第5章 愛煙教師は孤独の教室に火を灯す

 簡単に言ってしまえば彼はただの愛妻家だった。

 大学の研究所で知り合った同級生と意気投合、卒業する頃にはいつの間にか将来を共にする相手になっていた。非常に優秀な研究生で、大学卒業後は修士、博士課程を得てやがては研究室を継がないかと教授直々に誘われるほどだった。その反面、世俗のことには疎く、電子機器系統の扱いは特に苦手だった。

 古川継実、彼女の家はそこそこの名家で結婚の際には家族間のトラブルが続いた。その結果、旧姓を捨てることになったが、なんの抵抗もなかった。

 決して裕福とは言えないが、安定した収入の中で生活を共にし、やがては子宝に恵まれて、家に帰ると「おかえり」と迎えてくれる人がいる。そんなありふれた幸せを享受していた。ただそれと同時に、自分とは違い才能ある彼女から研究を奪ったことに引け目を感じていた。しかしその話題に触れる度、

「私だけ好きなことするわけには行かないでしょ」

 まるで映し鏡をみているような笑い方だった。

 アレはどういう意味だったのだろうか。当時は子育てでそれどころじゃないとか、そんな風に捉えて頷いていた気がする。でも、きっとそれだけじゃ不十分なのだろう。足りないということだけはわかるのに、その真意だけがまるでわからない。

 それからは何も考えず、最低限の仕事をしては暖かい家族の元に帰る生活を繰り返した。

どれだけ足の重い帰路も、安っぽい蛍光灯が灯った部屋の窓から香る鰹節の出汁を嗅ぐ度、疲れを忘れて幸せを噛み締めていた。

 永遠に続いても飽きることのない毎日。今ではそんな朧げな記憶が悪夢となって襲いかかる。

目を覚ますと、酷く喉が乾いていた。バキバキと潔いくらい痛々しい音が背骨を鳴らす。

 ぐっしょりと水分を吸った服を脱ぎ捨て適当に包装されたYシャツを乱暴に開封して着替える。その上からいつも通り白衣を被せていると、ようやく頭が回り始めた。

 茹だるように身体が熱い。

 廊下に出て水道の蛇口を捻る。気が済むまでヌルい水を喉に流し込む。胃の中に落とされた水流が蓄積された熱を奪い、ほんの少しだけ楽になる。だが少しすると再び、特に頭と食道のあたりが、焼き石でも詰まって いるのではないかと疑いたくなるくらい熱い。

 ——————流石にやりすぎたか

 見るからに焦げ臭そうな手の甲を見ながら昨日のことを反省する。

 「意外とメンタル弱いんだな」と人ごとのように呟いた。

 古川は定位置にしまっていたタバコの箱を取り出し一服。彼はいつも二、三回ほど吸っては、まだ半分以上残っているタバコを身体に押し付けて鎮火する。

 彼にとって喫煙は味わうためのものではない。元々味も匂いも好きではなく、仕事上の付き合いでしか吸っていなかった。妻が妊娠した時にもすっぱりと辞め、二度と吸うこともないと思っていた。

 古川の娘、古川羽衣(ふるかわうい)は物静かな少女だった。休み時間はいつも本を読みふけ、けれど感情表現が豊かで、友達は多かった。好奇心旺盛で目につくものは気がすむまで調べる性格は母親譲りのものだ。

 彼女が小学校六年生の夏。その日は終業式ですぐに家に帰ると、友達と公園で遊ぶと言ってジリジリと肌を焼く炎天下の下をサンダルで駆け出していった。羽衣は夏の時期だけ継実からもらった麦わら帽子を被って外に出るのだ。

