第6章 欠陥少女は紅の朝を超えて


 ハンマー投げのごとく放り出された江波は屋上のフェンスに直撃し、そのまま二、三回転ほど地面を転がらされる。フェンスがクッションとなり致命傷にならなかったもののダメージが残っている。

「おや?そんなところから来るなんて、屋上の出入り口は反対側ですよ」

 柚亜はその声に反応して顔を上げる。そこにいたのは、元空手部副部長、笠佐木唯駒だった。

落ち着きのあるトーンの声、だが言葉の一つ一つが異質な緊張感を放っていた。

「お久しぶりです。先輩」

「その声は……江波さんですね」

柚亜は言葉を飲み込む。

 視覚障害を患いながら、いつも堅実に稽古を積み重ねてきた。大会に出ることは叶わないのに、いや叶わないからこそ、自分と向き合い、己の技を研鑽し続けてきた。その直向きな姿に誰もが尊敬の念を払い、そして彼の技に惹かれていた。当然、江波柚亜もその一人だったが、彼女にとって笠佐木唯駒という存在はその場限りではなかった。

「元気にしていましたか」

 瞳を閉じたままでもわかるその表情は、素直に久しぶりの再会を喜んでいるようだった。

 ゆったりと、無防備だとアピールするように両手を広げて近づいてくる。

 しかし、柚亜派それがまやかしだと知っている。

 正中線に一本の棒が入っているように思えるほど身体の軸にブレがない。正しい姿勢に正しい歩法は如何なる攻撃も捌き、如何なる攻撃も最速で打ち込める。何年も身体に基礎を叩き込まれなければ身に付けることのできない極地だ。

「せ、先輩。私色々聞きたいことがあって」

「奇遇ですね。俺もあなたに言いたいことがあったんですよ」

 唯駒が柚亜の間合いへ入る。いつでも先手が取れる。故に追い詰められている。

 柚亜は相手の歩幅に合わせて後退するが、それが無意味であることを理解している。

 なぜなら唯駒の攻撃範囲は未知数。彼の放つ不可視の斬撃は校舎一つを一瞬で瓦礫に変えられる威力を持つ。やろうと思えば一方的に蹂躙することなど造作もないのだから。

 故に、柚亜は確信する。

 ——————誘導されている、と。それと同時に、

 ——————弄ばれている、と。

「君はとても多才で実直な人でしたね。空手を始めたばかりにも関わらず、貪欲に学び、経験者を追い越していく成長速度は眼を見張るものがありましたよ」

「こ、光栄ですね。先輩にそこまで言ってもらえるなんて」

 唯駒の周りにはいつも大勢の人がいた。彼の持つカリスマ性も理由の一つだろう。その上『盲目』であるため他者の助けがあることは必然。彼の強さは誰もが認めていた。だから、誰もが彼の助けになれることを一種のステータスのように捉えていた。

 柚亜はそんな彼の姿を遠回しに眺めているだけだった。尊敬と同情と一種の羨望を込めて。だから……

「君の視線は他の人と違っていましたからね。印象深かったですよ」

 後退し続けていた背中が硬い壁に行く手を阻まれる。

 逃げ場なし。

 前進など論外。

 唯駒は立ち止まり、そして構えを取る。必要もない、本気の構え。

「一度、組手をしてみたかったんですよ。ずっと型の練習と木と竹の相手ばかりでね。実践の相手、してもらえますよね」

 ——————頷かなければその首をはねる。

 そんな言外の言葉がありありと読み取れる。

 背筋が凍るような恐怖が体を強張らせる。

 なぜ彼女がここまで彼を恐れているのか。

 身長も体重も男子高校生の平均と大して変わらない。なで肩でその骨格は女性とも見間違えそうなほどなだらか。性格も温厚そのもので、一見すると警戒すべき点はまるで皆無。

 そんな彼が時折放つ『敵意』を彼女は敏感に感じ取っていた。

「どうしたんですか?呼吸が乱れていますよ」

 その一言で柚亜は、構えを取らされる。

「よかった。部員はあなた以外正気を失っていますからね」

 冷静になれ、と柚亜は本能を黙らせる。

 前進も後退も許されない。ならば残された手段は一つしかない。

 相手の攻撃を捌き、反撃。

 唯駒がそれを予測していないはずがない。

 だがそれ以外に勝つこと、いや、この場を凌ぐことさえ絶望的だ。

 柚亜は思考を巡らせ、思い出せる記憶の限りを引っ張り出す。

 辿れ。探せ。

 知っているはずだ——————なぜ彼がこうも歓喜しているのか。

知っているはずだ——————私に向ける敵意と不快の根源を。

 感情の機微を覚れ。

 相手の手を読め。

 己の発する衣擦れ、呼吸、心拍、に至るまで全ての音で、識られていることを、自分の手の内を全て読まれていることを前提に、それを織り込んだ上で対応しろと限界の先まで集中力を高める。

「ああ、嬉しいですよ。ずっとこのような機会を待っていたんです」

 閉ざされた瞳の奥にある静かな狂気。その正体を柚亜は、

 ——————ああそうだ。私は、私たちはこの人を『特別扱い』しすぎていた。

 江波柚亜は恵まれた家庭に生まれ、健康に健全になんの不便もなくこれまで過ごしてきた。その経緯こそが、彼女のコンプレックスであり、優等生であれと縛り付けた元凶だ。故に、どれだけ努力していようと彼女がもたらす優れた結果は『必然』であり、『偉業』にはならない。己が目指す『特別』にはなれない。

