第45話 過去編 最終回 殺生石 其之十二

 『獣狩り』と九尾の狐の戦いの幻影を見てから、私は一刻ほど経を唱えた。


 基本的には九尾の狐の邪気を小さくする為だが、自分の心を落ち着かせる為でもあった。

 心の準備も整い、弟子と私の気で作られた結界も程よい感じになった。


 私は、ゆっくりと金槌を構えた。


 周りにいる人夫達と弟子達から緊張感が伝播してきたが、私の緊張感の方が遥かに大きいため、祓いの心持が揺らぐことはなかった。

 気の充実した金槌は鏡のように輝き、闇を相殺する力が増した。

 岩を砕く為の道具は、鑿や楔ばかりではない。それらを打ち付ける槌でもできる。槌は物を削らずに、衝撃と振動そして破壊を与える。その衝撃と振動による破壊は、確実に九尾の狐に恐怖を植え付ける。あのお堂での祓いもそうであったが、精神的な傷はそう簡単には癒えない。九尾の狐が長い期間復活できないようにするには、私の気を殺生石に流し、この金槌で彼女の魂を砕き、その精神をズタズタにしなければならない。

 この方法で散らされた魂は、数百年の年月を経なければ、容易に復活などできない。

 しかも、今回は玉鋼による鋼鉄の槌だ。出雲の玉鋼は他の玉鋼よりも強くて質が高い上、杵築大社の神威も加わっているので、祓いの儀式に使うにはもってこいの槌だ。


 さあ、いざ祓いの時だ。


 この時代の責任は私が引き受ける。次の責任は、まだ見ぬ未来の誰かに託そう。

 私は、金槌を振り上げて殺生石に振り下ろした。

 ゴキっという鈍い音と共に、岩の上部が少しひしゃげた。この立派な岩を砕かなければならないのは残念至極だが、中には九尾の狐がいるのだ。そんなことは言っていられない。

 私は、二回、三回と金槌を振り下ろした。鈍い音がして、小さな石の粉が下に散る。

 これを数回続けると、殺生石の上部が少し丸みを帯びてきた。そして、打ち下ろす度、九尾の狐の怨声が聞こえてくるようだ。いや、彼女が何か声を発しているのは間違いない。

 それでも、私はそれに負けてはならない。まともに声を聞いては決心が鈍る。今回は決して何かを妥協してはいけない。

 私は無心で金槌を打った。

 岩の砕ける鈍い音に、悲鳴のような声が混ざってきた。それでも私は金槌を打った。

 かなりの重労働に汗が噴き出る。僧服はすでに湿り、汗が目に入って痛い。そんな私を励ますように、弟子達の経を唱える声が大きくなった。側から見ると、私が疲労困憊しているように見えるのかもしれない。

 まだまだ大丈夫なのだが、今は大丈夫だと伝える為の良い方法が思いつかない。

 結局、無心に金槌を打つ事にした。

 打つ。

 何度も打つ。

 気を入れる。

 そして打つ。

 何度もやっているうちに、手首の力を抜いてしならせることでより大きな力を入れられると分かった。しかも、この方法は力任せに叩くよりも威力が高い。このやり方を続けた成果か、殺生石の上部がかなり削れてきた。それでも、今日中には終わらないかもしれない。何しろ殺生石は思ったよりも大きく頑丈なのだ。

 打って打って打ちまくる。

 経を読みながら練った気を金槌と殺生石に送り込む。岩を砕く。そして岩にまた気を送り込む。その繰り返しだ。


 幾度も殺生石に金槌を振り下ろす源翁を、小三郎はじっと見ていた。

 あの大きさの岩だ。金槌ではとても割れそうにもないように感じる。あれをどれだけ続けるつもりだろうかと、少し不安になった。

「あれで岩をどうにかできると思うか?」

 と隣の人夫に聞いてみる。

「和尚様を信じましょうや。あれでどうにもならなければ、俺たちゃ近いうちに九尾の狐にやられちまいます。ですから、和尚を信じて待ちましょうや」

 部下にそう言われては「そうだな」と言うしかない。

 小三郎は頷きながら、源翁に視線を戻した。きっと勝算があると信じたい。


 ガキッゴキッ。


 あれから何度金槌を振り下ろしたのか、もう誰にも分からない。ただ、金属と岩がぶつかり合う音と経を唱える声だけが、延々と響いている。

 岩は、まだ上部が薄らと破壊されただけだ。しかし、少しずつだが破壊されている。

 源翁は殺生石へ金槌を振り下ろした。すると、ペリッという今までに聞いたことのない音がした。

 岩の上部の一部が剥がれ、二尺ほどの岩の欠片が地面に落下した。

 驚いた事に、その破片は金槌と結界を逃れるように、彼方へと飛んでいった。私は、破片が飛んでいくのを目では追ったが、その場を動かなかった。あれに気を取られて本命を討ち損なってはならない。

