第6話 最悪の事態(※三人称)

 突然、立ち止まる少女。その表情もうつろで、境内の天井をじっと見上げている。まるでそう、視線の先に誰か居るかの様に。神社の神主や巫女達、祭りの運営者や青年団が駆け付けても、それに「え?」と驚く所か、彼等の声を全て聞き流していた。少女は……浜崎はまさき睦子むつこは、周りの声に全く応えないまま、ある瞬間に「キャアアアア!」と叫ぶと、無感動な顔で地面の上に倒れてしまった。「う、ううん」

 

 観客達は、その声に固まった。その声はどう聞いても、少女の声ではなかったからである。少女の声に似ている様で、本当は全く似ていない声。少年の声が上に重なっている様な、そんな感じの声に聞えたからだった。


 観客達は、その声に動き出した。各々が思う事なんて、事はない。異様な光景を見た人間が、それに表す自然な反応。ようは、その場から一目散に逃げ出したのである。自分達がこの怪異から逃げられる様、極一部の例外を除いては、そこから「キャーキャー」言いながら逃げ出したのだ。最初は彼女の事を案じていた青年団達も、神主の「此は、危ない」を訊いて、(不本意ながらも)彼女の前から引いている。


 正に地獄絵図その物だった。今までの空気が消えて、只恐怖だけがある地獄絵図。正真正銘の修羅場。そんな修羅場の中でも逃げずに残ったのは、彼女の事を見守っていた者達、彼女の両親と秀一だけだった。彼等は恐怖の余り、境内の方を暫く眺めていたが、それも数分程で終わり、最初は「彼女を守る」と決めた秀一が、次に彼女の両親が、彼女の前に向かって走り出した。「睦子!」


 誰がそれを叫んだのかは、分からない。でも、それを聞いた神主が驚いたのは確かだった。神主は彼等の事も当然に止めたが、睦子の事がどうしても心配な彼等には、その声をすっかり聞き流していた。「お前の制止等聞いていられない」と言う風に。神主の言葉を完全に無視していたのである。神主はそれでも彼等の事を止めようとしたが、秀一が睦子の両肩に触れた所為で、その意識をすっかり忘れてしまった。「お、おい! 今は」


 危険なのは、秀一も分かっている。分かっているが、それでも秀一には「それ」を止められなかった。最愛の少女が白目をいて倒れている以上、神主の言葉に「分かりました」と頷く……意思もなかったのだろう。神主が彼の横顔から感じた物は、それを裏付ける確かな証拠だった。


 秀一は、睦子の肩を揺すった。それも、一度や二度ではなく。彼女の首が「ガクン、ガクン」と成る程に何度も揺すり続けた。秀一は悲しげな顔で、彼女の身体を抱き締めた。「そんな、嫌だ、睦子!」

 

 睦子は、その声に応えなかった。「応える」と言う意思すらなかった。睦子は秀一に自分の肩を何度揺すられても、その恐ろしい白目を見せて、彼に自分の身体を任せていた。「ぅうう」

 

 秀一は、その声に項垂れた。それは人の崩壊、精神の崩壊を示す言葉だったからである。精神のそれが壊れなければ、こんな声等発しない。それを聞いていた神主も、「此は、おかしい。今年の祭りは、異常だ」と言っている。「儀式の中に間違いは、なかった筈だ」と、そう暗に言っていた。秀一はその言葉に「カッ」と成って、神主の身体に飛び掛かった。


「ふざけるな! こんな事になるなんて! 睦子は!」


「お、落ち着きなさい。彼女はまだ、生きている。精神の方は分からないが、身体の方は多分」


「無事かどうかなんてどうでも良い! 睦子は、おかしくなったんだ! 祭りの巫女に選ばれて、こんな」


「そ、そうかも知れないが。今は、兎に角」


 そこに割り込んだ睦子の家族もまた、神主と同じ気持ちだったらしい。現実の物理法則から逸れた力でどうにも成らないのなら、ここは現実の物理法則に沿った手段を取るしかない。「町の病院に救急車を頼む」と言う、物理法則を。