 だからこそ、誰よりも唯駒のことを尊敬し、憧憬し、嫉妬していた。

 目が見えない、という不能の要因に、それを覆し讃えられる偉業に。

 それは無意識のうちに彼のことを『見下していた』ということだ。

 彼女を含む周囲の人間は皆、過剰な敬意を払うあまり無意識のうちに彼を軽蔑していたのだ。柚亜は自覚する。過剰なまでに彼を恐れ、会いたくなかった理由を。

それは無自覚のうちに抱いていた『罪悪感』に他ならない。

「ずっと、思っていたんです。正面から負かせてやりたいと。江波さん、遠慮なんていりませんからね?」

 きっと彼はその全てを見抜いて、その上で温厚に振舞っていたのだろう。

 柚亜は溢れんばかりの自己嫌悪に犯される。

 身勝手すぎる過去に失望し、今にも自分の腕を罰(自傷)したくなる。

 その失意に呼応して唯駒は——————既にそこにいた。

 左腕が疼く、精神にかかる負荷に耐えかねて身体が痛みを欲する。だから柚亜はその本能に応え、籠手の破片で腕を縦に切り裂く。

 痛みと共に冴え渡る思考、その脳裏に過るのは、

 ——————だからどうした?

 それがこの理不尽を作り上げる理由にはならないだろうという怒り(開き直り)。

 満たされた痛みが思考を加速し、生物に備わる防衛本能を黙らせ、取るべき選択肢を増加させる。

 すなわち、防御不能の威力、研ぎ澄まされすぎた『貫手(凶器)』を。

——————どうせ怪我しているのだから、受け止めてしまえ——————と。

 切り裂かれた左手で洗練された貫手を受け流す。

 柚亜の受け手、血晶を纏った部分を除き、肉ごと抉られる。

 ビシャッと生々しい音を立てて手のひらサイズの肉片が転がる。

 しかし、その程度のことで追撃を緩めてもらえるはずも無く、二本目の刃が一本目の引き手の反動でさらに加速して襲いかかる。

 研鑽に研鑽を重ねた手は『貫手』に特化したものへと変容しており、拳を握ることもできない程歪んだ彼の手には指一本にでさえ刃物に匹敵するほどの鋭利さを宿す。

 抉られた箇所は瞬時に硬質化、負傷した腕を捨てる勢いで第二の刃を受け止める。しかしその先にある第三の刃が目前に迫る。その手は猫科動物を彷彿させる握り、目潰しのみに特化した拳、『虎爪(こそう)』。

 完全に反応が遅れ、受け手も回避も必ず五本の指のどれかが両目を潰す。

 必ず当たる——————ならば当ててもらおう。

 必要最小限、首を横にズラし左目のみを貫かせる。

 六十度弱、視野が狭まり、あったはずの光が灼熱の闇に覆い尽くされる。そして、

「———————————————ッッッ!」

 声にもならない絶叫。砕かれた眼球とその奥へ、気を失うほどの激痛が脳に直接殴りつけられる。

 噛み締めた唇から血が垂れ、固まる。

 痛みに怯んでいる彼女を置いて唯駒は次の体勢を整える。

 この盲目が羨ましいのならば、その世界へと誘ってあげよう、と残されたもう片方の目に狙いを定めて—————————。

 しかしここで初めて唯駒は異変に気付く。貫いた眼球から指が離れないということに。

 それは厄介なことに、相手に一撃を食らわすのに必要な幾重もの駆け引きを無視して数秒もの隙を生み出す。

 唯駒はすぐに防御の構えを取ろうとするが既に遅かった。

引き手の反動、突き手の押し出し、軸足の踏み込み、腰の捻り、拳の回転力、計五カ所の同時加速、基礎にして最大威力の技、右中段逆突きが唯駒のみぞおちを穿つ。

 その瞬間、唯駒の意識は遠く彼方へ、呼吸さえも忘れる苦痛が襲う。

 さらに、このまま終わらせないと言わんばかりに、右膝で追い打ち。

 唯駒の内臓が悲鳴をあげ、胃の中に内包されていた消化物を撒き散らす。

 柚亜は左目に癒着した指をベリっ、と強引に引き剥がすと、その腕を背負うように肩に乗せ、関節とは逆方向に力をかけ、テコの原理で腕をへし折る。

「グッッ—————————!」

 鈍い悲鳴が漏れる。力任せに腕を引き離すと、即座に距離を取った。

 お互いに息が上がる。

 数十秒の中で何重にも交わされた命のやりとり。

 瞬き一つでさえ致命傷になりかねない攻防。

 緊張と疲労と興奮の入り混じった長い沈黙。

 最初に打ち破ったのは唯駒だった。

「ふふ……ハハハハハ!楽しいですね。最高です江波さん」

「……何がそんなに楽しいんですか」

「あなたもわかっているでしょ。こんな命がけの試合、どんなに大きな大会でもできはしませんよ」

 こんなにも無邪気に、清々しく声をあげて笑う唯駒を見るのは初めてだった。

「ずっと試したかったんです。俺の技がどれだけ通用するのか。みんな俺には遠慮するから。だから、容赦無く無慈悲に相手してくれる人が欲しかったんです」

 そんな勝手な……」

「君もそうじゃないんですか?俺と一度手合わせしてみたいって思っていたんじゃないんですか?」

「それは……」

 否定できなかった。唯駒が積み重ねた技がどれほどのものか、彼の志す武道の形がどんなものなのかこの身に叩き込んで欲しかった。けれど、それが許されるわけないから心の奥底で封印していた。

