ドライブ

真花

ドライブ

 車に乗って気が大きくなるってのはね、人間個人には不釣り合いな鉄の鎧と、同じだけの攻撃力を持つからで、でも、一番、分不相応に手に入るのは移動距離なんだ。桜子さくらこさんは運転席から声だけで僕に言う。僕は後部座席から、彼女の後ろ姿に、短く刈り上げられたその後ろ頭に相槌を打つ。どうして移動距離が一番の問題かって言うとね、生き物にはそれぞれの行動の範囲ってのが生まれつき決まっているんだよ。サルでもトラでもライオンでも、ナワバリはそれぞれ一定でしょ? その範囲を越えるならそれなりの時間を掛けなきゃいけない。でも、車に乗った途端に悠々その外まで出られちゃう。

「電車はどうなんですか?」僕の声は車内を切り裂くようにはっきりと響いた。彼女がチラリとこっちを伺うそぶりを見せる。その頬は笑っているように見えた。

「それは自分で動いているんじゃなくて、運ばれているんだよ」

「じゃあ、今の僕もそうですね」

 その通り、と彼女はやっぱり笑っている。彼女が窓を少しだけ開けた。ピタッとしていた空間が柔らかくなる。同時に僕が自分で封をしていた胸の中も緩くなって中身が漏れて出て来る。

「どこに向かっているんですか?」

「秘密。と言うより、人間の分を越えた距離まで進むことこそがドライブの目的じゃないかな」

「じゃあ、目的地はないんですね」

 彼女はプラスチックに色を変えたみたいに黙る。信号で車が止まる。彼女がこっちを振り向いた。「秘密」、そう言って彼女はまた人間に戻って目を細めて笑って、その表情の印象だけを僕に刻んで、また前を向く。どこかには連れて行かれるのだ。――僕達はまだ何も始まっていない。何度も会ってはいるけど、それは他人同士の距離で、だけど僕にはそれ以上のものが感じられて、だから、急なドライブの誘いに乗ったのだ。僕達が親密になる可能性が行き先によって決まる。「秘密、か」、僕は呟く、それでも胸の内に生じる予感に、駆け出したくなるようなそれに、期待せずにはいられない。今は後部座席だけど、帰りには……。

 何か音楽かける? 前から彼女の声が反射して来る。「いいですね」と応じれば、彼女はよしきた、とステレオから流す。ポップのようなロックのような女性のヴォーカル。知ってる? と問われ、「知りません」と返せば、彼女はカラカラと笑って、まあ、年代が違うからね、知らなくてもしょうがないよ。LINDBERGっていうグループだよ。私は彼女達の歌が一番好きなんだ。人生ずっと聴いて来てる。特に辛いときと、転換点に、必ず聴く。「そうなんですね」と、僕は流れている音楽に耳を澄ませる。――多分、好きになれる。いや、いい。

「この曲、いいですね。何て曲ですか?」

「LOOKING FOR A RAINBOW」

「僕達も虹を探しているのかも」

「歌の意味とは違うけど、そうだね」

 僕の世代は僕の世代の歌を聴く。だけど、他の世代の歌にこそ自分のための歌があるかも知れない。桜子さんが一回り上の時代を生きたその中に、僕にとっての輝きがあるのかも知れない。知って行きたい。好きなものも嫌いなものもあると思う。けど、知って行きたい。彼女が続ける。

「気に入った?」

「はい。次の曲もいいです。もっと聴いていたい」

「じゃあ、ノンストップでLINDBERGで行くよ。でも、そろそろ腹拵えをしよう。何か食べたいものある?」

「肉が食べたいです」

 彼女はあはは、と笑って、肉ね、いいよ、じゃあステーキハウスに向かおうか、とハンドルを切る。

 店に入り、注文をしたら、彼女が少し身を寄せる。

しゅんくんはお酒飲めるの?」彼女の金のイヤリングが、細い棒のようなそれが、ゆらりと僕に近付く。僕は咄嗟に息を詰めて、でも避けることはせずに、鼓動の声にちょっとだけ耳を傾ける。

「下戸です。っても完全に飲めない訳じゃないです。ただ、飲むと一週間くらい調子が悪くなります」

 彼女はふーん、と頷いて、

「それは下戸でいいよ。私はそこそこ飲めるけど、やめたんだ」

 右手で何かをパッと捨てるような動きをする。僕はその捨てられたものを目で追う。

「どうしてです?」

「秘密」

 彼女は悪戯っぽく笑う。その笑顔に僕はそれ以上の詮索が出来ない。ステーキがサーブされて、食べている間は二人とも何も喋らなかった。僕達は何の打ち合わせもなく割り勘をした。