 学校で仕事している時に亜麻色の髪を揺らしながら家を出て行く羽衣の写真を送られてきた。微笑ましい気持ちでいっぱいだった。

 しかし数時間後、継実から何通もの不穏なメールが届く。

 『羽衣が帰ってこない』

 嫌な予感がした。

 残った仕事は全て持ち帰ることにし、急いで家に向かった。途中羽衣がよく行く公園を覗いたがそれらしい影は見当たらない。継実からもあれ以降返事がない。

 もしかしたら警察に通報して捜索してもらったほうがいいかもしれない。携帯を片手にコールボタンを手に掛けた時だった。

 古川は目を疑った。

 小さいけれど数えきれない思い出の詰まった我が家が、灰色の煙を纏い、滾る火柱が瞳の奥を一生消えない火傷として刻む。

 そういえば生の火事を見るのは初めてだな、なんてどこか他人事で、けれど足は動いていた。持っていたカバンなど投げ捨て、木屑当然の扉を蹴り飛ばす。

 数秒後、理性が引き返せと命令を下す。二人が中にいるとは決まったわけでもないし、一人飛び込んだところで何かが変わるわけではないだろ、と。

 ——————うるせえ黙れ。

 本能からの叫びだった。

 皮膚が焼ける。煙が気管支から肺の中へと侵食し始めるが、そんなことを無視してひたすら駆け回った。あれだけ狭いと小言を吐いていた家が今ではあまりに広い。玄関、リビング、台所、浴室、二人の名前を叫びながら探し回るがどこにもいない。

 残るは二階の寝室。急いで階段をかけの望楼とするが、その瞬間天井が崩れ落ちて行く手を阻む。

 ——————邪魔だ、どけ。

 崩せるはずがないとわかっていた。だが、それでもと身体を叩きつける。

 Yシャツが燃えつきて火が直に皮膚を炙る頃、視界が白く曇った。

 足が動かなくなり、指が痙攣し始めたあたりからすっと頭の中が冷静になった。

 ——————あ、これ無駄な足掻きじゃん。

 その言葉が頭によぎった瞬間、瞳に映る煉獄に、抱いて当然の恐怖を思い出した。

 助けに来たことも忘れ、逃げ出そうと玄関へと走り出すが、もう遅かった。

 やがて力なく倒れ、呼吸もままならなくなる。前に向かって足を出していたはずが地面に頬が張り付く。

 まだ動く腕を使って這いずるがその遠さに世界が緋い絶望へと染まる。

——————熱い、逃げたい。

 ——————死にたくない。

 ——————誰か助けて。

 みっともない叫び声が頭の中で乱反射して、やがて『諦め』の一色へと染まる時、彼は見た。真っ白に眩む視界の中で、まるで虫の死骸を眺めるような目で見下す羽衣の姿が。

「ねえ、パパ。どうして助けてくれなかったの?」

 それは彼女の怨念が生み出したものなのか、それとも朦朧とした意識が見せる幻覚か。彼女は「ねえ、どうして」と問い続ける。

 身体も頭も限界を迎え、意識が途絶えようとした瞬間、羽衣は————————————

 目が覚めるとそこは病院のベッドの上だった。

 身体が重い。怠い。気持ち悪い。

 途方もない倦怠感と果てしない喪失感が心を襲った。

 ——————このままもう一度寝たら、死んでいてくれはしれないだろうか。

本気でそう思った。

 生き残ってしまった。

 死ねなかった。

 死にそびれてしまった。

 そんな後悔が降り積もると、突然吸いたくもないタバコを求めていた。

 吸いたくもない煙を吸う度、瞳の奥に刻まれた火傷が忘れるなと言わんばかりに肺を蝕み、湧き上がってくる怒りが自然と肌へと押し付けていた。

 当たり前にある幸せの中で、幾つもの後悔のタネをばら撒いてきた。明日になれば忘れてしまう後悔は、あの日のことをきっかけに次々と棘を開花させる。心を蝕む自責の念は皮膚を焼く時だけ軽くなり、そしてほんの少しだけ自分が強くなった気がした。

 我ながら下らないと笑えてくる。

 退院してもどこにも帰る場所がなかった。

 抱えきれない「おかえり」をもらったあの場所は黒い廃材が乱雑に積み重ねられ、野次馬たちの溜まり場と果てた。

 一刻もあの場所から離れたかった。

 次の年全寮制の高校に赴任した。教師用の寮も用意されており、何も考えないようにするには都合が良かった。

 何にも期待せず、唯一の疑念だけを残して全てを諦めると、不思議と人付き合いが上手くなった。危害も期待も向けない人間というのは最高に警戒しないで済む相手だからだ。

 寝て食べて仕事してタバコと自傷、その繰り返しをただ延々と繰り返した。七月二〇日、その日は体温が高く、頭痛も酷いため休養をとった。ゆっくりと何も考えず長い長い間寝ていると、目覚めた時は教室のベランダにいた。片手にはいつも通りのタバコを挟み、だが眼に映る光景はあまりにも悲惨で、一周回って渇いた笑いをこぼしたほどだ。

