしょ、姫を助けに行く王子なんて」

「でも、女の子同士なのに?」

「運命が恋愛感情とイコールなんて価値観、古いんじゃない? 私は愛以上の運命ってあると思う」

「そっかぁ」

 妃芽は忘れてくれているだろうか。

 その後、私たちは当然違う高校に進学した。そうすると会う機会も少なくなる。妃芽との時間はいい思い出になっていたけれど、積極的に連絡を取り合うまでの親愛の情は生まれていなかった。少なくとも私の方には。

 私たちは自然と疎遠になっていった。例の小説はとうとう未完のままだった。


 妃芽と偶然再会したのは大学三年生の秋、その日は朝から雨が降っていて、バイト先の弁当屋で私は暇を持て余していた。

 そろそろ店を閉めようかという頃、すりガラスの向こうに人影が見えた。輪郭からして女性のようだ。この店は古くて、ドアの建て付けが悪いからこちらから引っ張ってやった方がいいだろう。そう思ってレジを出た瞬間、ドアが横にさっと流れた。目の前でカーテンを大きく開かれたような感覚。そしてその真ん中に――

「綾ちゃん!」

 笑顔の妃芽が手を振っていた。


「まさかこんな所で会えるなんて! 夢みたい。元気だった?」

 久しぶりに見る彼女は随分印象が変わっていた。

「うん、おかげさまで……えっと、個性的な服だね?」

「えへへ、可愛いでしょ」

 レースとリボンがふんだんに付いたスカートをふんわりと広げてみせる。

 甘ロリというやつだろうか、妃芽はその名前の響きの通り、おとぎ話のような装いをしていた。

「綾ちゃんはいま何してるの?」

「私は大学で薬学をやってる。妃芽は?」

「あたしは、んー、コンカフェとか色々」

 巻いた髪をツインテールに結わえて、服に合わせたリボンを付けている。それでいて化粧はすっぴんに近かったから、私はそのアンバランスさに不健康なものを感じていた。

「いまバイト帰りでね。おなかペコペコで、もうどうしようってなって。この辺ご飯屋さんないでしょ? だから思い切ってここに入ってみたんだけど、ほら、古いお店ってなんか入りにくいじゃん? でも大正解だったみたい、ね、綾ちゃん、また会えたんだもんね」

 うふっと肩をすくめて後れ毛を耳にかける。めくれたフレアの袖の向こうにはリストカットの赤い線が何本も引かれていて、私は急に現実に引き戻された気持ちになった。


 その日から妃芽はうちの店の常連になった。時間はまちまちであったが、私がシフトに入っている日は必ずやってきて、聞いてもいないのに、

「あたしと彼の分!」

 と言いながらからあげ弁当を二つ買っていく。

 話を聞く限りでは、妃芽は碌でもない男にばかりのぼせているようだった。ある時はホストに大金を貢いでいたし、またある時は自称バンドマンとかいう実質ヒモをせっせと養っていた。彼女がからあげ弁当一つと言う日は決まって瞼を泣き腫らしていて、小さな耳には日に日にピアスが増えていく。

 そんな妃芽を前に私は、淡々とレジを打っているだけだった。申し訳ないけれど、もはや住んでいる世界が違うのだ。それにこの歳になれば交際相手を選ぶのも自己責任だろう。

 「弁当一つの日」は家に帰りたくないのか、私のバイトが終わるまで外で待っているものだから、バス停までの道すがら彼らへの愚痴くらいは付き合ってやっていた。

「綾ちゃん! 焼き魚弁当二つください!」

 そんなある日の夕方、スキップするような足取りで店に入って来た妃芽は、私の眼前にピースサインを突きつけた。

「珍しい。今日はからあげじゃないんだ」

 その浮かれた指を押し返しながら言う。

「そうなの、あの人が揚げ物苦手だって言うから。えへへ」

 また新しい男ができたようだった。私もフライの類いは胃にもたれて嫌いだったから、どことなく親近感を覚える。

「私も焼き魚弁当が一番好きだな」

「そうでしょう? えへへ」

 妃芽はその彼をユキちゃんと呼んだ。もう同棲もしているらしい。これまでのように馴れ初めから愛の言葉まで事細かに語ってくるかと思えばそんなことはなく、寧ろ私を待たずしてさっさと家路につくのだから、少々肩透かしを食ったような気分だ。