 そう言えば…と思い出す。

 おりんがお堂に行った時、九尾の狐が部下と話をしているのを聞いたと言っていた。お前は何処どこに行けと命令していたようだと、そうおりんは私に教えてくれた。

 あの時、九尾の狐は部下に逃避先を指示していたのかと今更になって気づいた。

 九尾の狐は部下の魂をも取り込んでいて、彼らを逃す機会を虎視眈々と伺っていたのだ。あの大きさの欠片であれば逃げたのは中位の妖だとは思うが、人間に害なす存在なのは間違いない。それでも、今は九尾の狐に集中しなければいけない。

 弟子達が心配そうな顔をしたので、それほど心配する必要はないと皆に目配せをした。その意を汲んでくれたようで、弟子達はまた経に集中した。


 私は淡々と金槌を振り下ろし続けた。


 どれだけ時間がかかろうとこれはやり遂げなければならない。

 ガンッゴンッ。

 ゴゴッゲシッ。

 時折風が細かい砂のような岩片を飛ばしていく。その砂がキラキラと赤みを帯びてきた。

 私は一瞬周りを見た。白い大地が赤い光で包まれた。間も無く日没になるようだ。

 四人の弟子達の顔が引き締まった。ここからが彼らの仕事と言っていい。初めからこの祓いは確実に夜通しになると皆と話をしていたのだ。

 遂に陽が落ちた。

 冷たい風が吹き、この死んだ大地に怪異の匂いがしてきた。すぐに何かの動物の霊が襲いかかってきたが、これは円来が危なげなく退けた。ここまで積み上げた経験の成せる技だ。怪異たちは、自分達の上位がここにいる事が分かっている。これから執拗に儀式を邪魔してくるはずだ。

 そんなことを思っていると、またどこからか妖が飛来した。これは焉斎が祓う。


 長い夜になる。

 私は気合を入れ、殺生石に金槌を打ち込んだ。


 辺りが暗くなってきたので、人夫達が手分けして篝火を立ててくれた。

 少しずつだが岩は薄くなっている。殺生石は元の大きさからすると五分の一ほど小さくなっているように見える。

 まだまだ。削って削って削って、そして削っていく。

 結界の外には小さな怪異がひっきりなしにやってくる。それらは弟子達が見事に祓ってくれていた。四人が四人とも的確に祓う様は、見事と言うしかない。

 これなら私も安心して殺生石に集中できるというものだ。

 そうやって金槌を打ち込んでいると、今度は四尺ほどの大きさの欠片が殺生石から落ちた。これは大きい。かなりの妖に違いない。慌てて地面に落ちた欠片を叩こうとした瞬間、欠片は私を嘲笑うかのように何処かに飛んでいった。

 あれを野放しにせざるを得ないのは痛恨の極みだが、後追いで何とかするしかないだろう。

 気を取り直して、私は金槌を振った。

 深夜になろうかという頃、またも殺生石から欠片が落ちた。これもかなり大きなもので、今度は五尺はあるように見える。これも地面に落下した瞬間、何処かに飛んでいってしまった。

 九尾の狐がどれだけの妖を守っていたのかは分からないが、次に九尾の狐が復活した際には、今飛んでいった妖とも戦わなくてはならないかもしれない。今回は何かと未来に迷惑をかけてしまったと反省することが多い。

 その後もいくつかの欠片が何処かへと飛んでいったが、私は殺生石に集中し、それらを見送った。

 そして、夜も明けようかという頃になると、岩は半分くらいの大きさになっていた。


 これだけ硬い岩を砕き続けても、全く壊れないこの金槌の頑丈さには敬服する。


 ほんのり空が赤くなってきたものの辺りはまだ暗いので、怪異はひっきりなしにやってくる。その都度弟子達が祓ってくれているが、彼らも疲労が色濃い。体力的にも精神的にも厳しいと思うが、あと少し踏ん張って欲しい。

 驚くのは人夫達だ。

 彼らは私たちの儀式から目を離さず、同じ場所でじっとしている。きっと小三郎に何かあったら俺たちが行くぞと言われているのだろう。その心意気は受け取りたい。

 ゴンッガンッ!