「まあ、生き返る前の俺なら、素人相手でも勝てないでしょうけど」

「……生き返る」

「おっと、おしゃべりが過ぎましたね」

 ——————やっぱり、本当に一度死んで、そして蘇ったんだ。

 いつから?誰によって?どうして?

 疑問が絶えない。

 彼が生き返った要因が、学校全体に起こったこの惨状と繋がっているのなら、全て聞き出さないといけない。感染体を元に戻す方法。変異体が正気に戻れた理由、来海が狙う目的。何より、罪のない生徒が何百人も無くなっていることにまともな罪悪感を覚えているのかどうか。

 聞きたいことが追いつかず、言葉に詰まる。

「柚亜さん、そう難しく考えなくていいんじゃないんですか」

「え?」

「せっかくこうやって、全力で戦える機会に恵まれたんです。下らない邪念のせいでつまらない勝負になるのは嫌じゃないですか?」

 ——————下らないだと?

 ふざけるな、と十七年間生きてきた柚亜の『理性』が叫ぶ。人の命を、人生を、尊厳をゴミのように踏み潰しておいて何を言っているんだと、彼女の培ってきた正義が訴える。

 しかし、その反面、——————どうでもいい——————と納得する自分がいた。

 骨折、打撲、捻挫、裂傷、擦過傷、切傷、刺傷、ありとあらゆる外傷に加えて失明までした。これだけ酷い目にあっているのに、かつての自分よりもずっと心が軽いのはどうしてだろう。

 自分の頬に触れ表情筋が引きつっていることに気がつく。

「さあ。余韻が冷めないうちに続けましょう。今度は『本気』で」

 そう言って唯駒は裸足になった。

 ——————まだ全力じゃなかった?

 砕かれた左目を抑えて心の中で絶叫する。しかしそれと同時に、当たり前だ、と納得した。なぜなら空手にしろ柔道にしろ、武道は靴ありきの戦闘を前提にしていないからだ。

 柚亜もそれに続いて靴を脱ぎ捨て、そして問いかける。

「先輩、一つだけ聞かせてください。あなたたちは感染体……少し前までの私のように正気を失ったままの人たちはどう思っているのですか?」

 その質問に首を傾げて、

「あまり考えたことないですね。でも早芝くんという子が彼らを操れるので最低限手を出さないようにと気をつけていましたね。まあ、彼はもう死んでしまったみたいですし、そこまで気にする必要もないかと」

 柚亜の中でこれまで自分を構成する一部が崩れた音がした。それは彼に対する信頼と敬意であり、それはこの世界で己の信念を繋ぎ止める手綱の一つだった。

「わかりました。ありがとうございます。お陰であなたの期待に応えられそうです」

 静かな決意が蘇る。

 彼が生き返ったのなら生前のままであって欲しいと願ったが、もうどうでもいい。

——————あなたは私の手で壊す。

一つ呼吸を置き、構えを取る。

彼女の瞳は曇りのない一つの狂気に染まる。

唯駒は武者震いをする。気持ち一つで何かが劇的に変わることはない。だが、優れ過ぎた四感が彼女を脅威と認めた。

それはきっと、迷いだらけの意思が自分への殺意によって統一されたからだ。

強くなったわけではない。

これまで出現されなかった、本来持っているはずの未知数の強さを尖りきった狂気がこれから開花しようとしているのだ。

その喜びを全身で享受し、大地を踏みしめる。

 地面の力さえも利用し攻撃の振り幅を広げる。

 折れた腕さえも利用し、いや折れているからこそ丁度いい、と可動域の限界を超えてしならせた斬撃は、大気を割った。頭ごと縦にかち割らんとする衝撃波を紙一重に避け、ハラリと切られた髪が舞う。

 一歩間違えれば死んでいたはずなのに、不思議と恐怖を感じられない。

 踏み出す行動の一つ一つが無根拠な自信に満ちている。

 柚亜が避けたその瞬間から既に唯駒は次の斬撃を放とうと振りかぶる。

 行動を選択する余地はないから、己の直感のみを盲信し前に出た。

 右肩の一部が跳ね飛ぶ。だが、痛みを置き去りに、指でガッチリとつかんだ大地に向かって溜めた力を放ち、一気に距離を詰める。

 ——————なるほど。

 空気の揺らぎと柚亜の体温を肌で感じ取り、彼女が急激に接近したことを識る。そうくるならば、と彼の貫手と同様の鋭利さをもつ足刀で、腹部を突き刺すように……

 (右足の前蹴り……疾いけどこの距離なら足が伸びきる前に膝を撃ち落として……)

 もう一歩小さく地面を蹴り、さらに小加速。間合いを保ちながらカウンターの体勢を整えるが、唯駒はそれさえも読んで——————

 (軌道が変わった?避けられ……———————————————————————ッ!)