 まあ、幸せなのは良いことだ。歴代彼氏よりはマシな男なのか、彼女の情緒は見るからに安定していたし、手首にも新たな線が重なることはなくなっていった。

「どうしても綾ちゃんに会って欲しいの! ユキちゃんもぜひって」

 久しぶりに店先で待っていたと思えば、妃芽は彼を紹介したいと言い出した。

「えー、いいよ、別に話すこともないし……」

「ちょっと上がってお茶するだけでいいから!」

「それがめんどくさいって言ってんの」

 本当に、心底興味がない。

「やっと見つけた運命の人なの!」

「そう、良かったね。お幸せに」

「もー、綾ちゃんってば!」

 それからもあまりにしつこく纏わり付いてくるものだから、かえって面倒になってしまって、とうとう次の休みに約束を取り付けられてしまった。


 中学まではあの放課後の会話しかなかったし、再会してからはバイト先だけでの付き合いだったから、妃芽のプライベートに踏み込むのはこれが初めてだ。

「じゃーん、ここの三階です」

 最寄り駅まで迎えに来た妃芽について行けば、そこは随分と古めかしいアパートだった。今日地震が来たら終わりである。

 彼女が言うにはユキちゃんとやらは部屋で待っているとのことだったが、

「ただいまー! 綾ちゃん来たよー」

 扉の向こうはしんと静まりかえっていた。コンビニにでも行っているのだろうか。

「早く入って入って!」

 妃芽の部屋は服と同じく、可愛らしい小物で統一されていた。ピンクのベッドに猫足の白い椅子、光を編み込んで揺れるレースのカーテン。パステルな色に囲まれているはずなのに、なぜかこの空間全体の彩度が低く感じられた。

 部屋を見渡している私に妃芽は得意げに微笑むと、

「綾ちゃん、紹介するね!」

 隣の虚空を手のひらで示しながら、言った。

「この人が、私のユキちゃん」


「ユキちゃん、この子が幼馴染みの綾ちゃん。……うん、そうそう。いつも買ってくるお弁当屋さんの」

 誰もいない空間に向かって話し続ける妃芽を、私は思いのほか冷静に眺めていた。夏に放送される奇妙な怪談番組のワンシーンみたいで、現実味がなかったからだ。彼女は誰かの輪郭を追うように指を滑らせ、抱きしめるような動作を繰り返している。

 やっと思考力の戻ってきた頭に最初に浮かんだのは、

――ああ、とうとう行くとこまで行っちゃったのか

 という妙に冷めた諦めだった。

「じゃあ私、帰るから」

 本来なら引きずってでも病院に連れて行くべきなのだろうが、これ以上奇妙な一人遊びに付き合う義理もない。足早に玄関へ向かえば、案の定不満げな声が上がった。

「ええー、今来たばっかりじゃん」

「急用を思い出したの」

「嘘! ねえ、ユキちゃんもなんとか言ってよぉ」

 だってぇ、綾ちゃんと食べようと思ってお菓子まで用意したのに。うん、うん、分かってるけどぉ……背後で話し続ける妃芽に、早くここを出ないと私まで幻聴が聞こえてきそうだ。それともおかしいのは私の方で、本当に誰かがそこにいるのだろうか。

 ちらと振り向けば、妃芽が悲しげに眉を下げて部屋の真ん中に立っている。彼女の中にいる「ユキちゃん」は、今どんな顔をして私を見ているのだろうか。


 私と対面させたことでより実在感が高まってしまったのか、それからの妃芽は口を開けばイマジナリー彼氏との毎日を惚気ていた。

「……でね、昨日は当欠しちゃったんだけど、そしたらユキちゃんが頑張らなくてもいいよって言ってくれて、ずっと背中トントンって」

「ごめん、バスが来たから」

「うん。今度また遊びに来てね、ユキちゃんも待ってるから」

 妃芽はユキちゃんの容姿について詳しく語ることはしなかったけれど、彼のエピソードが増えていくたびに段々と私の中に明確な像が結ばれていく。それが恐怖だった。

 妃芽とユキちゃんはどんどん仲を深めていき、最初は会話しているだけだったのが次第に手を繋ぎ、キスをし、そして昨日はとうとう身体の関係を持ったらしい。水彩画が滲んで色が混ざるように、このままだと私と妃芽のいる世界が繋がってしまう気がした。