 私も一心不乱に金槌を打ちづつける。

 殺生石の黒い邪気も弱ってきているようには感じる。それでも、未だ巷で大妖怪と称される怪異とは比較できないほどの気を要しているのだから恐ろしい。九尾の狐の底なしの妖力には感服せざるを得ない。だからこそ、今頑張って祓い切らなければならないと思う。

 とうとう、東の空が明るくなってくるのを感じた。

 それと同時に、襲いくる妖たちの力も急激に弱まっていく。ここまで耐えてくれた弟子達には感謝しなければならない。


 私は、兎に角打つことに集中し、殺生石を金槌で叩いた。そしてまた叩く。


 空を赤くしながら、夜を終わらせる朝日が地面を照らした。

 妖の大多数を占める小さな怪異は太陽の光を浴びて姿を消したが、中位の怪異は光を浴びても尚襲ってきた。弟子達は最後の仕事だとばかりに、残りの妖たちに集中した。

 しばらくすると、太陽は完全に昇り、白い大地は光に包まれた。

 こうなると余程の怪異でなければ形を保つことすらできない。この時点で怪異はパッタリと消えた。

 弟子達は、最後の最後まで気を抜く事なく怪異から私を守りきってくれた。


 怪異も出なくなったので、私は安心して殺生石を砕くのに集中した。

 ガキッゴキッという石を砕く音だけが、延々と木霊し続ける。

 見れば、殺生石もかなり目減りし、最初の半分以下に縮まっている。神聖な金槌でこれだけすり潰された九尾の狐も相当参っているはずだ。

 ところが、困ったことに私も負けず劣らず所々ガタがきている。

 ずっと中腰なので腰が激しく痛むし、真っ赤になった手の平は皮が所々剥けている。経を唱え続けた喉も痛い。しかし、相手を苦しめている以上、自分も痛みを伴わなければ正当な祓いとは言えない。

 私は、金槌をさらに強く握って殺生石に打ちつけた。

 もうここからは気合いだ。気合いしかない。

 精神論など信じない人間には分からないかもしれないが、極限に追い込まれると逆に力が出るものだ。私はわざと経を読む声をさらに大きくした。こうなると、石を打つ力も大きくなるから不思議なものだ。


 ガガッ!!バキッ!!


 突如激しくなった金槌の音に焉斎は驚いた。思わず目を大きくして、源翁をまじまじと見ると、大きな音に比例するように源翁の動きにキレが出ている。ここにきて力強さが増した事が信じられない。

 源翁ほど精神的強さを持った人間を他にいない。そして、九尾の狐は並の僧では祓えないという源翁の話の本当の意味を、焉斎は理解できた気がした。

 経を読み、真理を悟り、徳を積むだけでは駄目なのだ。

 一本通った芯の強さと、怪異に対する理解。一つに縛られる事なく様々な知見を取り入れ、それを具現化する力。それらが全て組み合わさってようやく本物の怪異に立ち向かえるのだ。

 いや、自分がよく分かっていなかっただけで、常に大和尚様はそう言っていた。

 この精神力の強さに辿り着くまでの道のりは遠い。果てしなく遠い。しかし、そこを目指さなくてはいけない。それが分かっただけでも、今回付いてきた意味があったというものだと、焉斎は源翁を見ながらそう思った。


 時間は、とうとうお昼を過ぎた。


 殺生石の大きさは、初めの大きさの三分の一程になっている。

 もうこの岩の中に九尾の狐の邪気はほとんど感じない。すでに祓われていると言っていい程だ。しかし、ここで油断してはいけない。完全にやり切らなければ、元の木阿弥になる。

 私は、「必ずや祓う」その一心で力強く金槌を振り続けた。

 弟子達も私を応援するように必死に経を唱えているし、人夫達も少し離れたところでずっと見守ってくれている。

 皆の頑張りに応える為にも、私は金槌を振り続けた。

 そして、大国主命の神威を受けた金槌は未だ欠ける様子もない。


 私はひたすらに叩き続けた。


 さすがに掌が擦り切れて痛みも酷くなってきた。叩く力も若干落ちてきたようにも感じる。

 それでも金槌を振り続けた。

 気がつけば、とうとう、日が一巡してまた陽が落ちようかという時間になってきた。

 私の手も厳しいが、焉斎たち、小三郎たちもそろそろ限界に近い。このまま夜になれば、昨日のように邪を祓う力は残っていないのは明らかだ。

 殺生石は、元の大きさの五分の一以下になっている。金槌だけで岩をここまで小さく出来た事に自分でも驚く。

 金槌を打ちながら、何度やったか分からない九尾の狐の邪気を感じてみる。

 ん?と思う。

 どんなに感覚を鋭敏にしても、殺生石の中に九尾の狐の邪気を全く感じないのだ。しかし、ここは慎重にならなくてはならない。祓いの作業は猜疑心こそが最も必要なのだ。そして、今、この時代に九尾の狐の魂は微塵も残してはいけない。

