《美容院−絶−》 ~失恋専用美容院~

平 遊

さよなら 大好きだった人

『ゴメン。別れてくれ』


 今にも雫が落ちてきそうな、曇天の下。

 彼のこのたった一言で。

 彼と私の5年間は、突然終わりを迎えた。


 1年目は、彼に夢中で、夢を見ているような幸せな気分の中であっという間に過ぎて。

 2年目になると、ようやく地に足が着いた感じで、少しだけ彼との未来を考え始めるようになった。

 3年目には、たまにケンカもするようにはなったけど、彼との未来が近づいてきている気がしてきて。

 4年目からは、いつ彼がプロポーズをしてくれるのか、楽しみに待っていたのに。


 短かった髪を伸ばし始めて。

 彼が早くプロポーズをしてくれるように。

 彼の可愛い花嫁さんになれるように。

 彼と幸せな家庭が築けるように。

 願を、掛けて。


 私の髪は今、腰の少し上くらいまである。

 トリートメントして、丁寧に乾かして、ヘアオイルを付けて。

 毎日、お手入れは欠かさなかった。

 どうか願いが叶いますようにと。

 それに。

 彼が、ロングヘアーが好きだと言ったから。

 綺麗な髪だね、と言って、優しく髪を撫でてくれるのが大好きだったから。

 だから。

 毎朝毎晩、彼を想って、お手入れをし続けた。


 でも。

 彼と別れた今。

 この髪はただただ、私の頭を重たくするだけ。

 願いはもう、叶うことなど無いのだ。

 どれだけ願っても、永遠に。


 大事な話があるからと呼び出され。

 ドキドキして向かった、彼の元。

 今日の天気予報は、曇りのち晴れ、だった。

 雨が降りそうな空模様ではあったけれど、お天気お姉さんが、『今日は傘は必要ありません!』って、ニコニコして言っていたから。

 だから、お気に入りのワンピースを着て、家を出たのだ。お天気お姉さんにも負けないくらいの、ニコニコの笑顔で。

 

 まさか、こんな事になるとは、露ほども思わずに。


 突然過ぎて、驚きのほうが先にきてしまって、悲しいと感じる心には大きな穴が空いてしまったせいか、涙の一粒も出てきやしない。


 彼の元から逃げるように、重たい足をなんとか動かして道を歩いていた私は、いつの間にか、来たことの無い道を歩いていることに気付いた。


(・・・・ここ、どこだろう?)


 立ち止まり辺りを見回すと、通りの向こうの店から、女の人が1人、出てくるのが見えた。

 腫れぼったい瞼。

 充血した目。

 なのに、その女の人は、見ているこちらまで笑顔になってしまいそうなほどに、清々しい笑顔を浮かべている。


(何のお店かな?)


 興味を惹かれ、吸い寄せられるようにその店に行ってみると。


〘美容院−絶−〙


 看板らしいものは見当たらなかったものの、店の扉のガラス部分に、そう書かれているのが見えた。


(美容院、か)


 サラサラとしたロングヘアーが、吹いてきた突風に巻き上げられる。

 フワリと浮き上がりそうになるワンピースの裾を押さえながらガラス部分から中を覗いてみると、お客らしい姿は見えず、美容師と思われる若い男性が、床を掃いている姿が見えるのみ。


「よし」


 小さく呟くと、私は思い切って扉を開けた。


 こじんまりとしたその美容院は、淡いブラウンとベージュが基調の、落ち着いた雰囲気。

 入るとなんだか、ホッとするような感じだ。

 扉を開けた時の『チリリン』という音が、レトロ感があって可愛らしい。


「あの・・・・」

「いらっしゃいませ」


 床を掃く手を止め、男性がにこやかな笑顔で出迎える。


「予約、してないんですけど」

「大丈夫ですよ」


 笑顔を崩すことなく、男性は私を、2つあるカット台の手前の方へと誘う。


「どうぞ、こちらへ。お荷物、お預かりいたします」


 言われるままに手に持っていたバッグを預けると、私は案内されたカット台へ座った。


「どのくらいにされますか?」

「え?」


 綺麗に磨き上げられた鏡越しに私と目を合わせる男性の目は、少しだけ目尻の下がった優しい目。

 だけど、短髪の黒髪は清潔感溢れる長さに切りそろえられ、黒のシャツに黒のパンツを身に着けていて、一分の隙も無い感じがする。


(私、カットって、言ったっけ?)


 不思議に思いながらも、私は鏡越しに男性に答えた。


「思い切り、バッサリ。ショートにしてください」


 ショートカットは、彼の嫌いな髪型だったから。

 私は敢えて、その髪型を選んだ。

 彼を早く、忘れるためにも。

 彼への未練を、断ち切るためにも。


「畏まりました」


 小さく頷くと、男性は手早くカットの準備を始めた。


(やっぱりこの人が美容師さんだったんだ)


 様々なハサミや櫛などの入ったシザーケースをカット台の前に置き、私にナイロン製のポンチョのようなものを着せてくれる。

 どこの美容院でも行っていることと、同じ準備。

 ただ。


「こちら、宜しければお使いください」


 と。

 私の目の前の台に、美容師さんは真っ白なタオルを置く。

 タオルなど、一体いつ何のために使うのか。


(もしかして、切った前髪が顔にへばりついたのを取るためかな?)