 だから私は強い意思をもって油性ペンを握り、その絵に黒い線を引く。家の場所は教えていないし、大学名も言っていない。共通の友人はいないから、情報が漏れることもないはずだ。あの弁当屋のバイトもやめてしまおう。

 そう決意した数日後、妃芽に心中の話を持ちかけられたのだった。


「楽に死にたいって言うけど、ガス系は絶対にするんじゃないよ。他の部屋に漏れでもしたら、あんた人殺しだからね」

 私はまた妃芽の部屋に足を踏み入れてしまっていた。「愛の心中作戦会議」に私の部屋を提供するのは断固として阻止したかったし、カフェなどの人の目があるところでは下手したら通報されてしまう。

 こんな物騒なことを言っているけれど、なにも本当に妃芽の妄想を手助けしようとしているわけではない。寧ろ逆で、「あたしが先に逝くから、ユキちゃんも後から追ってきてね」なんて展開にならないよう見張っているのだ。それだと本当にこの子だけが死んでしまう。私の知ったことではないけれど、こうなった以上、人として放置するわけにもいかない。

 私は妃芽の右隣を指さして宣言する。

「だから方法としては、今からここで先にユキさんに死んで貰う」

「えっ」

 妃芽は指と反対側に顔を向けた。そっちにいるのか。

「場所はまあ、お風呂場でいいでしょ。絞殺か刺殺か、とにかくあんたがユキさんを殺して、そのあと首吊りでもなんでも好きな方法で後を追えばいいじゃん」

 いくら妄想の世界にいるといっても、実態のないものに刃は突き立てられない。しかもこれまでのような心を癒やすための行為ではなく殺しなのだ。手順を踏むうちに正気に戻るまではいかなくとも、思い止まるくらいはするかもしれない。

 まあ、これでだめなら今度こそ病院だ。

「でも綾ちゃん、あたしはユキちゃんと一緒に死にたいんだもん」

「同時になんてほぼ不可能でしょ。それにユキさんが直前で心変わりして逃げたらどうすんの。一人で死ぬのは嫌なんでしょ」

「うん」

「だからこの方法が一番確実なの。ロミオとジュリエットだって死ぬのに時間差があったんだから、ほぼ心中みたいなもんでしょ」

 さっき人殺しになるなと言っておきながら積極的にユキちゃん殺しを勧めるなんて矛盾もいいところだが、まあこちらは実害が出ないので良しとしよう。

 妃芽はうーんと唸って、ユキちゃんはどう思う? などと聞いている。

「――うん、あたしも! あたしもユキちゃんのためなら命だって惜しくないよ。だってあたしたち、運命なんだもんね」

 一人で勝手に盛り上がっている妃芽を眺めながら、私は妄想上の存在とはいえここまで愛されるなんて羨ましい話だと、出されたお茶をちびちびやりながら思っていた。生身の人間にこのレベルの愛を求めれば破局しか道はないのだから、これも一つの幸せの形なのかもしれない。

「綾ちゃん」

「なに」

「死んじゃったらもうお別れだから、さよならのプレゼントちょうだい」

 餞別と言いたいのだろうか。

「えー」

「お願い綾ちゃん。なにか一つ、綾ちゃんの大事にしてるものをちょうだい」

 大事にしているものか。何だろう。最近新しく買った鞄が思い浮かんだが、この子に渡すには惜しすぎる。ふと目線を落とした先に、首から下げたネックレスが揺れていた。

「じゃあ、これあげる」

 後ろに手を回して留め具を外す。チェーンの先には雪の結晶をかたどったガラスがきらめいていた。このあいだ駅前の雑貨屋で見かけて、何となく手に取った物だ。これなら安物だし、特に思い入れはないから手放しても惜しくない。