 完全に腹部へと運んだ足を、その勢いのまま膝だけ下向きに返し顎を打つ『変則の上段回し蹴り』は、その急激な軌道の変化によって視覚の認識外からの一撃となる。ただでさえ目で捉えるのが困難な変則の蹴り技は、片目を失った柚亜にとっては不可視の領域からの攻撃だ。

 辛うじて血晶を纏う左腕で受けるがその威力に耐えきれず崩れかけたフェンスに直撃する。

 ——————このままじゃダメだ。

 すぐさま起き上がり今にも落ちそうなフェンスから離れ、小刻みにフットワークを刻む。腰を落としたまま素早く、前後左右上下、全方向へ小さなステップを繰り返す。思考する間をゼロにするために——————反応ではなく『反射』で斬撃を回避。

 小さくバックステップをとり、後ろ足の膝が体重を吸収するように柔らかく曲げると、今度は一歩で間合いへと入る。

 唯駒は徹底的に柚亜の死角を攻める。

 唯駒牽制で放たれた上段刻み突き。何発も連続で打つがどれも当たらないことを前提とした誘導(偽物)の拳だと気付き、逆にそれを利用して隙の生まれる引き手の瞬間を狙う。そして放たれたのはコメカミにある太い血管、脳底動脈目掛けて、横から繰り出されるチョップ、『手刀打ち』で——————しかし、柚亜は前足と後ろ足を即座に入れ替え、最も受け手の取りやすい構えへと強制的に変えさせる。

 これは予想外だったと唯駒は驚愕するが、もとより彼女は複数の構えを使い分ける変則型の選手だ。大会では他の選手とは明らかに技の練度も試合の経験数も違う。その差を埋めたものが、実直に積み重ねた『基礎』の技と、構えと距離、視線やフットワークなどで

相手のペースを乱す『姑息さ』だ。

 正々堂々真っ向勝負を信条とする彼女はこれまで認めたくなかったが、今はこの才能を遺憾なく発揮できる。

 肘打ちで威力を相殺し反撃を—————————その瞬間、壊れたはずの嗅覚から『死』の匂いがした。

 至近距離でも十分に威力を発揮する、顎を突き上げるような上段蹴り。身体を後ろに引き、足先が鼻をかすめる。それと同時に柚亜は後悔する。

 ——————失敗した。

 重心が崩れ無防備な受けを強いられた。せめて致命傷だけでは、と首元にガードをよせる。

 唯駒は蹴り足を地面につけたと同時に反動を利用して宙へ跳ね、縦に一回転すると同時に体を捻り踵を振り下ろす『胴まわし回転蹴り』が柚亜の左腕を切り裂いた。

 時が止まっているのではないかと思うほどの長い無感覚の時間がドシッと重たい音と共に動き出す。

「くっっっ………アアアアァァァ————————————!」

 次に襲ってきたのは覚悟していた激痛と、耐え難い喪失感。数秒前まであったはずの片腕が地面を転がる。脳の錯覚のせいか自分では指の感覚があると認識しているのに、そこには重さだけが失われ、それを嘆くように血液が溶岩をも凌ぐ灼熱となって悲鳴をあげる。

 認めたくない自分の才を使役しても彼の技と、覚醒した超感覚の前には届かないのか。柚亜は歯を食いしばって、悔しさと涙でいっぱいの眼光を光らせる。

 しかし、唯駒にとっては、

 ——————片腕しか奪えなかった。

 本当なら四肢を全て切り落とせたはずなのに、幾つもの対応の外側にある動きで無意識のうちに完成された一連の技を狂わされた。

「やはり、良い!」

 白い歯を剥きだし満面の意味を浮かべる。

 まだ戦わせてくれることに感謝して、もっと追い込んだら何を見せてくれるのだろうかと期待を込めて。心臓めがけて貫手を——————いや違う。

 柚亜は切断された箇所を握りしめ、血の弾丸を発射。その決死の足掻きに唯駒は回避行動を取らざるを得なかった。

 腕の切断面は血晶によって止血。

 心臓が爆発するほど跳ね上がり患部だけじゃなく、全身の体温までもが上がっている。

 息が上がる。血も涙も流しすぎて頭がフラフラする。

 それでも、と追い縋る執念に、柚亜はついに確信してしまった。

 ——————私は、この手であなたを殺したい。

 身勝手な正義感や彼への幻想から生まれた使命感などではなく、ただ純粋にその結果を欲しているのだと。

 ——————これは本当に私なのだろうか?

 周りの狂気に影響されて自分の倫理観が崩壊したせいか。それともこれは最初から私が抱いていたものなのか。十七年間で私が構築した信念が剥がれていく。完璧でありたい、良い子でありたい、そんな張り詰めた思想の呪縛から解放され、在るがままの江波柚亜になっていく。

 本当の自分って案外、どうしようもない人間だったんだな、とどこか失望している反面、早くこうなりたかった、そんな虚しさに似た解放感がこみ上げてくる。

 勝ちたい、倒したい、殺したい。どんな手を使ってでも。

 なら—————————まだ足りない。

 血と涙と目と腕、数多の傷を犠牲にしても命を繋ぐだけ。ならばもっと姑息に意地汚く、人の戦い方の域を超えろ。常識を嘲笑い、戦う相手への敬意もモラルも捨て、抑圧し続けた渇望だけを正義と信じ、貪欲に殺意に食らいつけ!

