第32話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其十一

 源翁は相手の出方を伺いながら、いつでも攻撃を繰り出せるようにした。


 すると、形而下の魂から黒い波動が滲み出てきた。

 ゆっくりと発生した波動は、突然その速さを増して私を包み込んだ。その瞬間、肌に違和感を感じた。肌が擦られているような痺れているような感じで、非常に気色悪い。おまけに波動に実態があるかのように私の身体に絡みついてくる。私をこの黒い気で雁字搦めにしたいのかもしれないが、そう安易と思い通りにはさせない。


 私は丹田に溜めていた気を皮下に流し、身体を這う黒い波動の感触を一気に消し去った。


 やるねえと言う声がどこからともなく聞こえた。

 これはほんのお遊びに過ぎない。私は次の攻撃に備えた。どこから何をしてくるのかは最早目では分からない。周りが暗すぎるのだ。形而下の魂が光を発さなくなったのもあるが、祭壇の炎もいつの間にか消え、辺りは完全な闇だ。

 嗚呼太陽が見たいと思わず口に出しそうになるが、それも含めて向こうの戦略なので受け入れざるを得ない。僅かでも光があれば違うのだが、真の暗闇においては視覚は無意味だ。何でもそうだが、突き詰められたものの効果は絶大だ。完全なる闇は、暗さを突き詰めた結果だ。これは立派な武器なのだと、今更ながら思えた。


 先手を取られた感はあるが、やられっぱなしではいけないと、源翁も動いた。


 左手に巻いた数珠を突き上げ、右手に袋から出したお札を数枚握る。

 指で手印を形作れなくはなったが、そこはもう割り切りだ。この戦いは人類の生き残りをかけた戦いなのだ。定石に拘ったところで勝てる見込みが高くなることはない。勿論、九尾の狐の力が桁違いすぎた為、丹田で練り上げた気とお札の術式の複合型で戦うしかないという事情もある。有体に言えば、魂の状態ですら、とても人間の手には負えないというのが正直な感想なのだ。

 先日の隼の怪異や以前祓った越後の鬼も同じだが、怪異の持つ力が人間の手に負えなくなってくると、正面から戦っても勝機はなく、臨機応変に敵の出方を見ながら戦う以外選択肢がなくなるのだ。


 そんな中、私はまず目を瞑った。


 決して、諦めた訳ではない。視覚以外の感覚を研ぎ澄ます為だ。

 神経感度の上昇で、自分の周りで様々な力が動いているのが肌で分かる。右手のお札から強烈な呪力が滲み出て渦巻いているのも分かるし、左手の数珠が私の気に共鳴しているのも分かる。触覚が鋭敏になった事で、お堂の中の空気が殆ど対流していない事も分かった。あの死臭のような匂いが、やけにキツく感じるのは空気に動きがないからだろう。

 そして、九尾の狐に気づかれないよう、源翁は右掌に極小の気を集めた。

 掌に溜まった微量の気を、随時お札に注入していく。そうやって少しずつお札の効き目を強くしていく。切り札となる大技は、こうして少しずつ創るもので、いきなり発動できるものではない。


 そんな中、私の首筋の肌が、極微量の小さな風の動きを捉えた。


 形而下の魂の動きだと断定はできないが、祭壇付近から何かが動いた事は間違いない。お堂全体に張り巡らせている気の探知網より、自分の肌の方が早く風を察知できたのは驚きだが、それだけ集中できているという事の裏返しだと思う。

 ただ、祭壇付近で何が動き、それが今何処にいるのかは正確には分からない。

 その物を覚知するにはあまりに風の動きが微量すぎたからだ。気の探査網にもかからない為、動いた何かは想像以上に質量のない物なのだろう。

 さて、どこだ?と声には出さず頭の中で言う。

 源翁は、無駄に動かず、更に感覚を研ぎ澄まし、お堂の中に動きがあるのを待った。虫の動き一つ逃すつもりはない。

 私は地蔵のように同じ姿勢で固まった。こうなるともうこの場所からは動けない。無駄に動くと感覚が狂うからだ。しかし、どれだけ集中しても風は感じない。形而下の魂は完全に動きを止めてしまったようだ。何か企んでいるのは明らかだが、それを実行に移してこない。いや、こちらが焦れるまで待っているのかもしれない。