 ——————あの日も今日と同じくらい喉が渇いていたな。

 不意に窓の外へ目をやりながらそんな下らないことをボヤいてみる。

 心の底から笑えなかった。

 外では来海が金髪の少女と激しい打ち合いを繰り広げていた。

「駆けつけなくていいの?」 

 仮面を被った管理者が問いかける。変声期をつけているのか男なのか女のかわからない声をしている。身につけている制服は女子用のものだ。

「あそこに飛び込むって?冗談きついな。動きが異次元すぎるだろ。サーカスか?」

「サーカスは嫌い?」

「俺は嫌いじゃないけど、娘がピエロ苦手でね。ちょうどあんたがつけたふざけた仮面のような」

 そう言うと管理者はクスクスと上品に笑った。その笑い方は嫌になる程見覚えがあった。

「別にふざけてなんかいないよ。ただ哀歌ちゃんがつけた方がおもしろそうって。あ、哀歌ちゃんっていうのはあそこにいる金髪の綺麗な子で」

「どうでもいいけど、何の用?」

 話を遮ったせいか、管理者はふて腐れて黙った。仮面の下で眉を寄せて頬を膨らませている顔が容易に想像できた。

「お前らの狙いは来海じゃないのか?俺なんかに構う暇ないと思うけどな」

「う〜ん、奇跡が起きても哀歌ちゃんが負けることはないかな」

「へえ、じゃああんたは暇つぶしにこんなおっさんを選んだわけか」

「いやいや、ちゃんと理由があるんだって」

 意図的にやっているのか、仕草、笑い方、話し方、どれも身に覚えがありすぎる。古川は加えていたタバコを握りつぶす。それにはあからさまな怒気が入り混じっていた。

「それ、熱くないの?」

「ああ、これか。熱いけど、もう慣れたよ」

「ふーん。火は怖くなくなった?」

「いつから俺が火を怖がっているって?」

 そう聞くように誘導されているような気がした。

 少女は少しの間沈黙し、そして、

「あーあー。本当はもう少しドラマチックにしたかったんだけどな」 

 そう言って後頭部に手を回しカチリと、金具を外す。カツンと固い音を立て仮面は地面を跳ねる。

 少女は結んでいたゴム紐を解くと、長い亜麻色の髪がはらりと宙を撫でる。

 彼女の瞳は溢れんばかりの涙を抱え、そして頬を伝って零れ落ちた。

 それもそのはずだ。

「久しぶりだね、『パパ』」

 顔を隠しても、声を変えても、気づかないはずがない。一目見た時から確信していた。古川は心の底から笑って、

「大きくなったな、羽衣」

「隠していてごめんね。ずっと……ずっと会いたかったんだ」

 羽衣は古川の胸に飛び込む。

肩幅、骨格、体温、伝わる情報全てが、あの日失ったはずの少女であることを告げる。

「ありがとう、生きていてくれてありがとう」 

 どれほどのこの再開を待ちわびただろうか。自らを燃やし尽くそうとする怨念の中で見えた唯一の希望、僅かな可能性だけを信じて生きてきた。歓喜のあまり深いため息が漏れた。

「羽衣……ずっと言いたかった。ずっと……したかった」

古川はありったけの想いを込めて彼女に手を伸ばす。今日まで刻んできた傷の全てを乗せて……


 ——————ずっとお前を殺したかったんだよ。


 変痕(スカー)『蓄熱』、復讐の炎掌が彼女の首を捉えた。

 燃え滾る炎刃が孤独の教室に咲き散り、そこにいる全てを灰塵へと誘う。

 これは余談だが、彼が紹介文で『愛妻家』としか記載されていないことを今になって思い出した。


■ ■ ■


 ——————先に攻撃した方がやられる。

 格闘技の素人ながら肌を撫でるほどの緊張感が嫌という程それを伝える。金髪の管理者は来海のことなど御構い無しにずかずかとテリトリーへと足を踏み入れる。

 タイミングがわからない。踏み込めば拳が当たる距離なのに届くビジョンが見えない。最初はこちらから攻めていたはずが今ではジリジリと後退させられている。呼吸することさえ今は躊躇ってしまう。