 ——————どうせ捨てるならば、私の積み重ねた十七年間を悠々と覆してみせろ、江波柚亜。

「あは……あははははは。上等だよ。私は、私の悦びに従って生きるよ」

 これ以上ないくらい血が滾る。

 抑えきれない興奮で今すぐ心臓が爆発してしまいそうだ。

 肺に残った空気を全て吐き出し、新鮮な酸素を一気に吸い上げる。

 ドクンッ、鼓動がさらに加速する。

 右手と両足に血を浴びせ、彼女もまた歪な鋭さを纏う。

 唯駒はさらなる脅威に感動すら覚えた。

 この興奮、この緊張感、この幸せが永遠に続けば良いと涙が溢れ、沈黙を破る水滴の音が陣太鼓と同様、最後の攻防を開幕させる合図となる。

 ガキンっ、と互いの拳が金属同士がぶつかり合うような鋭い音を奏でた。

 実力では一枚も二枚も上手な唯駒を相手に腕一本で対抗できるわけもなく、だからこそ彼女は空手も自らの腕も足も一つの『武器』として振り回す。

 一気に距離を詰めたかと思えば、身を屈め後ろに回り込む。さらに攻撃に出たかと思えば急速にバックステップで後退し、体力という概念を捨て去り無茶な撹乱を続ける。

 腕も足も『しなる刃』と同様に扱い、致命傷以外はどうでも良いと切り刻まれることを厭わずに攻撃の手を続ける。

 唯駒の勝利への確信が徐々に揺らぎ始める。

 ——————ダメージも体力の消耗も圧倒的に彼女の方が大きいはず。大量の出血している上にこれだけ無駄な動きを重ねているのに、まだ攻撃の手が緩まない。それどころか加速している。なぜだ。なぜ隻腕の少女にこうも自分が追い詰められているのだ。

 次の一手が全く読めない。狙いを隠す気配のない足捌き、だがあまりにも変則的で、仕掛ける技と動きがチグハグ。抱いていた興奮は焦りとなり、やがて戦慄へと変貌、知覚の範囲が狭まり、意識は柚亜の動きのみに集中。

そのせいで彼は気がつくのに時間がかかってしまったのだ。

 柚亜の皮膚を切り裂く自分の手が、彼女の血によって動きを鈍らされていたことに。

 両手両足に柚亜の血がベッタリと、そして血晶となりその鋭さを奪う。

 唯駒は慌てて後退し、隙を突かれる覚悟で血晶を砕く。

 (仕留めるなら今……いやこのままじゃ決定打に欠ける。どうすれば……)

 確かに追い詰めている。だが『まだ足りない』。

 ならばどうする——————さらなる『凶器』があるだろ?

 (ああ、そうだ。絶好の武器があるじゃないか)

 柚亜は左腕の切断面、血晶によって止血した箇所からずっしりと重い血を絞り出し、唯駒めがけて投げつける。

 【真紅血晶・火花(しんくけつしょう・ひばな)】

唯駒に振りかざした血は外気に触れ、無数の刃となり雨の如く降り注ぐ。

 ——————まだだ、まだ足りない。

 (わかっている。私の切り札はもっと歪で狂気的な『剣』になるはずだ)

 まるで最高の悪戯を閃いた子供のように笑って、柚亜は地面に転がる、最悪の凶器を力の限り踏みつけ、空中へ飛ばす。

 回避不可能、手数にものを言わす一手。タイミングからして明らかに本命の、しかし彼はこれが陽動であることを確信していた。次の攻撃に備えるために唯駒は、目前に迫る無数の刃を神がかり的な皮膚感覚と反射神経で全て捌く。だが、

 ——————なぜだ。なぜそんなにも遠くから手刀を振りかざす……まさか?

 その瞬間、見えないはずの彼の瞳に、心からの狂喜を浮かべる少女の姿が映った。

 (なんて……なんて綺麗なのだろう……)

 唯駒はその時生まれて初めて色を見た。緋色に輝く剣と、本気の殺意を乗せて振るう柚亜の姿に、言葉を失うほどに見惚れてしまった。

 柚亜は宙を舞う『切り札』を握りしめる。それは——————誰がそんなこと予想できただろうか。彼女は斬り落とされた自分の『左腕』さえも武器として——————切断面を砕き、振りかざした遠心力が緋色に輝く歪な刃を作り出す。

 【真紅血晶・狩紅(しんくけつしょう・からくれない)】

 禍々しいほどに尖った刀身は唯駒の首を掻き切ろうと、冷気を帯びて襲いかかる。

「ハハハ……良いですよ。最高ですよ!柚亜さん!」

斬撃で対抗できないなら『打撃』で対応するしかない。

ぶっつけ本番。研鑽を重ねた貫手を捨て、掌底で刀身を砕き上空へと弾く。だが、 

——————脆い?