 落ち着いて待つのだと、自分に言い聞かせる。


 この闇の世界は、人間の精神を少しずつ蝕んでいく。勝手に神経がすり減っていくのだ。闇というものはそれだけ心に関与するものなのだ。

 一秒一秒が驚くほど長い。

 それでも焦ってはいけない。普段からしている問答と同じように、余計な事は考えず、深く思考し、そして、対処するのだ。源翁は姿勢を崩さず待つ。

 じっと待つが、形而下の魂は動かない。

 私があれこれと考えているのを楽しんでいるのだろうか?いや、お堂に充満している黒い気からは、今や殺意しか感じられない。だから楽しんでいるという事はない。仕掛ける機会を虎視眈々と狙っているのだろう。まあ、そんな事を考える事自体が九尾の狐の術中にはまっていると思えなくもないが、この状況で何も考えるなというのは不可能だ。


 暗い、そして時間の感覚がなくなっていく。


 お堂の中に光は全くないので、目が慣れる事もない。先程と同じように、自分の身体が闇に溶けていくような感覚に陥る。もう自分自身の身体の存在を感じられなくなっている。真の闇は、言い知れない不安を感じさせ、人間を奈落の底に突き落とそうとする。なんと恐ろしい舞台装置であろうか。


 突然のことだった。


 油断していた訳ではないし、集中もしていた。よしんば返し技すら狙ってもいた。しかし、それは全て無に帰した。

 お前は何処にいたのか?と理解に苦しむが、もう遅い。私の倍はあろうかという巨大な闇が、一瞬にして私に覆い被さったのだ。あまりに唐突な出来事だったので、私は何もできず闇の帷に覆われるしかなかった。感覚的には更に暗い闇に覆われたように感じる。闇の中の闇と言えるこの中においては、光はもう絶望的だ。

 今にして思えば、私があの風を感じた時、九尾の狐はごく薄く小さな闇の衣を、私の頭の上に広げていたのだ。そして、私が九尾の狐の行動を警戒している時間を使って、悠々とその闇の衣を大きくしていったのだ。あとはそのまま私を上から包むだけだ。

 闇を使った見事な作戦としか言いようがない。素直にやられたと思う。

 それでも、私は勝負を捨てるつもりはない。人間というものは、可能性がある限り抗い続ける宿痾がある。その執念とも言うべき宿痾が運命の扉を左右することすらある。それは、過去の戦争、政争、偉人伝を見てみても枚挙にいとまがない。


 クツクツというあの笑い声が薄く聞こえた。 


 あの腹の立つ馬鹿にした笑いともう諦めろという声がないまぜになって、私の心に山彦のように響く。気づけばもうそれ以外の音が聞こえない。闇に全てを遮断され、現世から黄泉の世界へと行ってしまったような感覚だ。身体の感覚も感じられないので、もしかすると私も魂だけの存在になってしまったのかもしれない。

 そうなると、考えなければならない事が増える。

 そもそも人間も魂のまま戦えるのであろうか?そして、魂同士の戦いとはどういうものなのだろうか?

 肉体が消滅した時、その肉体に宿っていた魂というものがあるとして、それはこの世に存在するものなのだろうか?自分に肉体があって他人がそれを認識できるのであれば、私の存在というのものは証明されるのだが、肉体がなくなり、魂だけの存在になった時、肉体を持つ人間はそれを覚知できない。しかし、その魂に自我があったとするならば、その魂は存在することになるのだろうか?