 冷や汗が頬を伝い、わずかな苛立ちで思考が逸れたその瞬間、彼女は仕掛けた。目で追える。さっきと同じ、狙いは目。右手を素直に直進させる突き。タイミング、方向、突き手、ちゃんと把握できているのに、確信してしまう。これは避けられない、と。咄嗟に右手で顔を庇う。だが、攻撃は届いてこなかった。

 小さな破裂音と共に三階の教室の窓ガラスが割れた。反射的に音の方向を向いてしまったその隙を来海は見逃さなかった。

 身軽なその肉体を彼の細い健脚が敵の元へと放り出す。瞬発的に縮まった距離に、その勢いのまま右手の刻み突き、すぐに腕を引き左手で喉元を突き上げる。さらに回転の速度を上げ最大威力を誇る蹴り技、後ろ回し蹴りを鳩尾へと打ち込む。

 確かに感じた手応え。想像できうる中で最高の形で決めた確信の打撃。だが、これで仕留められたとは微塵も思わない。十分に警戒を保ったまま、背後へと回り込みふらつく眉間めがけて踵落としをお見舞いさせる。

 ドガンっ!と鈍い音を立てて後頭部が地面をバウンドする。

 畳み掛けようと追撃の構えをとるが、本能的に脳へ異常な危険信号が送られ、急激にブレーキを踏み込む。すると次の瞬間、来海が一秒先にいたはずの場所に紫電が天に向かって駆け上る。

 ——————今、雷が?地面から?

 当然混乱した。あと一歩でも足を動かしていれば黒焦げになっていた。その恐怖と信じられない現象に軽くパニックに陥る。

「ごめん、本当は使いたくなかったんだけど、思いの外可愛くないから」

 髪についた砂を払いながら管理者はむくりと起き上がる。その様子は間違いなく怒っているのだが、どこか嬉々とした顔つきだった。

「ほんと、『適合者』がここまですごいなんて知らなかったよ。ちょっと痛いことするけど許してね」

 余裕そうに喋る哀歌を警戒して来海は距離をとる。

 だがその横を音速を超える光が頬を一閃。動くなという警告が出される。

「電気……ですか」

「正解、ビリビリボールペンと比較にならないから気をつけて」

 それにしても威力が高すぎるだろ、と来海は心の中で絶叫した。電気を使う以上どこかに供給場所があるはず。だが。彼女には巨大な電池とかどこかに繋がるケーブルなんかもない。正真正銘手ぶらだ。ならば先生と同じ体内に蓄えられる体質なのかもしれない。

 来海はひたすら走り回った。仮に自分の考えが外れていても必ず制限があるはず。だから照準を合わせないように動き無駄撃ちさせるために。

「あ、それ意味ないよ」

「え?」 

「あ、君にじゃなくて、コソコソしているネズミ二匹のこと」

 全てお見通しと言わんばかりにつまらなそうに呟くとパチンと指を鳴らし、背後に二柱の雷が落とされる。確実に気を失う威力で落とした。しかし、

「はあああああ!」

「オラああああ!!」

 柚亜と幸真の勢いは止まらない。柚亜は『血晶』で作り上げた槍を、幸真は金属バッドを片手に左右へ回り込み、息を合わせて振り上げる。

「邪魔」

 鬱陶しそうに吐き捨てると幸真の顔面めがけてハイキック。何とか受け止めるもその衝撃までは殺せず、柚亜もろとも蹴飛ばされる。

 二人が地面の表面へ叩きつけられることで土埃が舞い、視界が塞がれる。来海はその隙を見逃さず反撃に出る。ヒラリと宙を舞い、重力加速度プラス三百六十度高速回転の遠心力を込めた回し蹴り蹴りをこめかみにお見舞いする。