 あまりにも容易く砕かれたことに嫌な予感が迸る。

そして尖り過ぎた感覚が予知した未来は————————————————————————————————————


「これは……完敗ですね」

 自分の左腕さえも陽動。

その先にある本命は——————彼女が最後に信じ抜いたのは、やはり空手だった。

「はぁああああアアアアアアアアァァ!」

 そこには存在しないはずの左腕で照準を合わせ、殺意も狂気も興奮も全て乗せて打ち込む渾身の『中段右逆突き』が小さな武人の戦意もろとも、虚空の遥か彼方へと貫いた。

 唯駒は力なく倒れ、生まれて初めての敗北に空を仰ぐ。

 柚亜は空へと放り出された片腕を掴み、握り締めて新たな刃を形成。

 大の字で倒れこむ唯駒の上に跨り、首元に切先を添える。

反撃の意思はない。

それどころか彼の表情はどこまでも満足気で、だからこそ柚亜は躊躇いを捨てて、

「先輩、ありがとうございました」

返事はなかった。言葉を交わす必要さえなかった。

 切り裂く緋色の剣は、それは見事な鮮血の華を咲かせた。


■ ■ ■


 深く沈むような微睡み、甘く溶け落ちてしまいそうな浮遊感、永遠に続くかと思われた色のない深層世界から目を醒ます。潰れた瞳は紫紺のガラス細工のように瞼を覆い、残された瞳には滲んだ絵の具のように乱反射する鈍色の光が差し込んだ。

 どれだけ眠っていたのだろうか。一定間隔でズキズキと鋭い痛みを知らせる頭を支え、体を起こす。あちこちに刻まれた深い傷から、余分に纏わり付いた薄い血晶がパキンっと軽い音を奏でる。

「あ、やっとお目覚めかな?」

 つい最近、どこかで聞いた活発な声が聞こえる。焦点の合わない目を凝らしてその人物の姿を捉える。長い金髪にスラッとした長い手足。その整った容姿に柚亜は数時間前の戦闘を思い出す。

「大丈夫?自分の名前言える?」

 さっきまで電気で焼き殺そうとしてきた人物とは思えないほど心配そうな顔で柚亜に問いかける、

「江波……柚亜だけど」

「よかったよかった。あ、私、鴨蔵哀歌。よろしくね」

「は、はぁ……」

 身をかがめ気さくに話しかける哀歌に柚亜は顔を引きつらせ困惑していた。差し伸べられた手を躊躇いながら手にとって立ち上がる。並んでみると柚亜よりも哀歌の方が背が高かった。

「みんなは……」

 柚亜は少し見上げる形で恐る恐る問いかける。

「……聞きたい?」

 ニッコリと朗らかに笑って、だがひどく冷たい無機質な声が柚亜の口を閉ざす。答えはわかりきっているだろ、と感情を灯さない琥珀色の瞳が語る。刃物で背中をそっと撫でられたようだ。

「いえ……でも」

「まだ、そんなに優しいんだ。答えてあげるよ」

 するとさっきまでの明るい口調とは打って変わって、機械的に起こった事実を口にした。

 「柿原柄長、死因:圧死。柿原雪加、死因:毒による自殺。立花幸真、死因:感電死。最後に古川玲志、彼はまだ生きはありましたが、酷い火傷で回復も見込めない容態。死亡までは時間の問題だったので最後は私が」

「待って本当にみんなは……」

「まあまあ、落ち着いて」

 ポンと軽く置かれた手が、あまりにも重い。柚亜は固唾を吞んで耳を傾ける。

「続いてこちらの損害、復活者(リターンナー)の死亡者。鶴巻花杵(つるまきかきね)、能力:虫獣化(ちゅうじゅうか)。死因は焼死。早芝萩(はやしばはぎ)、能力:接合。死因は溶死。古川羽衣、能力:発火。死因は焼死。そして、笠佐木唯駒、能力:超感覚と斬撃。死因は斬死。計4名」

 混乱していた頭も少しだけ冷静になり、みんなが死んだことを遅れて理解する。大方予想がついていたせいか、ショックは受けなかった。むしろ——————そんなことよりも

「私、これからどうなるの」

 ここで殺されるならそれでもいい、何か吹っ切れたように哀歌に笑いかける。

「別に酷いことはしって。むしろ感心したよ。あの唯駒くんを倒しちゃうとはね」

「仲間が死んでいるのに、随分とお気楽なのね」

「別に親しかったわけじゃないしね。私と朱奈ちゃん以外頭おかしいから」

 そう言うと哀歌は陽気に声をあげて笑った。

 自分はどうなんだ、と心の中で反論する。

「だから、私は別にあんたたちと敵対するつもりはなかったよ。私と敵対するなら話は別だけど」 

 顎に手を当て頭からつま先までざっと目をやる。その一瞬で失った左目と左腕だけじゃなく、体の隅々までのコンディションを見透かされたような気分になる。

「こんな有様であなたを相手にできるわけないでしょ」

「ほんとかな〜?さっきまでの戦闘を想像するに、あなたはたとえ四肢が捥がれても噛み付いてきそうだけど」

「そうね。今の私ならそれくらいしそうね」

 清々しいほどに透き通った声色だった。言葉に反して全てを諦めた瞳、けれどどこか違和感の残る色をした瞳に哀歌は

「わかった、私たちのことについて教えるよ。その代わり私たちと敵対しないって約束して欲しい」

「……わかった」

 哀歌はどこから話そうか少しの間考えて、真相を語り出した。

「不老不死、この分野の研究は紀元前3世紀ころから現代に至るまでずっと続いている。中国では水銀を使った丸薬、日本では江戸時代に人魚の肉を〜なんて話は知っているよね」