 彼等は神主の助言もあって、取り敢えずは「町の病院に預けよう」と言った。「此処でやれる事は少ないし、祭りのそれとは無関係の可能性もある。此処はあらゆる可能性を考えて、お医者さんの方にも御助力を。お医者さんには」


 神主は、その先を遮った。「そこから先は、言わなくても言い」と言わんばかりに。「私がお話しします。此は、私の領分だ。医者ばかりには、任せられません。現実の医療と私の力、その両方から彼女を……」

 

 何とかする。それは、確かに妥当かも知れない。今の時点ではどうにも出来ない以上、あらゆる分野に協力を仰いで、その力を合わせるしかない。その意味では、神主の判断は正しいだろう。事実、そう言う空気も流れていたし。それに「異を唱えよう」とする者は、誰も居なかった。その判断に不服そうだった秀一でさえも、最後には「分かったよ」と頷いていたし。彼等はその場で出来る応急処置、睦子の苦痛を少しでも和らげる手で、救急車がここに来るまでの時間を稼いだ。


 

 あれからどれくらいの時間が経ったのか? それは、秀一にも分からなかった。実際には分かっていても、「それ」を感覚として捕らえられない。只、「」としか感じられなかった。


 秀一は、睦子の寝顔を見た。安らかそうで、実は死んだような顔を。病室の上で、「スヤスヤ」と眠る寝顔を。窓の外から入る逆光を浴びる中で、その残酷な寝顔を眺めていた。秀一は、睦子の頬を撫でた。睦子の頬は柔らかく、ほんのり冷たい。まるで、今にも死にそうな冷たさだった。


 秀一は、彼女の頬から手を放した。そうすれば、「また虚しくなる」と分かっているのに。胸の内から湧き上がる感情が、彼女の頬から手を放してしまったのだ。そこに入って来た病院の看護師も、彼に「そろそろ帰った方が良い」と言って、その意識を促したし。秀一は周りの空気に暫く抗ったが、やがて「それ」に「分かりました」と頷いた。「今日はもう、帰ります」

 

 看護師は、その言葉に暗くなった。その言葉に胸を痛めた事もあったが、彼の事が何よりも「かわいそう」と思ったらしい。彼がパイプ椅子の上から立ち上がった時も、彼に「気を付けて帰りなさい」と微笑んだが、それ以上の事は何も言わなかった。看護婦は病院の出入り口まで、彼の事を連れて行った。「それじゃあね」


 秀一は、その言葉に応えなかった。応えるだけの気力もなかった。秀一は優しい看護婦に何度も頭を下げたが、そこから祖父の家に帰る時は、憂鬱な顔で町の道路を歩き始めた。町の道路は、暗かった。道路の両端に外灯は建っていたが、その明かりが妙に暗くて、夕闇のそれに全く抗えていなかったからである。


 秀一はその夕闇を浴びる中で、自分の記憶をそっと思い返した。彼の記憶は、暗かった。睦子があの時倒れてからこの瞬間に至るまで、ずっと真っ暗になっていた。自分が今、その現実をどうにも出来ない事も。秀一は自分の現実に苛立ったが、やがて言い様のない怒りを覚えた。「ちくしょう!」


 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。なんで、こんな……理不尽。この世の地獄を味わわなければならないのか? 睦子も、そして、自分も。この忌々いまいましい風習に付き合わなければならないのか? それが心の底から気に食わない。こうしている自分でさえも、許せなくて堪らない。自分が今、思い返している記憶も。全てが全て、腹立って仕方なかった。秀一はそんな理不尽に腹立ったが、それでも両手の拳を握るだけで精一杯だった。「あの人達は」

 

 悪くない。睦子の身体から災いを祓おうとした神主も、その儀式に付き合った医者も。皆、本気で頑張っている。本気で、睦子の事を「救おう」としている。自分の命を削ってでも、この災いを何とかしようとしていた。それなのに?「僕は一体、何をしているのだろう? 『睦子の事を守る』と決めたのに? 僕は!」

 

 そう叫んだ彼が何を思ったのか? それは、彼自身にも分からなかった。彼は自分でも抑えられない怒り、悲しみ、憤りを持って、に走った。

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