「もうその類の技は効かないよ」

 蹴りと同時に首をいなし衝撃を流された。来海の足を掴み乱雑に地面へ打ちつける。すんでのところで頭をガードしたがやせ細った背骨や助骨が鳴らしてはいけない音を立てている。

 それを見かねて柚亜と幸真が追撃を仕掛ける。

「はあ……ほんとそういうのいらないから」

 管理者は深くため息を漏らし、掴んでいた来海をポイっと空中へ投げ捨てる。

「一応……覚悟はしてね」

 校庭全域に白い稲光が駆け巡る。不可避にして必殺の雷撃に三人は為す術もなく命中。来海は宙で気を失い受け身も取れないまま頭から落下。管理者は「しまった」と焦る。目的は生きたまま連れて行くこと。もし首の骨を折れば最悪死んでしまう。急いで来海の元へ飛ぶが間に合わな——————————————————

 だが、幸真は届いた。自分の怪我など見向きもせずヘッドスライディングで滑り込みガッチリと来海を受け止める。

 管理者はホッと胸をなでおろす。それと同時に幸真の存在に苛立ちを覚えた。

「何であんた動けるのよ」

「あ?昔から体弄りまくっているからよ。もう感覚が色々とバグってるんだよ。威力は強いしダメージはあるんだろうけど怯みはしねえよ」

「あー……そっかそっか。あんたたちも十分変だったのね」

「変とかいうなよ。こっちはこっちで精一杯生きようとしてんだ。というか何で俺らこんなボロボロになるまで戦わないといけないんだ。お前偉そうだし色々知ってるだろ」

「別に戦うことが目的じゃないよ。私たちの目的はクルミちゃんだけだから。それ以外の人が何をしていようが正直どうでもいいの。わかったら早くクルミちゃんを引き渡して」

「は?どうでもいい?本気で言っているの?」

 怒りに震え上がりながら柚亜は立ち上がる。

「じゃあ、何で、こんなことにしたのよ。クラスメイトはゾンビみたいになっちゃうし、あんたの仲間はどれもこれも私たちを人とも思わない化け物で、理不尽に痛い思いもしないといけなかったし。何より、私たちのことがどうでもいいなら、どうして、柄長くんが死ななきゃいけなかったのよ!」

 柚亜は指の皮を噛みちぎり血晶の矢を生成、さらに腕を盾に斬りつけて刺々しい籠手を纏う。

 ずっと言葉にしたかった心からの怒り。柚亜は管理者めがけて真っ直ぐに走り出す。

 その構えは空手というよりは『抜刀』に近く、柚亜は深く低く身を屈めると、右手に宿る刀身を想像状の鞘の中を滑らせて首元に緋色の刃を振るう。

 【真紅血晶・椿抜き】

「学習しないな……」

  右手の籠手は埃を払うように折られ、しかしそれはブラフ。意識のそれた瞬間を狙い本命の第二の刃が管理者の脇腹に突き刺さる。

「やるね……面白いじゃん」 

 深々と刺さる左籠手を掴む。柚亜は失敗したと青ざめる。確かに自分は急所を目掛けて不意を突いた。正面から攻撃すればいくら早くても対応されるから。しかし彼女は対応が間に合わないと判断した瞬間起動をズラし、そして柚亜を捕えた。

 管理者は顔を引きつらせながら柚亜のことをじっと見つめる。そして何か納得したような態度で、

「そっか。君が唯駒くんの後輩ちゃんか。これは悪いことしたね」

「何で先輩のことを?」

「彼があなたと試合したがっていたの。ちょっと乱暴になるけどごめんね」

「え?ちょっと待っ……」

 「受け身は自分でとってね〜」

管理者は柚亜の籠手を折ると、腕を掴んだままハンマー投げのように振りかぶり力任せに屋上目掛けて放り投げた。

「さてと。あとは君だけかな」

 パンパンと手をはたき振り返る。幸真の右手には金属バッドと、一瞬の隙に柚亜から受け取った小さな血晶の矢。三人がかりでも手に負えない敵を一人で相手しなければならない。先ほど大量の電気を消耗したのだから、同じ技は二度と来ないと期待したいのだが、