 さらに殺生石を砕きながら、私は何度も何度も九尾の狐の気を確かめた。

 どれだけ何度確かめても、私には殺生石の中には九尾の狐を感じない。ならばと、昼頃はまだ周辺に漂っていた九尾の狐の気を探ってみる。下に転がっている白い石、白い土、そして宙空に漂う気を拾っていく。どれほど慎重に調べてみても、この土地のどこにも九尾の狐の邪気を完全に感じない。そう。完全に感じないのだ。


 ああ、やり遂げたのだと、私は悟った。


 それでも、最後にもう一度だけと、手の皮が破けて血まみれになった金槌で殺生石を叩きながら、慎重に最終確認をした。やはり何も感じない。

 ここまで長かったと素直に思った。九尾の狐はここに祓われたのだ。

 私は、金槌を打つのを止め、ゆっくりと殺生石に手を併せた。

 すると、その瞬間だった。殺生石が大きく三つに割れ、そのうち二つが何処かへと飛んでいった。

 正直、やられたと思った。九尾の狐は、最後の最後に大物を飛ばそうとこの瞬間を狙っていたのだ。

 最後の二つの石の大きさから考えるに、かなりの怪異であるのは間違いない。九尾の狐ほどではないにせよ、あれは祓うのには骨が折れるはずだ。

 それでも本体の九尾の狐を完全に祓えたのは大きい。

 自然と弟子達と人夫達の視線が私に集まった。

 私は経を唱えるのを止め、皆の方を振り返って深々と頭を下げた。皆も同じように私に頭を下げた。そして、顔を上げた瞬間、喜びを爆発させた。

「やったー!!」「終わったー!!」「っしゃー!!飯だ!!」などなど、皆が皆、全身で喜びを表しながら、好き勝手叫んだ。

 焉斎が駆け寄り、「大和尚様。お疲れ様でした」と血で真っ赤になった金槌を受け取ってくれた。

 改めて手を見ると、皮という皮が剥け、掌と甲、僧服にまで乾いた血がこびり付いている。

 私は結界を出ると、近くの石に腰掛けた。そして、少し考えた。

 九尾の狐は決して消滅はしない。ここに散った魂は、長い年月をかけて再び集積して復活する。しかし、再び姿を現すまでは相当の年月がかかるはずだ。その事実を後世に知らせる為にも、九尾の狐が復活した事を然るべき人間に知らせる為にもここに殺生石の残りを残し置くのが適当だろう。


 これがある限り、九尾の狐の伝説は残り、後世の人々にも語り継がれていくはずだ。


 そう決めると、最後の力を振り絞って立ち上がり、私は殺生石と向かい合った。そして、九尾の狐の鎮魂を祈った。

 「白き魂よ。しばしの間眠られよ」

 私は心の中でそう祈願した。

 すると、驚いたことに米の炊ける良い匂いが私の鼻に入ってきた。よく見れば、疲労困憊で突っ伏してしまっている弟子の代わりに人夫達が食事の準備を始めてくれていた。

 申し訳ないが今回だけは人夫達に甘えさせてもらおう。弟子達は倒れてピクリとも動けないのだ。


 やれやれと思いながら、再び近くの石に腰を下ろすと、一瞬、周りから音が消えた。そして、私は今までいた場所とは違う、地面以外何もない空間に立っていた。


 音の消えた世界は、真っ暗で光もないのに何故か周りの様子は見えた。地面だけで何もない空間の目の前に、一匹の巨大な黒い狐が立っている。私の数倍の大きさの黒狐は、その身体の倍はあろうかという巨大な尻尾を揺らしながら、落ち着いた優雅さを漂わせている。

 この巨大な狐が何者なのか想像はつく。

 しかし、私の予想違いである場合もある。勝手に白が悪で黒が正義と思っていただけで、そのどちらでもない可能性もあるのだ。はっきりとしているのは、最早、疲労した今の自分では何をやっても勝ち目はないという事だ。

