第35話

 その日以降、しばらく景子は家に帰ることがなかった。




「どうしたんすかね」


「あぁ、仕事だから。心配することは無いぜ」


 夕食時、信一の作る料理を平らげながら、いつの間にかそんな会話になっていた。

 景子がいなくなって早十日。まとめ役不在という中でも私生活に大きな問題はなかった。

 テーブルには七人。景子以外の全員が揃っている。そこには当然恵美の姿もあった。

 妊娠しているとは言ってもまだ外見から分かる程では無く、予定では翌年の六月頃らしい。その間本来の担当である料理は信一が一手に引き受けることになっていた。

 それでは負担が大きいだろうと、手すきになった面々が手伝うといっても、


「もう慣れちゃったし。それに下手に手伝われるとただ迷惑だよ」


 そう言って取り合おうとしない。

 言い方に相変わらずの棘が含まれているが、出てくる料理の完成度を見ると、閉口せざるを得ない。

 ……旨いだけじゃなく、上手いんだよな。

 傍から見ていてもその手際の良さに感心するほどだ。

 体に似合わない大きな調理器具を操り、同時進行で複数の料理を完成させていく。

 そのうえで盛り付けにも凝っているのだから、手の出しようがない。

 出来るといえば配膳や後片付けくらいなのだが、


「ちゃんと所定の場所にしまうこと。洗い残しは論外だけど、包丁のそばに水気のあるものは近づけないでね、マジで」


 その表情は鬼気迫るものがあり、誰も逆らえない注文のせいで、慣れているメンバー以外がしり込みしていた。

 いつも通りテーブルには大皿が並び、全員が席について食事をする。

 レパートリーは和洋折衷。主菜ですら数品あり、主食も二種類以上用意されている。

 どれを食べても味は家庭料理の域を超えている。ただ一つ要件があって、全員で完食することが決められていた。

 一週間分の材料の調整が面倒くさいんだよ、と信一が言うからその通りなのだろう。そのせいで女性陣も遠慮なく食べなければいけないことに多少の不満があった。


「その分運動すればいいじゃん。言い訳だよ、それは」


 以前に言ったその一言で、一時夕食希望者が減ったが、その分外食で太ってしまう事実に一か月と持たずに皆で食卓を囲む状況に戻っていた。

 食事に関しては聡と恵美がよく食べるほうで、他はあまり大差がない。ただ晩酌と談笑のせいで一時間で終わることが少ない。

 この日も恵美以外は思い思いに酒を飲みつつ、話をしていた。

 その中で詩折の問いに、聡が答えると、


「ならいいっすけど……」


 歯切れの悪い言葉を紡いで、詩折はグラスを傾ける。

 もう何度目になるかもわからない会話だった。誰が聞いても状況を把握しているだろう聡の返答は変わらない。

 心配ではあったが、冷静な聡と景子の人となりを考えて次第にその気持ちも薄れていた。ただどこにいるのかくらいは全員が知りたがっていたが。

 ほんと、なにしてるんだか……

 気になっても答えが返ってこない以上しょうがない。光秀はそれよりもと、以前に増してよく食べるようになった恵美に話しかける。


「もう大丈夫なのか?」


「いやー、お恥ずかしい所を見せてしまって。あんまり部屋にいるのも良くないしね」


 今日も茶碗に山盛りのご飯を二杯も食べ終えた恵美は両隣に座る男性を一瞥して、


「それにパパは二人とも良くしてくれるから」


「よかった」


 屈託のない笑顔を浮かべる彼女に、光秀はそう短く答えた。

 ここ数日で話がある程度まとまっていたことは信一から聞いていたため、その笑顔に嘘はないだろう。それでも本人の口からちゃんと聞けたことに安心を覚える。


「無理しないでくださいね」


 光秀の隣から由希恵が声をかける。

 それに対して、恵美は少し伏し目がちになってから、


「ありがと……ごめんね、色々と」


「恵美さんは悪くないですよ。だって──」


 頭を軽く下げた姿に、由希恵が笑顔で答える。

 そして、信一、顕志朗をわざとらしく長々と見つめた後、


「──計画もなしに避妊しなかった男性の方が悪いんですから」


 その言葉に光秀も視線を逸らす。


「まぁまぁあんまり責めないであげて。私も悪かったんだし」


「甘やかすとまたやりますよ」


「……容赦ないなぁ」


 女性二人のやり取りを聞いて信一がボソボソと呟いた言葉に由希恵がキッ、と睨む。

 おぉ怖っ、と身を引く彼は、その後身を乗り出して光秀にだけ聴こえるように口元に手を当てると、