「そうだ、私の能力ってさ、ありとあらゆるものを体内で電気エネルギーに変換できるのよね。太陽光も風も熱も衝撃も、だから今こうしている間でも充電されているわけ」

「なんだそれ。めちゃくちゃエコだな。原子力発電所問題解決するじゃん」

「最後に聞いてあげる。降参するなら今のうちだよ」

 冗談じゃない、と幸真は息を荒げて笑った。こんなに心躍る場面に出会えたことに感謝の念すら覚えた。勝ち負けなどこの際どうでもいい。一度でもいいから暴力の肯定される場所で人智を超えた強さに挑んでみたかった。

 幸真は手の平を斬りつけて大量の『酸血』を流す。

 あとは血晶を口の中に含んで準備は完了。

 合図はないまま管理者に飛びかかる。

 ベッタリと血のついた手は軽くいなされ、力任せに顎を砕かれた。

 せめて触れることができればと精一杯手を伸ばすが、無慈悲な電撃によって焼かれる。続けざまに綺麗に磨かれたローファーで顎を蹴り上げられ視界が昏くなり、意識が途絶える。

 しかし、幸真の口の中に入れた切り札(血晶)が砕け、口内をズタズタに切り裂く。濃厚な血の味と傷口を容赦無く刺激する酸味が広がり、強制的に意識を現実世界へと引き戻した。

 幸真はニヤリと笑い、口に含んだ大量の血と唾液を容赦無く吹きかける。

 管理者は血の一滴を残すことなく電撃を連発して防ぐ。

 その隙に幸真はボロボロの服を脱ぎ捨て、腰に刺していた無数の針を抜き、全力の投擲。

 血が噴水のように溢れ出す。

「はははっ!」

 思わず満面の笑みが溢れてくる。持ちうる全ての策を弄して挑むことの高揚感。失敗に失敗を繰り返し、それでもと命懸けの攻撃を仕掛ける。

 管理者は不愉快そうに地面をひと蹴り、軽快に空中で身をよじり回避する。

 しかしそれも想定済み……いや、回避されようが直撃していようが彼の行動に対して差はない。なぜなら、勝つことなどよりも、小さい頃から想像していた必殺技を実践したいだけだから。彼はバッドを拾い上げ、噴水のように湧き出る血を浴びせる。

 管理者の落下地点まで回り込み血だらけのバッドを握りしめる。

 降り注がれる一筋の稲妻。

 内包している水分から筋繊維までが乱雑に跳ね上がり、血管も焼き切れ、細胞という細胞が粉々に破壊される。さらに目の中の水分までが蒸発し、光を失う。

 火傷、痙攣、失明、全身の内出血、立つことさえままならないダメージ。

 ——————だからどうした?

 バッドのグリップに力が増す。

 いつか見た、伝説の勇者が抜く聖剣の構えを模倣して。

 十七年間抑え続けてきた狂気の全てを乗せて全力で振り上げる。


 ——————ああ、満足だ。何一つ持て余すことなく、俺は……生きたぞ。


 拘束だらけの彼の人生はこの日のためにあったのだろう。

管理者の拳はバッドごとへし曲げて、幸真の顔面を砕く。

 それでも彼は、最後まで笑っていた。


■ ■ ■


 いつ気がついたのかと聞かれれば、最初からかもしれないし、今確信を持ったとも言える。

 目覚めた時に頭の中を埋め尽くしたのは、途方もない喪失感と、一つの違和感(希望)だった。

 生き残ってしまった。

 死にそびれてしまった。

 死ねなかった。

 そんな自己嫌悪のノイズの中に、『どうして生き残れた?』という一つの疑問、そこから連鎖的に違和感の正体に迫った。

火事によって手がかりも証拠になりそうなものも全て燃え尽きて事故と判断された。実際にあの場所からは何も見つからず、警察からは二人の遺骨が詰まった骨壷を渡されて終わった。

意味がわからなかった。

人通りの多い夕方の住宅街で、誰にも気づかれずに火事を起こす。

 優秀な日本の消防隊が現地に到着する前に、家一軒が完全に燃え尽きるほどの火力をあの短時間で出す?有りえないだろ。仮にそれができたとして、その大惨事の中で俺が生き残れるはずがない。

