柿の木の下でお兄ちゃんの帰りを待ってるから。

「――本当に気をつけてね……」


 日葵ひまりは多くを語らなかった。

 なぜ真美のもとに向かうのか、きっと僕に聞きたかったはずだ。そこには本当の兄妹にしか分からない日葵なりの優しさが感じられた。 


「大丈夫だよ、気をつけるから」


「お兄ちゃん、これを持っていってあげて」


 日葵が心配している様子はその表情からも伝わってきた。用意してくれた保冷バッグを受け取りながら少しでも安心させようとほほ笑みかける。


「僕が何年バイクに乗っているのか日葵も良く知ってるだろう。悪いけど初心者マークとは年季が違うから、お前こそ気を付けろよ。このTZRのシートの高さだと、背の低い日葵はつま先立ちでツンツンしないと立ちごけしちゃうだろう、残念!!」


 わざとおどけた態度を取る。

 夕方の玄関で僕に見せた反応が返ってくることを期待した。だけどいくら待っても日葵から元気なツッコミは貰えなかった。


「……日葵ね、陽一お兄ちゃんにお願いがあるの」


「何なんだよ!? お前があらたまってお願いをするときは、ろくなことがないと相場が決まっているんだけど」


 自分でも分かっているはずなのに。道化師のような言葉が白々しく納屋に響いた。日葵は僕から視線を外して、しばらく窓の外を物憂げな面持ちで眺める。

 その視線の先にある物を僕も子供の頃から良く知っている。


 納屋の裏にある古い石碑の道祖神。


 いつ頃からそこにあるのか僕は知らない。あの物知りなお祖母ちゃんですら存命な頃にも教えてくれなかった。

 子供の頃から何でも僕に話してくれた優しいお祖母ちゃんだったのに。


 ん、ちょっと待てよ!? お祖母ちゃんは知っているけど僕に言わない理由わけがあったんじゃないのか!?


「陽一お兄ちゃん、絶対に約束してくれる……」


「日葵……」


「お願いだから生きて帰ってきて。群青の蒼に染まっては駄目!!」


 まるで何者かに取り憑かれたような虚ろな瞳。声色もいつもと違う。

 その異様さに思わず僕は後退りしてしまった。作業用のワーキングデスクに背中がぶつかり、壁掛けの工具がガチャガチャと派手な金属音を立てた。

 本当に僕の目の前に立っているのは妹の日葵なのか!?


「……ふうっ!!」


 大きな深呼吸と共に日葵の身体が前後に揺れた。倒れ込みそうになる細い肩を両手でしっかりと支える。

 脱力した妹の膝が、納屋の汚れた床につく前に何とか間に合った。


「おい日葵、しっかりしろ!!」


「お、お兄ちゃん、私、一体どうしたんだろう? 自分でも分からないよ!! 急に意識が遠のいて……」


 日葵は顔面蒼白で小刻みに震えていた。普段からつぶらな瞳がさらに大きく見開かれた様子から妹の激しい動揺がこちらにも感じ取れた。


「……お前の言っていた群青の蒼って何のことだ!?」



 *******


 妹を部屋まで運びベッドに寝かせる。幸いにどこも異常がなさそうだ。

 だが心配なので付き添いを提案する僕の申し出を断る日葵。そんなやりとりをしている所にちょうど親父が仕事から帰宅してきた。

 感動の再会とは縁遠い空気がその場に流れる。それはそうだ、せっかく大金を掛けて行かせてくれた経営者二世コースのある地元の大学。それをほっぽり出してせっかくの大金をドブに捨てたような物だ。反対を押し切って家を飛び出した不肖の息子を歓迎する親はどこにもいないだろう。


 親父と言葉を交わさず急いで納屋に向かう。

 シャッターを開け黒塗りの車体を引っ張りだす。甲高い排気音で近所迷惑にならぬよう表通りまで車体を押し歩いた後、追加で付けたチョークレバーを一段引きこむ。

 そしてフロントブレーキレバーを握りつつスタートボタンを押す。何とも形容しがたい二ストロークの排気音でエンジンが目覚める。冬場はPWK28ビッグキャブレターの影響でエンジンの機嫌が悪いが、暖かい夏場は短めの暖気でアイドリングが安定する。


 独特の足踏みリアブレーキを駆使しながら、ゆっくりと発進した。

 トレーシーの角張った黒い車体フォルムに、いつの間にか顔を出した月明かりがテラテラとぬめりを帯びながら妖しく反射した。

 お団子取りの一夜と同じような満月が出ているのか!? 妙な胸騒ぎを覚えながら真美の待つ県営住宅に向かおうとするが、燃料が少ないことに気がついた。


 トレーシーのスポーツカーみたいなメーター内の燃料計がエンプティーを指し示している。少し時間があるな、近所のガソリンスタンドで燃料を入れるついでにタイヤを少し温めておくか。


 最寄りのガソリンスタンドまで続くワインディングは高低差もあり、右に左にと軽快に車体を傾けさせると自然のジェットコースターに乗っているような感覚になる。

 右手のアクセルで自由自在に景色を手繰たぐりよせる。僕がバイクに乗るようになった頃、親父に言われたことがある。

 車は一部のスポーツカーを除いて基本的には移動のための乗り物だ、必ず目的地がある場合が多い。だけどバイクは目的地を決めなくても楽しめる乗り物だと。


 走る事自体が目的になるからだと親父は僕に教えてくれた……。


 その時は意味が分からなかったが今なら何だか理解できる。

 バイクに乗るといつも感じる事がある。走らせるだけでなぜこんなに楽しいのか? それはバイクという乗り物が危険と表裏一体だからだ。ヘルメットをかぶり身体を守る最低限の装備をしているが、自分の足元に広がるアスファルト道路は死と直結している。

 一瞬の操作ミスで身体はいとも簡単に路面に叩き付けられる。

 そんな薄皮一枚のスリルがあるからこんなにも感覚が研ぎ澄まされ、脳内物質がどんどん出るほど楽しいのだろう。


 これまでの生きることに執着のない自分だったら、バイクと一緒にオーバースピードでカーブに突っ込み、そのまま死を選択していたかもしれない……。


 だけど今の僕には、たどり着かなければならない場所がある。


 あの約束の場所聖地に……。


 そう思い、アクセルを握る右手を振り絞った瞬間。僕は信じられない光景を目にする。


「まさか!? 嘘だろ!!」


 ヘルメットの中で思わず声が出る。街灯のない暗い夜道は普段のダンプカーの往来もなく静まり返っていた。

 おかしい!? 僕は確かガソリンスタンドに向かう国道を走っていたはずなのに……。


「この場所は!! 村一番の柿の木!?」


 あの村一番の柿の木が突然僕の目の前に姿を現した。

 驚くことにその木の下には水色のワンピース姿の真美が立っていた。明るい月明かりに照らされたその表情。あの日と違うのは着物姿でないことと、僕があれほど好きだった彼女の眩しい笑顔があった。

 そこには眉を微妙に歪めたあの懐かしい困り顔が浮かんでいたんだ。

 急速に胸が苦しくなる。この狂おしいほどの想いの源流はいったい何処から押し寄せてくるのか!!


「真美……!?」


「……おうちで待たなきゃいけないのに約束破ってごめんね、陽一お兄ちゃん」


 すまない日葵、お前との約束を守れそうになさそうだ。

 彼女とこのまま深みに落ちることをどうか許して欲しい。

 すべてを知ってしまったら僕はもう現実の世界には帰れない気がする。


 だけど自分を抑えきれないんだ。

 あの柿の木の下で、彼女が僕の帰りをいつまでも待っているから……。



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