「まあ、一応」

 いきなりスケールの違う話を持ち出されて返答に困る。そんな柚亜の顔を見て、まあ聞いて、と一間置いて続ける。

「何千年も続けられた研究だけど、どんな成分の薬でも老朽化した人間の細胞は元には戻らない。その時にね、別の分野で一つのとんでもないものが生み出されたの。ありとあらゆる動物や虫から組み合わせどんな環境にでも『対応』できる細胞がね」

「対応?」

「そう、熱を浴びせればその耐性を獲得し、どれだけ傷ついても自然に修復へ向かう。そんな夢のような細胞。それを知って狂った研究者は思いついたの。死者に移植すれば『死』そのものを克服するのではないか、って。それで生まれた……いや、生き返ったのが私たちというわけ」

 哀歌の丁寧な説明のおかげで柚亜の理解はなんとか追いついていた。つまり、人の適応

能力を上げるための細胞が、人を生き返らせたということ。どんな技術かは想像しようもないが納得はできる。しかし、奇妙な違和感が残る。

 もう一度説明を頭の中に流し、これまであってきた『復活者』の顔を思い浮かべる。皆暴力的で包み隠さないわがままを自由に振る舞っていた。あの唯駒でさえ生前と比べておかしかった……。

「待って」 

 その違和感に気づいた瞬間、柚亜は哀歌の話を遮る。

 もやもやとした疑問が晴れそうなのに、その顔はすっかり青ざめていた。なぜなら、

「もしかして、死んだはずの肉体を細胞に乗っ取られたってこと?」

 細胞によって死を克服したと言うことは、その細胞が動かなくなったはずの脳を記憶も肉体も引き継いで動かしているということだ。

 哀歌の沈黙を肯定と捉えた柚亜は懸命に問いかける。

「それって生き返ったというの?じゃあ、今いるあなたたちも先輩も、そのよくわからない細胞に操られていたってわけ?それって本当に生き返ったって言えるの?」

「んーーーー、私にもよくわかんない」

 ニカッと白い歯を見せる哀歌を見て、柚亜はまた後悔する。

「まあ、死んだと思ったら生き返れてラッキーみたいな感じだし、我思うところに我あり、みたいな感じよ。だからそこは気にしてないというか、考えないようにしてる」

「そっか……」

「続けるね。四年前、その研究員はある女の子が目の前で瀕死の状態で倒れているところに出くわすの。今すぐにでも息を引き取りそうな彼女を見て、研究者は我慢できず連れて帰った。そして息を引き取ったのを確認し、細胞を埋め込んだ。すると少女は生き返ったどころか自分の意思で『発火』した。その代わり、人としての理性がどこか破綻していたらしい。だけど、狂った研究者たちは面白がって、さらに火力を強めようと改造を施した」

 この時、柚亜は死者の中に『発火』の能力を持つ者がいたこと、そしてその者の姓が『古川』であったことを思い出した。

「彼女は常人では耐えられない肉体改造でも適応する細胞ならばすぐに順応した。そこから何人もの死体を使って実験を続けて、最後に作られたのが私よ」

「こうしてまともに会話をできるのも」

「ええ、そのように調整されたからね。末っ子なのに暴れる上の子たちをまとめるのに苦労したよ。まあ、まとめられなかったけど」

 腹立たしそうに目をそらして呟いた。

「それで、ある日原点に戻ったのよ。生者に使えばさらなる効果を発揮するのではないかって」

「だからって、なんでわざわざこの学校に」

「本当は別の施設で行う予定だった。でも、最初の被検体、古川羽衣が父親もろともこの学校全てを巻き込んだ。それが悪意なのか善意なのかわかんないけど」

 死体でさえ復活し、その上デタラメな能力をつけるのだ。生きている人間にそれを与えてしまえばゾンビの如く正気を失って暴走するのは必然。長い時間飢えて、腐って、それでも、その肉体に適応してしまい、体の機能として動けなくなるまで暴れ続ける。授業を受けたり夜は大人しくなるのは生前の体を使っているか当然か。

「じゃあ、私たちはどうして正気に戻れたの」

「さあね。柚亜たちのような検体はこれまでいなかったから。私も学者じゃないし詳しいことはあのおじさん方が調べてもらわないとわからないかな」

「でも、予想はつく。私たちはずっと、自傷に生かされてきた」

 過度な精神へのストレス、それと同時に送られてくる外的損傷と快楽物質。生物的に人間のみが依存するこの行為を細胞は『異常』と判断し、適応するために身体を作り変えた。

肌を切る少女にはすぐに止血できるように。火傷を繰り返す教師には熱をすぐに放出できるように。喧嘩を繰り返す双子はお互いに距離を取れるように。血を流すことに喜びを感じる少年には止血とさらなる痛みで危険信号を送れるように。