 俺は継実のように優秀ではない。ちっぽけな想像力を頼りに少し立ち回りが上手いだけの凡人だ。だから現実的であろうがなかろうが、俺が想像できない事態が起きていると考える方がずっと自然だろ。

 最悪の可能性を想定した。どうか外れてくれと願いながら、そして俺は嫌な予感ほど外すことはなかった。

 だからわかる。

 確実に羽衣の首を焼き切るつもりで打った一撃でも、まだ足りない、と。

 体ごと吹っ飛ばす爆発の衝撃波で全身コンクリートの壁に叩きつけられた。寝起きで凝り固まった身体にはかなり辛い。

 黒い煙を手で振り払い、見るからに不機嫌そうな羽衣が顔を出す。

「はぁ、ちょっと随分な挨拶なんじゃないの?いきなり我が子に手を出すとかどうかしているよ、パパ」

 自分でもどうかしていると思うよ。真っ先に我が子を疑うなんて。でも、そうとしか考えられなかった。

「はぁ、せっかく絶望したパパの顔がまた見れると思ったんだけどな。まあいいや、これで思う存分遊べるもんね」

 その表情にはかつての羽衣の面影は一切なかった。剥き出しの悪意は下劣に頬を歪め、悪辣な笑顔を作り出す。それはあの日、眩む視界の中で見せたものと何一つ変わらない悪魔の微笑だ。

 ——————このクソガキ……

 目に力が入る。無意識に唇を噛んだせいか、ほんのり血の味がした。

 羽衣は嬉々として能力を行使する。掌から無数の火の玉を出現させた。

「器用だな。ジャグリングかよ」

「ふふふ、いっぱい練習したからね。存分に堪能してよ、パパ」

 次々に俺めがけて火の玉を投げつける。二、三発避けたところでその後全弾命中する未来が目に見えていた。だから、その場で全て受け止めた。

「すごい、本当に熱くないんだ」

 そんなわけないだろ、バカが。普通に熱いし、なんならガンガンと叩き込まれる豪速球だけでめちゃくちゃ痛い。けれど、これ以上調子に乗られるのも癪だから平気なふりを装おう。

 今のである程度わかったが、羽衣の能力は火や爆発を操るもの。そのため熱への耐性もあるのだろう。それに対して俺は人並み程度の脆さ。相性が悪すぎて笑いさえ込み上げてくる。

「じゃあ、次はどうしようかな〜」

 まるでゲーム感覚だ。再び無数の火の玉を出現させると、楽しそう一つの巨大な火球へとこねくりまわす。

「おいおい、そんなに決着を急がなくていいんじゃねーのか」 

 流石にアレをくらう覚悟はない。その場にあった椅子を投げ飛ばし、巨大な火球にぶつける。

「あーーーーーー!ねえちょっと信じられない!」

「いや、もっと気になることとかないのか。もう二度と聞けなくなるんだぞ」 

「えー、それもそっか。そういえば、どうして犯人が私ってわかったの?」

「お前あの服、誰からもらったんだよ」 

「え……?」 

 しばらくの沈黙。なんのことだろうかと唸った後、自分の服が家を出てきた時と変わっていたことを理解すると、すっきりした顔で、

「あ!そういうことかなるほどね。すごいね!全然気づかなかった」

 ポンと手を打ち勝手に納得する。本当はその先の情報を聞き出したかったが、失敗したようだ。

「じゃあ、うん。すっきりしたから、死んでいいよ」

 そう言って腕を一振りした瞬間、あたり一帯火の海と化した。それはあの日の再現と言いたげで、管理者となった羽衣の底意地の悪さが窺える。

「一応聞いておくけど、俺に火が効くと?」

「え、うん。だってパパ、強くなった気になっているだけじゃん」

 キョトンとした顔で真実を言い当てる。なんだ。全部見抜いていたわけか。

 中身が変わり果てても母親譲りの聡明さはそのまま、か。

「それよりパパ、見て。これ凄いでしょ」

 両手に紅蓮の焔を纏い無邪気に笑いかける。そして再び俺の下へと駆け出した。

 羽衣が何をするつもりなのかは目に見えていた。だから今度はそれに応えようと思う。

「ねえパパ、あの日私悲しかったんだ。私やママのことなんか無視して逃げようとしたでしょ。あの時のパパ惨めで面白かったけど、でもやっぱりショックだったんだ。ねえ今度はどうするの?私のこと無視してまた逃げちゃう?ねえどうするの?」