「いいの?」

「うん。ちょうどいいでしょ、『ユキさん』だし」

「これ、綾ちゃんの一番大事な宝物?」

「うん、超大事なやつ」

 笑いながら手に乗せてやると、妃芽は飛び上がって喜んだ。

「やったあ! えへへ、ありがとう。これ一緒に持って行くね」

「うん、そうしなそうしな」

 さ、見張っててあげるから早くユキさんのこと殺しなよ。もう夕方に近い時間だと気がついて、人でなしな急かし方をする。

「あっ、ちょっと待って! 心中なんだから、ちゃんと綺麗に着飾らないと。お化粧もしなくっちゃ」

 そして小さなクローゼットを開けると、

「ねえ、ユキちゃんはどのスカート穿きたい?」

 と聞いた。

「……スカート?」

「うん、やっぱり二人で色合わせた方がいいかなあ。あっ、同じブランドにするのもいいかも」

「ちょっと待って、ユキさんって女の人なの?」

 何言ってるの綾ちゃん、見たら分かるじゃん。妃芽はケラケラと笑う。

「――ユキさんって茶髪のショート?」

「ううん。綾ちゃんと同じ長さの黒髪だよ」

「服はどんなの着てる?」

「白のニットに黒いスカート。あは、綾ちゃんお揃いだね」

 私の思い描いていた「ユキちゃん」が一つ一つ書き換えられていく。そして最後に現れたのは私と全く同じ顔をした「ユキちゃん」だった。

 妃芽に腕を絡め取られたユキちゃんが私を見て口角を引き上げる。私は声にならない悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。

「どうしたの、綾ちゃん」

 妃芽は不思議そうにきょとんとしている。もう私にも見えていた。妃芽の横をすり抜けてこちらに近づいてくるユキちゃんが。一歩一歩はっきりした輪郭となって、私の腕に手を伸ばす。

「ねえ、ユキちゃんの、殺し方なんだけど――」

 殺される。私はその手を振り払って、転がるように玄関へ走った。ぶつかる勢いのままドアを開け、無我夢中で階段を駆け下りる。目を見開き、死に物狂いの形相な私に道行く人はみなギョッとしていたが、気にしている余裕などなかった。瞳が乾いて涙が頬に線を引く。私の顔をした幻がどこまでも追いかけて来るようで、最後まで振り向けなかった。


 それから私たちは二度と会うことはなかった。夜が来るたび、あの幻が今にもドアを開けて私を刺し殺す悪夢に震えていた。それは何度引っ越しても呪いのように付いて回った。なんとか大学を卒業した後、私は縁もゆかりもない土地に就職先を見つけ、やっと妃芽のいる街から脱出できたのだった。

 それから更に数年の月日が経ち、仕事にも慣れてきた頃、中学時代の友人と会う機会があった。どこから居場所を聞きつけたのか、仕事で近くまで来ているからお茶でもしないかというお誘いだった。喜び勇んで待ち合わせのカフェに行くと、感動の再会もそこそこに、あの頃の面影を残す彼女はマルチ商法の勧誘を始める。

――これも人間関係を疎かにしてきたツケかな

 喜んでいたのは自分だけかとふてくされていると、こちらが乗り気でないのを察したのか、

「そういえばさ、妃芽って子がいたの覚えてる?」

 昔話を切り出してきた。

「え、妃芽……?」

 その名前に固まっているのを肯定と受け取ったらしい。彼女はぐっと身を乗り出して、

「あの子ね、この前自殺したらしいよ」

 と囁いた。

「え……?」

「なんかお風呂で手首切って死んでたんだって。それで、遺体を解剖したらさ」

 これ以上聞いてはいけない。本能が警告を出していたのに、私が声を出すよりも早く友人の唇が動いていた。

「喉に、ネックレスが詰まってたんだって」

 気味悪いよね、病んでたのかなぁ、昔も虐められてたもんね、あの子――友人の声が遠のいていく。腹の底から何かがせり上がってきて、うっと口を押さえた。

「わ、私トイレ……」

 個室まで間に合わず、私は洗面台に紅茶と胃液の混じった苦い汁を吐き戻した。えずきながら顔を上げると、あの日と同じ、涙目の自分と目が合う。

 その瞬間、今更ながら――本当に今更ながら思い出したのだが、ユキというのは私が妃芽に見せた小説の主人公の名前なのであった。


 妃芽はユキを呑み込んで死んだ。

 その事実に私は胸を撫で下ろした。もう彼女が私を殺しに来ることはないのだ。夢も見ない深い眠りはいつぶりだろう。

 けれど仕事のミスを怒られた時、一人きりの部屋に孤独を感じたとき、ふと胸元からどこかへ引きずり込まれるような感覚に襲われる。彼女を窒息させたそれは手元にあったのもほんの数日のガラクタなのに、まるで私の一部を持って行かれてしまったように思うのだ。

 そういう時、私は虚ろを隠すように胸元に手を当てる。トン、トンと叩くたびに私の中に結ばれたままの「ユキちゃん」の像が書き換えられて、段々と妃芽の面影に近づいていくことから目をそらしたまま、トントン、トントンと胸を打ち続ける。


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