 そんなことを思いながらも、はい、と私は小さく答えた。



「では、始めさせていただきますね」

「はい」

「心の準備は、宜しいですか?」

「・・・・はい?」


 美容師さんの言葉に、私は思わず首を傾げた。

 美容院でこんなことを聞かれたのは、始めてだ。


「どうして、そんなことを聞くんですか?」

「・・・・かなりの想いが、込められているようですから」


 そう言って、美容師さんが壊れ物でも扱うかのように丁寧に私の髪に触れ、優しく櫛を入れていく。


「絶つには、かなりの痛みを伴うかもしれませんよ?」


 女性が長い髪を切る=失恋。

 まだ若いのに、この美容師さんはそんなステレオタイプに縛られているのかと驚きつつも、今の自分はまさに、図星の状況。


(痛みなんて・・・・)


 どちらかと言えば、ショックの大きさに麻痺してしまっている心では、痛みなど感じることもできていないなと。

 私は苦笑をしながら、美容師さんに答えた。


「大丈夫です」

「そうですか。では」


 私の言葉に笑みを消すと、美容師さんはハサミを手に取り、私の髪をひと束、掬い取った。



 痛っ!


 信じられないほどの痛みを感じて、私は鏡の中の美容師さんを見た。

 だけど、美容師さんが切っているのは、私の髪の毛。

 そして。

 私が痛みを感じているのは、私の胸−私の、心。


 うそっ!

 なんでっ?!


 美容師さんが私の髪にハサミを入れるたびに、ズキリと胸に痛みが走り、思わず私は胸を押さえた。


「感じてください。きちんと、痛みを」


 美容師さんの穏やかな声が、こじんまりとした美容院に響く。


「無視しては、いけない。これほどの想いを、無かったことにしては、いけない。この想いとお別れをするのならば、あなた自身の想いを、悲しみを、全て出し切ってしまわなければ」


 ジャキ。

 ジャキ。


 ハサミの音が聞こえるたびに。


 ズキリ。

 ズキリ。


 まるで切り裂かれるかのような痛みが胸を襲う。

 そして。

 傷口から血が滲み出るように、開いた心の傷口から、彼への想いがジワリと滲み出してきた。


 好きだったのに。

 私、大好きだったのに。

 何でよ・・・・何でこんな・・・・


 気づけば、目からは涙が溢れていた。

 止まることなく、次から次へと。


 本当に、大好きだったのに。

 あんな一言で、簡単に終わらせないでよ。

 なんで、私じゃないの。

 なんで、他の女性ひとなの。

 酷いよ・・・・


 私は目の前に置かれた真っ白なタオルに手を伸ばし、そのタオルに顔を押し当てて泣いた。


 本当は、気づいてたんだ。

 でも、信じてた。

 信じたかった。

 あなたを失うのが、怖かったから。

 あなたが、大好きだったから。


 ジャキ。

 ジャキ。


 ズキリ。

 ズキリ。


 音と痛みは、カットが終わるまで、ずっと続いた。

 私は音を聞きながら、痛みに身を委ね、溢れ出す悔しさと悲しさに感情の全てを委ねて、タオルに顔を押し当てたまま泣き続けた。



「いかがでしょうか?」


 手鏡を渡され、写し鏡で頭の後ろ側を確認する。


「はい。大丈夫です」

「ありがとうございます」


 軽くなった頭と、軽くなった心。

 そして。

 少しだけ重たくて充血した目の私は、カット台から降り、手荷物を受け取ってお会計を済ませる。


 体まで軽くなったように感じ、自然とこぼれた笑顔のまま、私は美容師さんにお礼を告げた。


「ありがとうございました」

「いえ」


 目尻を下げ、優しげな笑顔を浮かべて、美容師さんは言った。


「どうぞ、もうおいでになりませんように」

「・・・・えっ?」


 一瞬聞き間違いかとも思ったけれど、聞き直すこともできず、私はそのまま扉を開けて美容院を出た。

 『チリリン』という可愛らしい音が、私の背をそっと押す。


(おかしな美容院だったな・・・・)


 少し歩いた所で、なんとはなしに振り返ってみると。


「えっ?!」


 今出てきたばかりの美容院の扉は、まるで初めからそうであったかのように、朽ちてボロボロ。

 ガラス部分に書かれていたはずの店名さえ、掠れて読み取ることはできない。

 慌てて中を覗いてみても、そこには誰の姿も無かった。


(・・・・夢でも、見てた・・・・?)


 そうは思ったものの、私の髪は確かにショートカットになっているし、心も体も間違いなく軽くなっている。

 ただ。

 大量の涙を流した目だけが、重たく腫れて赤いだけ。


 見上げれば、そこに広がっていたのは、雲ひとつない青空。

 お天気お姉さんの予報は、どうやら大当たりだったらしい。

 お気に入りのワンピースの裾を、そよ風が優しく揺らしながら通り過ぎる。


「いいよ。別れてあげる」


 さっきはどうしても言えなかった、彼への言葉を口にして。

 風に遊ぶ短い髪の感触を楽しみながら、私は美容院に背を向けて歩き出した。

 


【終】

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