 再び車に戻り、ドライブを再開する。それとも、食事や休憩も含めてドライブなのだろうか。僕はどこに連れて行かれるのだろう。でもそこがどこであっても、一緒にいるのが彼女なら、いいや。彼女はどう想っているのだろう。知りたいけど、万が一の結果になってしまったら、僕はここから徒歩で帰らなくてはならない。車はぐんぐん進む。LINDBERGがひたすらに流れている。少し開いた窓から新しい風がずっと入って来る。彼女は喋らなくなって、従って僕も喋らない。軽さのある沈黙が浮いている。僕は窓の外を見る。すごいスピードでものが流れていく。運ばれていたとしても、その速度と距離を感じるのは同じなんじゃないだろうか。時々彼女の刈り上げた頭を見る。そしてまた外を見る。


 さあ、着いた。遠くで彼女がそう言ったような気がした、でも僕はまだ夢の中にいたかった。

「俊くん、着いたよ。起きて」

 はい、と体を立てる。いつの間にか眠っていた。「ここは、どこですか?」

「出てからのお楽しみ。でも足元だけは注意してね」

 僕はドアを開けて車の外に出る。日は暮れていて、鬱蒼とした雰囲気だけど、海の側だ、匂いがする。見れば、看板が何個もあって、それらには「引き返せ」「思い直せ」といったことが記されている。

「自殺の名所、ですか?」

「その通り。私に着いて来て」

 まさかここで無理心中をするような仲ではないから、僕は大人しく彼女の後ろを歩く。着いたのは、まさに自殺者が海に飛び降りる崖の上。幸か不幸か今それをしている人はいなかった。太陽が傾きかけていて、日差しがその衝撃力を弱め始めている。

「ここでね、死んだの。元夫が」

 杭を心臓に打たれるような衝撃に、僕は目を瞬かせることしか出来ない。彼女は真剣なのか笑っているのか判別出来ない顔をして、

「アルコール依存症で暴力もする最低な奴だったけど、私に夫がいたという事実は変わらない。でも、死んだんだ。ここで。飛び降りて。今日、ドライブに誘ったのは、ここでこのことを俊くんに伝えたかったからなんだ。私にはこんな過去があって、でももう解決はしていて、ううん、こうやって話すことで本当の解決に、今なった。過去が解決しなくちゃいけないのってのは、未来に進みたいからだよ。……私は俊くんともっと近い関係になりたい」

 僕は彼女の言葉に、それが告白であることに気付いていたのに、思考が気持ちがすぐに追い付かない。

「僕が下戸なのはちょうどいいかも知れないですね」

 彼女は瞬間的に悲しみを帯びた青さのある顔になって、でもすぐに元の、彼女が想いを告げる鋭い赤さのある表情に戻った。

「考えて、くれるかな」

 僕が声を出そうとしたその時、身なりの汚い中年男性が割って入って来た。

「あのぉ。飛ばないんだったら、場所開けて貰えませんか?」

 僕は咄嗟に会釈をして、彼の顔を見て、もう一度会釈をした。彼の顔は汚れていることよりも、一心不乱に求めている、それは死を、そう言う色で覆われていた。この場所がどこかを思い出し、「すいません、すぐに退きます」と明瞭に言って、僕達二人は端っこの方に場所を移した。彼がどうするのかをじっと見守る。彼はひとしきり祈った後に、崖の向こう側に飛び込んで行った。僕達は結果がどうなったのかを確認して、やっぱり自殺の名所なんだね、と言い合って、初めて秘密を共有した笑みをお互いに浮かべて、足早にその場所から車の所に向かった。

 車の横に立つ。彼女がカギを探そうとするよりも早く僕は始める。

「桜子さんの気持ちは分かりました。……僕も同じ気持ちです」

 彼女の顔がもう沈んだ筈の太陽が全霊で射したように明るくなる。

「前の夫のことをちゃんと終わらせないと、君に進めないと思ったんだ」

 僕は苦虫を噛むように笑う。「二人が始まる前はそれは重要です。だけど、始まったら過去のことは秘密にして下さい」

 彼女はよく分からないといった表情、僕は続ける。

「嫉妬で死にそうですから」

「死んでるのに?」

「過去に他の誰かを愛したことがある、それ自体に嫉妬するんです」

 彼女はふーん、と頭を傾けた後に、かすみ草のように笑って、分かったよ、と僕の肩を叩いた。

「じゃあ、帰ろう。俊くん、助手席に乗って」

 車は発車する。僕達二人がこれから進む道だって、人類未踏の場所だ。そこに進むのに車はいらない。ただ、二人があればそれでいい。


(了)

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