 ガッチリと俺の首に手を回し逃さないようにと抱きしめる。

 羽衣の纏う炎はタバコなどとは比にならないほどの熱を持ち、首が、肩が、背中が、皮膚という皮膚がなんとか抗おうと水脹れを起こす。けれどそんな人間の防御本能さえも嘲笑うように、弾ける音を上げて水分が蒸発する。

 これまで火傷を負うたびに少しだけ強くなれた気がした。痛々しい傷を眺めるたび、いつか克服できるんじゃないか、なんて下らない妄想を膨らませた。そんな錯覚をこのクソガキはことごとく打ち砕いてくれる。

 そうだよ。俺はいつまでたっても弱いままだ。こんな世界になっても怖いから、向き合いたくないから、何もかも諦めて、空白だらけの毎日を気休めで埋め尽くした。でもな、だからこそな……

 ——————もう『火』は怖くなくなったよ。

 俺はそっと羽衣を抱きしめた。

「え?何して……」

「おいおい、恥ずかしがるなよ。お前から求めたことじゃないか」

「は?フザケンナ!早く死ねよ」 

「なあに、親子じゃないか。たまにはこうやって仲良くしたってバチは当たらねえよ」

 相性最悪。冷静に考えて勝ち目はない。

 でも、お前がこうやって油断してくれたから、お前ら管理者がクソだと信じたから、こうやって復讐を遂げられる。

 あらゆるものが炭化するほどに激しい炎、その熱を体内に蓄え、そして『放出』。

 いくら炎を操れて、耐性があっても、熱そのものが『無効』なわけではないんだろ?

 首元にわずかに残った火傷がその証拠だ。

「ねえ、ごめんて。本当に熱いの。ねえってば!離せよクソやろおおおお!」

 何か必死に訴えかけているが、正直もうまともに聞き取れねえよ。

 まあ、なんでもいいか、とさらに力を込める。

 いつ以来だろう。羽衣は甘えん坊だったから昔はしょっちゅうこうやって抱きしめていたっけな。小学校に上がってから恥ずかしいからって中々させてもらえなくて、少し寂しく思ったこともあったな。なんて今更どうでもいいことを思い出す。

「やだって、ねえ。やめてよ。苦しいよ。ねえパパ、やだよ、うああああああああん!」

 おいおい、そんな泣くなよ。

 お前は怒られる時いつもそうやって声を荒げて泣きじゃくるから、あまり叱れなかったんだよ。そのせいで逆に俺が継実から、甘やかすな、なんて怒られたんだからな。

 なんだか少し火力が弱まった気がする。それでも家庭用コンロ並には強いけどな。

 敵ながら少し可哀想に思えたから、蓄えた熱を全て注ぐ。

 あれだけ意味もなく暴れた羽衣の力は弱まり、ぐったりと彼女の体重が肩にのしかかる。火の海は次第に鎮火され、全身焼け焦げた半裸のおっさんだけがその場に残った。正直、なんでまだ生きているのか自分でもわからない。

 血管やら神経やらがむき出しになっているせいか、風が吹くだけで激痛が走る。たが、それ以上に……

 黒く焦げ落ちて転がる焼死体を眺めても、ずっと復讐の日を願った相手の最後を見届けても、心は晴れなかった。

 重い。喉元に鉛玉がつっかかっている気分だ。

 一呼吸するたびに鉛は気管支の奥へと沈んでいき、そのたび薄皮を一枚ずつめくられていくように刺激する。

 このまま過剰すぎる温もりの中で眠ってしまえば楽になれただろうに。

 全身に刻まれた羽衣の悲鳴がそれを許してはくれない。

気休めにポケットから奇跡的に残っていた、まだ吸えそうなタバコを加えて火をつけた。

 これまで吸ったタバコの味なんて覚えていない。気にしたこともない。だけど、

「まっず……」

 もう二度と吸う気にはなれなかった。

 灯した火は踏み潰して消した。

 心は相変わらず晴れない。

 晴れるわけがない。



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