 そんな私の考えを読み取ったのか、黒狐は異国の服に身を包んだ若い女性の姿になった。ただ、黒光りする立派な尻尾だけは隠せず、彼女の頭の上で静かに揺れている。きっと玉藻前もこのような優美な女性であった事でであろう。

「これで心配ありませんか?」

「もとより心配はありません」

 と私は何とか表情を崩さずに嘯いたが、女性は手で口を隠してクスッと笑った。

 食えない奴だと思っていると、女性は佇まいを正して話し始めた。

「まずは聞いてください。

 私はこの石の霊です。恥ずかしい事ですが、長年積み重ねてきた悪行の為に、野狐の身となり恐ろしい妖術を使うことで、人々を苦しめ世の中を乱すようになりました。私を救ってくれる御方に出会えたので、仏様の尊い戒法を御授け戴き、仏様やその御弟子たちの末席に名を連ねさせていただきたいのです」

 などと言う。

 彼女は殺生石の霊ではなく、私の持つ黒い魂の入った石像の霊なのは間違いない。ただ、元は同じ九尾の狐なので、そう言ってくれているのだ。

 なかなかにできた狐だと思う。

 要するに、善なる九尾の狐としてこれで手打ちにしようと言ってくれているのだ。總持寺への報告はこれでいくことにした。殺生石に戒法を授け、この石に憑いた霊を祓ったことにすれば、曹洞宗に限っての話にはなるが、この善霊がいる事が語り継がれる。

 世の中には善霊も悪霊もいて人間と様々に関わり合うが、なかなか話として人の知るところとはならない。今回に限っては、語り継がれる事こそが大事だ。何も語られなくなれば、数百年に渡ってこの地に存在し続ける危機は、誰にも受け継がれない。

「悠久の時を経て、後の世に憂いがあった時、仏の教えを遵守していただきたい」

 女性は、「うむ。承知した」と言うと巨大な黒狐に戻った。

 雅というしかない巨大な尻尾を何回か揺らすと、黒狐は身を翻して何処かへと飛んでいった。


 気がつくと、私は石に座っていた。


 黒い狐が本当に善なる者で良かったと、私は思わず長い息を吐いた。そして、九尾の狐の魂を二分するという判断は間違っていなかったと思う事にした。

 辺りはもう暗くなっていた。冷えた風が頬を打つ。目の前の真っ白な地面には、形を小さくした殺生石と呼ばれた岩が横たわっている。ここまで小さくできたことが自分でも信じられない。

 よし、と思い腰を上げ、弟子たちを起こしつつ、坂を下って人夫達の元へと向かった。

 私たちは無事に未来への一歩を踏み出すことができた。


 私に力を貸してくれた全てに感謝をしなくてはいけない。


 九尾の狐を祓ったという報は、すぐさま朝廷へと届けられた。有重の話によれば、鎌倉公と時の天皇は小躍りして喜んだという。そのおかげか、陰陽寮の予算が少し増えたとか増えなかったとか。

 後年、この話は様々な噂で尾鰭が付いて、世間には概ねこのような話が伝わった。

 二百年前の戦いで朝廷に敗れた九尾の狐は、敗れた那須野の地で殺生石という岩に姿を変え、毒を吐いて人々を苦しめた。そこで、様々な僧が殺生石を祓いに向かったが、結局、祓うことは叶わなかった。業を煮やした朝廷が、能登の總持寺に殺生石を祓うよう命じ、まずは微宗令和尚が向かったが結局祓えずに終わったので、源翁心昭和尚が殺生石を鎮めに向かった。源翁は金槌を使って見事殺生石を打ち砕いた。

 この噂は瞬く間に全国に広がり、金槌のことを『げんのう』と呼ぶ風習さえできた。やはり金槌を使ったと言う事例は、当時の人々にとっても衝撃だったようだ。

 そして、今でも金槌のことを『源翁』若しくは『玄能』と呼ぶ。

 その後、源翁は精力的に曹洞宗を各地に広め、多くの寺院を作った。


 その旅の中で、源翁は、朝廷の安倍有重と共に、九尾の狐が再び現れた時にどうすべきかを熱心に研究したと言う。


 そして、西暦2022年の三月。那須の地で殺生石が割れた。

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プロジェクト九尾 源翁心昭編 梅木百草 @uniyagi

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