第34話

「落ち着いた?」


「……はい」


 荒い呼吸が治まりをみせたとき、光秀が声をかけると、由希恵は小さく頷いていた。


「ちゃんと喧嘩したの、初めてだね」


「喧嘩……ですかね?」


 その疑問に、ちがうかも、と光秀は細かく胸を上下させる。


「……そんなに信用ないかなぁ」


「何がですか?」


「三年だよ、三年。もう十分皆のことわかってると思ってた。確かに知らないこともまだまだあるけど、こんな風にもっとぶつかっても関係が壊れることなんてないと思うんだよ。それは全員に言えるんだけどさ」


 表面上まとまりがあるように見えてもやはりそれは表面上なだけの事で、どこかでお互い踏み込まないようにする遠慮があった。

 知らず知らずのうちにその状況に慣れすぎていて、それが当たり前になり過ぎていたのだ。

 初めの頃はそれが良かったのかもしれないが、今となってはただ本音を隠しているだけだ。言いたいことも充分に言えず改善もない。募るストレスを発散もできない。

 砂上の楼閣であることを分かっていながらも見て見ぬふりをしていたつけが今になって返ってきているだけだと思うと、

 まだ、今でよかったかな。

 光秀は夜空を見つめながらそう考えていた。

 どうしようもなく、取り返しがつかない状態では無い。それを考えると今発覚したことが幸運な事だと感じてしまう。


「わかんない、理解できないって疲れるし不安になるよなぁ」


 光秀はそう呟いて、笑みを浮かべる。

 由希恵からは力が抜けて体が布団のようにピタッと重なる。

 ただ聞き役に徹する姿に、光秀は、


「俺だって困ること、答えが見つからないことだらけだよ。すっごいストレスだけど、それ以上に皆がいるから楽しめてる……プラスマイナスで言ったら若干プラスくらいかもだけど」


 脳内には個性豊かな面々の顔があった。

 走馬灯の様に思い出が過去に向かって流れていく。それを見つめていると不満が肺のあたりから低温のマグマのようにしつこいものとして湧き上がってくる。


「つうか、変人すぎるんだよ、皆。このままだったら絶対禿げるわ、心労で」


「禿げ……」


「想像するんじゃありません」


 顔を上げた由希恵の目線が頭の方にあるのを感じて、光秀は後頭部に手を当てて彼女の顔を胸に押し付け直す。

 禿げ、ないよな?

 幸いなことに父、祖父の頭部には髪があったことを思い返して大丈夫と自己暗示する。

 後は日頃のケアだけしっかりしようと意志を固めて、光秀は由希恵に向けてつらつらと話し始めた。


「心配、っていうのとは違うんだよなぁ。なんていうか、母性? 父性か。今はどう答えを出してもいいからそれまで見守っていてあげたい感じ」


 心情を吐露すると、由希恵は小さな声で、


「……引き取り先が梁瀬さんだったらよかったのに」


「よしてくれ。まだそんなに老けてない」


 それに、それこそちゃんと出来る自信が無い。

 本人にとって地獄のような日々だったことは分かる。それでももう過ぎてしまったことだ、今更変えることは出来ない。

 突き放すような言い方になってしまったことに内心少しの後悔があった。彼氏っぽくないな、と考えて、


「あっ」


「どうしたんですか?」


 突然声を上げた光秀に、由希恵が問う。

 直ぐに答えようとして、数回口を開き閉じした後、


「……なんかわかった気がするんだ」


 それだけしか言えない自分に可笑しくなる。

 まとまんないなぁ。

 たった今思いついたことがまだ形になっていなかった。

 だから上手く最初の言葉が浮かんでこず、しばらく考えるように、あーとか、んーと唸り声をあげた後、


「──ずっと前に、失恋が思いのほか悔しくなくて。なんでだろうって思ってたんだ」


 そして、


「薄情なのか、本気じゃなかったのか。自分の心の中のことなのに全然わからなくてさ。恵美の話を聞いて、自分もそうなのかと思ったけど、違和感拭えなくて」


「それでどうしたんですか?」


「うーん、上手く言葉にできないなぁ」


 考えながら話すもんじゃないな、と光秀は苦悶の表情を浮かべる。

 伝えたい事をはっきり示す言葉がなくて、代わりに迂遠と装飾過多にするのも納得がいかない。

 戸惑う光秀に、由希恵は話が中断してしまったことで、


「なんですか、それ」


 白けた声で笑っていた。


「……好き、と愛しているの違いかなぁ。俺の中で好きは相手を尊重することだったんだ。でもそれって相手が嫌なことをただ避けてただけなんだよ。でも愛してるって嫌なこともしなきゃなんだなって」