 肉体を持つ人間には認識できない世界。

 その世界でのみ存在する自我。その世界がこのように闇に包まれた何も感じない世界だとすれば、それはもう自分はそこに存在したいとは思わないかもしれない。ただ、ずっとそこで問答しても良いとなれば逆も然りだが。

 思わずそんな事を思ってしまったのは、やはり自分にまだ身体があるのか不安になったからだろう。


 しかし、それもまた違ったのだと、すぐに私は思い知らされた。


 闇の衣が私の肌に触れたのだ。まだ私に身体があったのだと認識できたが、その身体に激痛が走った。酸に溶かされるようなジュッという音がして、腕や足が焼けるような感覚があった。いや、実際に溶けているのかもしれない。

 あの闇の衣には、身体を溶かす何かが付けられているのかもしれない。

 私は、闇の衣を剥ぎ取ろうと、再び自分の身体に白い気を流した。しかし、最初のものと違い、今回の闇の衣は桁違いに分厚く、しかも重い。どれだけ身体中に気を流しても全く剥がせなかった。

 手でも剥がそうとしてみたが、全くの無意味で、闇の衣は、私の身体に完全に張り付いてしまったようだ。

 自分の肉の焼ける匂いとあの死臭めいた匂いが鼻をついたが、身体が溶かされる壮絶な痛みが勝り、嗅覚の不快などもう気にもならない。全身が焼け爛れていくのを感じる。火事で逃げきれなくなるとこうなるのかと冷静に思う自分もいるが、何とかしなければいけないと慌てる自分もいる。

 いや、いつ何時も冷静さを欠いてはいけない。そう自分に言い聞かせる。

 どんな状況においても、冷静に考えられなくなれば終わりだ。

 毎日お釈迦様に祈り、禅問答によって鍛える我が宗派の修行は厳しく、その効果は他宗派を圧倒してる。そして、我が精神も生半可ではなく、この意思の硬さと集中力は誰にも負けないと、私は自負している。

 私は苦痛に抗い、最後の最後まで勝利への道筋を考え抜くと決めた。 


 但し、ただ頭を働かすだけではまずいかもしれない。闇の衣が、容赦無く肉を溶かしながら全身を侵食しているのだ。


 そんな事を思う私を余所に、九尾の狐も手を緩めない。痛みとは、何も肉体だけに感じるものではなかったのだと、私は思い知らされた。


 闇に覆われ目を瞑っているというのに、九尾の狐は狐とも髑髏とも取れる顔のように見える悍ましい闇の塊を私に見せてきた。その顔のような悍ましい闇の塊は、微妙に形を変えながら私を威嚇してくる。音も聞こえないというのに髑髏の呻き声のような声まで聞こえる。この悍ましい黒き塊は、おそらくは恐怖の象徴なのだ。これを、私は心の目で見ているのか、無理やり見させられているのかは分からない。どちらにしても恐怖で心を塗りつけるこいつに屈してはいけない。


 しかし、予想よりも遙かに恐ろしい事が起こった。


 髑髏のような顔は、単純に私を脅すだけではなく、私の魂を噛んできたのだ。これがまたとんでもない痛みで、闇の衣に溶かされることによる身体的な痛みと、闇の塊に魂を噛み砕かれる精神的な痛みが交錯する。

「ぐう!!」

 源翁は、痛覚の限界値を超えた痛みに思わず声を上げてしまった。

 その声は心の悲鳴であったかもしれない。この二つの痛みはそれだけ衝撃的な痛さであった。


 この暗い空間で、私の聴覚と視覚を支配し、心の中までも侵食してくるのだから恐れ入る。


 負けを認めなよ。身体が溶けて魂だけになったら、この痛みが永遠に続くよ。と九尾の狐の声が聞こえた。しかし、私はそれを拒否した。何を喋った訳ではないが、私の判断は伝わったはずだ。断じて負けを認めるわけにはいかない。これでも私は人類代表なのだ。