 その根深い依存と障害へ対応した結果、脳を乗っ取られることなく、細胞が肉体にのみ作用した。だから、目覚めるきっかけも『傷』からだったのだろう。

「ねえ、柚亜。あなたが良ければ私たちと一緒に来ない?」

 思いがけない提案に目を丸くする。

「この学校は、バイオテロによって閉鎖されたことになっている。本当なら爆弾でも落として後始末するところなんだけど、朱奈が見つけたの。生きたまま細胞に適合した人物を」

「……それが来海だったのね」

「なんとしてでもクルミちゃんのデータが欲しいらしくて、私たちはその捜索と学校の警備を命令された。もちろん逆らえないように改造されて。私たちはこのまま研究所まで帰る。その時、あなたたちのような変異した検体は重要なデータになるはず」

「もし断ったら?」 

「当然、証拠隠滅に巻き込まれる」

 つまり爆弾の投下。

 生き残るにはそれ以外に道はなさそうだ。

 実験され、物として身体中を弄られ、もう自由はない。そんな生活。。

 「どうする?私は個人的にあなたのことも気に入っているからついてきてもらえると嬉しいんだけど」

 断る余地さえない。

 勝手に人を巻き込み、勝手に人の人生をめちゃくちゃにしておいて、虫が良すぎる。

 だが、彼女の話が本当なら『環境に適応する』という技術は想像を絶するほどの進歩をもたらす。命が欲しければ実験体となってその研究に協力しろ。

 なるほど、賢い江波柚亜なら、どれほど人の理から外れていようとここまでの極端な絶望と希望の二択を出されれば、歯がゆい気持ちを押し殺して頷いただろう。

 ——————気に食わない。

 柚亜は鋭い眼光で睨みつけ嘲笑する。

 彼女の中には怒りはない。

 復活者によって殺された彼らのことを『仲間』などと薄ら寒い類に括り、悲しむ気すらもう微塵も起こらない。

「それは断るってことでいいの?」

 哀歌が信じられないものを見る目で問いただす。しかし柚亜からは返事はない。

「理由を聞いてもいい」

「不愉快」

 ただそれだけ、恐ろしく不遜な態度で吐き捨てる。

 彼女の理性が訴える。今すぐにでも首を縦に振れと。けれどその訴えに耳を貸せるほど、彼女はもう『利口』にはなれなかった。

「この場であなたたちと敵対するつもりはない。でも、無理矢理にでお連れて行こうとするなら、この場で首を搔き切る」

「……できると?」

 バチバチ、と手の上でプラズマが弾ける。あれほど冷たく感じていた殺気ももう、不快の素でしかなかった。

「何を勘違いしているの?」 

 小馬鹿に挑発するように鼻で笑う。ゆっくりと哀歌とは逆方向に歩き、転がっていた自分の左腕、その断面から生える刃を首に当てた。

「私のいうことを聞けないなら、この首を跳ねる」

「それ、まさか交渉のつもり?」

「まさか。あなたたちと同様、実験体に『成り下がる』くらいなら、もう死んでいいってことよ」

 嘘なのか本当なのか真意が見抜けない虚ろな瞳、これまで何人も見てきた復活者の最後と同様に、『破綻した者』の目だった。それは細胞による者なのか、それとも彼女本来の性質なのか、どちらにせよ、もう使い物にはならない。

 哀歌は心底残念そうにため息を漏らした。

「わかった。目の前で死なれちゃこっちも気分悪いし、その手を下ろしなよ」

「あの惨状を見てまだそんなこと言えるの?」 

 屋上から校庭を見下ろして、

「そうだね。私はもう何も感じていない。『私』はね」

 もの寂しげに遠くを眺め、その後柚亜に物言いたげに視線を送るが、

「ごめん。何でもない」

 そう言い残し哀歌は屋上から飛び降りた。

 難なく着地し、校庭の隅で拘束されていた来海を抱えて校舎の中へ入っていった。

 来海は口枷をつけたまま必死にもがいている。柚亜のことを見つけると身をよじりモゴモゴと何かを伝えようと訴えかけるが、柚亜はただ黙って、睨みつけるように見送った。

 哀歌は地下の通路から外に出るのだろう。

 来海を引き渡し、自分のことを報告されたらすぐにでも爆弾か何かを落とされて、人生はそこで終わる。

 柚亜は血の色のように紅い空を仰ぎ、そのまま地面へ倒れ込む。

愚かな選択をしたなと自分を蔑む。だけど、心は今見上げている空の色のように熱く、晴れやかだった。

「さてと、これからどうしようかな」

 グゥ〜、とお腹がなる。起きてからまだ何も食べていないことを思い出した。

「まずは朝ごはん……いやもうお昼か。何を食べようかな」

 ゴロゴロと転がりながら気の抜けた声を上げる。

 不意に視線が、唯駒だった物へ向けられた。

「……そういえば、先輩の腕の切れ味。あれ、どんな構造なんだろう……」

 興味深そうにじっと見つめ、そして何かを閃いたようにパッと悪戯に笑う。しかし、すぐにめんどくさそうに息を漏らして、

「まあ、それも後でいっか。まずはご飯食べよ。何がいいかな〜」

 
















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