「……」


「うーん、我ながら一級品に臭い台詞だな」


 わざと茶化すように呟いたのは、気恥ずかしくなったからだ。

 暗がりの中でも紅潮した頬に気づかれそうで、光秀は腕の力を強める。

 今となっては自分の方が暑くなってしまい、それを紛らわすため、体を左右に振る。

 ひとしきりそれを続けたあと、


「で、由希恵はどうする? もう少しこうやってる?」


 それすらも恥ずかしくなって、光秀は尋ねていた。

 だいぶ弄ばれた由希恵は最後に強く抱き返してから、


「ありがとうございました」


「いえいえ」


 地面に両手をついて互いの距離を離すと、自然と目が合い、二人して笑っていた。

 ただ、一つ気がかりなことがあって、

 着信、鳴りっぱなしなんだよなぁ……

 相手が誰だかわからないが、由希恵を見つけて少ししたあたりからズボンの前ポケットに仕込んだスマホの鳴動が絶えることがなかった。

 もちろん気づいてはいたが取り出す状況になかったため放置せざるを得なかったのだがそろそろ限界かと、光秀は思っていた。

 そのことを伝えるため、光秀は、


「さて、そろそろスマホの着信がえぐいことになってるから帰りたいんだけど――」


 由希恵にそう言いかけて、ふと、顔を横に向ける。

 特別理由があった訳では無い。ただ何となく良くない気配を感じて、

 ……あ。

 それを見つけた。

 公演の端、フェンスにひとが立ち並んでいる。

 それは六人分の影で、バラバラな身長にとても見覚えがあった。

 その体勢のまま固まる光秀に、同じように視線を向けた由希恵も、状況に気づいたようで、


「――のぞき見とはずいぶん趣味が悪い」


 光秀が彼らに聞こえるように声を張り上げると同時に、跳ね除けて急ぎ立ち上がる。

 結果として胸を強く押された光秀は、ぐへっと息を強く吐かされることになった。

 それにしても、

 ……恵美まで連れてくるなよ。

 両の腕を広げながら、ゾロゾロと近づいてくる集団を眺めていた。


「青春っすね!」


 開口一番そうのたまうのは詩折だった。

 聡と信一が光秀の元に近づいて、手を伸ばす。それをがっしりと掴んで起き上がると、近くにいた詩折の頭を軽く小突く。


「うー、痛いっす」


「そんな強く叩いてません」


 頭を押さえる詩折に、光秀はふぅとため息をつく。


「いい男になってきたんじゃない?」


 話しかけられ、そちらを向く。

 由希恵の服に着いた砂を恵美が払い、涙やらなんやらで汚れた顔を景子がハンカチで拭っている。

 どこから聞いてたんだか。

 先程の声の主は景子だ。彼女は由希恵を見ながら、その表情は朗らかに微笑んでいた。


「どうでしょうかね。結局何も変わってませんし」


 あまり気の利いたことが言えなかったように感じて、光秀はそう答える。

 学校の勉強のようにひとつのちゃんとした答えがある訳では無いのだ。それぞれが納得する回答を用意することはできない。

 だからその答えを出す手助けをしたい、それだけだった。

 景子はそれを聞いて、光秀らしいね、とだけ言う。


「みっちゃん、みっちゃん」


「ん?」


 裾が引っ張られていることに気づいた光秀が顔を向けると、見上げるように笑みを浮かべる信一がいた。

 彼は片手を前に突き出すと、握りこぶしに親指を立てて、


「カッコつけすぎてキモイ」


「それ、わざわざ言う必要あるか?」


 そんな茶化しに、気持ちが落ち着いてしまう自分がいた。

 短い談笑の後、 


「さて、皆帰りましょ!」


 先陣切って歩き出したのは景子だった。

 皆、倣うようにそれに着いていく。

 最後尾、光秀は由希恵と共にその姿を見ていると、


「梁瀬さん」


 空いている手に絡まるものを感じて、それを握り返す。

 それっきり、会話もなく二人は短い帰路についた。

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