「……ちゃんと手綱握っといてよ?」


「ははは……」


 善処する所存であります。

 そんなことを思いながら苦笑いで返すと、信一は仰々しくため息をつく。

 それにしても、と光秀は由希恵を見る。

 ……遠慮が無くなったなぁ。

 あの夜の一件から、由希恵の皆に対する一歩引いた態度はほとんど無くなっていた。思ったことははっきりと伝えるようになったし、それが行動にも現れていた。

 ただそれは由希恵に限ったことではなく、ルームシェアをしている皆にその兆候が見られている。

 より感情が表に出るように、そしてより踏み込んだ話をするようになっていた。

 その分衝突することも度々あったが、今のところ大きな問題になってはいない。

 いままでいた調整役が不在なことも結果として良い方向に向かっていたようだ。


「それにしても、いなくても何とかなるもんだね」


 信一が突然言い出したことに、皆が軽く頷く。

 良くも悪くもストッパーだった景子がいないため、自分の言葉の意味をよく考えるようになった。ただそれにより萎縮するのではなく、


「まぁ、皆いい大人ってことっすね」


 詩折の言う通り、誰かが代弁するのを待つのではなく、自分から発信することを重視するようになっていた。

 ……いい傾向だよな。

 言い方は悪いが景子が今いなくて良かった。

 そう思いつつ、光秀は箸を手に取る。

 その時、

 ピーンポ、ピーンピーンポーン。

 ドアベルの音がリビングに鳴り響く。

 そして、皆が一斉に聡の方を見ていた。


「いや、俺じゃねえよ!」


「ごめん、つい。あんなバカみたいな連打するの聡くらいしか思いつかなかったから」


 みんなの気持ちを代弁するように信一が言う。

 その間もベルが数回鳴らされていたため、聡が、


「誰だよ、全く」


 不平不満を露わにしつつ、席を立つ。

 そして、 


「あー! ただいま!」


 少しして玄関から聞き馴染みのある声が響く。

 近所迷惑にもなりかねないその声量に、


「……噂をすればなんとやら、か」


 ゆったりと日本酒を嗜んでいた顕志朗がぽつりと呟く。

 いささかタイミングが良すぎる気がするなぁと光秀は思いつつ、久々の帰還にどこか落ち着く気持ちを感じていた。

 ふと、信一と目が合う。彼は小さく顎で玄関の方を指し示す仕草をしていた。

 迎えに行ったら? ということなのだろうか。その意図を察して、なかなか現れない声の主を迎えに行く。

 リビングから一枚扉をくぐり、廊下の先にある玄関では、両手両肩に大量の荷物をぶら下げた景子の姿があった。


「おかえり……凄い荷物だね」


 まるで藤の花のようになった景子は、一人では荷物を下ろすことが出来ない様で、花を収穫するように聡が彼女の指を解しながら荷物を下ろしていく。

 何が入っているのかは外見からは想像できないが、地面に着いた時の音で相当重いものであることは分かった。


「男共ぉ、手伝えー」


「はぁ、何買ってきたの?」


 ちょうど後ろから覗いていた信一が声を発する。光秀が振り向くとそこには信一以外にも何人かが顔だけ出して覗き見をしていた。

 徐々に身が軽くなって、自由に動けるようになった景子が、聡と共に荷解きをしながら、


「あぁお土産よ、お土産。ちょっとアメリカ行かされてたの」


「そんな急に行けるもんなの?」


「行く気になればね。チケットは前から取ってたし、代理よ代理」


 お土産の食品、着ていた洗濯物、その他私物など分類分けし、それぞれを担当に渡していく。

 いつも通り、下着類も含め衣服を雑に渡された光秀はため息を付きつつ近くのランドリーバッグに詰め込んだ。

 ある程度仕分けが済んだところで、景子は信一を呼びつけて、


「……やたらテンション高いね」


 しまっといて、と両手に収まりきらない程の食料品を渡された信一が、一度それらを床に置きながら尋ねていた。


「時差ボケだと思うわ。明日一日死んでると思うからよろしく」


 最終的に景子はバッグ一つを手に取って、もう片方の手をひらひらと振りながらリビングに向かう。


「あーそれと──」


 その途中、全員をすり抜けた後振り返ると、


「──大家から退去命令出てたけどどうした?」


 さも当然のように言った。

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