 この痛みが永遠に続けば死ぬよりも辛い。しかし、それでも考えろと自分の心に命令した。

 脅すという事は、何か脅す理由があるのだ。その理由が勝利の糸口になるはずだと、私は必死に平静を保って考えた。

 ただ、もう考えられる時間も少ない。

 闇の衣に私の肉体を相当溶かされてしまったのだ。足などはかなり肉が削げてしまい、もう立っているのもきつい。気を失いかねない強烈な痛みが止め処なく全身を貫き、その痛みは常に再生産される。それだけでもきついのに、足の爪が剥がされ、何か細長い針のような物が手の指、足の指に突き刺さった。

 手足の指がまだあったのかと驚くと同時に、耐え難い痛みが更に加わった。手先、足先から血がどくどく流れるのを感じる。それに続いて、九尾の狐は、私の身体のあらゆる箇所に針を刺さしていく。

 とうとう私は目に何かが刺さったのを感じた。

 全身に刺さり続ける針の一つが、私の目に突き刺さったのだ。目は閉じ続けていたので闇は変わらないが、もう何かを見ることは敵わないのだと思うと辛いものがある。それでも、髑髏のような顔は見え、相変わらず私の魂を喰らっている。

 満身創痍を通り越し、肉体的には死に近い状況になってしまった。

 それでも何とか勝つのだと、私は心の目を先鋭化させた。


 諦めが悪いねえ…という声が聞こえた。そう。私は諦めが悪いのだ。


 心の中に突然私の姿が見えた。魂を喰らっていた髑髏のような闇の塊が、私の身体に気付いて方向転換すると、私の身体に噛みついた。噛まれた箇所から大量の血が吹き出した。もう私の身体の殆どが溶けて血だらけになり、元の姿は見る影もない。こうやって私の心をへし折ろうとしているのだ。現実でも、心の中でも九尾の狐は容赦ない。

 全ての神経を焼き切られたかのような激痛を我慢し、何とか意識を保っている中、黒い髑髏が、頑丈そうな歯をガチガチと鳴らして、ケタケタと笑った。

 何もできない源翁は、悔しがることしかできない。

 黒い髑髏は、笑いながらかろうじて立っている私の肩に喰らいついた。見れば、髑髏に食われた肩の肉は完全になくなっていた。もう身体を食らい尽くすつもりなのだろう。私の肩から感覚が消え失せ、痛みだけが残った。

 髑髏は顎から血を滴らせ、腕や足にも喰いつき、肉を食らい、身体中の血を噴き出させた。

 その間にも闇の衣は、実際の身体を容赦無く溶かしていく。

 心の中の私の身体は、頭を残し、残った部分がすべて喰われ、強烈な痛みが全身を貫いた。最後に残った私の頭は、血だらけで地面に転がっている。ケタケタと笑う闇の塊は、最後に残った頭に食らい付いた。

 鼻、耳が噛みちぎられ、くちゃくちゃと嫌な音が聞こえる。


 それでも私は、お釈迦様の加護は必ずあるはずと祈り続けた。薄くではあるが、まだ考える事もできている。


 普通の人間であれば、これだけの事をやられればもうまともな精神ではいられない。しかし、私はそれでも意識を残した。闇の塊は、笑うのをやめて苛立ち、もう食べるところなど殆ど無くなった私の魂に向かって咆哮を上げた。


 この一瞬を待っていた。


 私はあらゆる箇所を溶かされ、刺され、食われ、ほとんど骨だけになっている右手で、ありったけの気をお札に注入すると、咆哮中の闇の塊の口に突っ込んだ。予想通り、心に映っている闇の塊は目の前にいたようだ。

 闇の塊の口の中に何かが突っ込まれたのが見えた。

 すぐに、肉のほとんどが削がれた左手も持ち上げ、邪悪な闇の侵食にも耐えた水晶の数珠を顎の辺りに固定した。

 「いざ、闇を打ち砕かん」

 もう喉という気管が見当たらないのにどこから声を出したものか、私ははっきりと九尾の狐にそう言った。闇の塊は、九尾の狐に姿を変えた。その目が一瞬怒りに満ちたが、何をされたのかとたじろぐと、私の心の中からかき消えた。

 

 急速に痛みが消え、私は五感が戻ってくるのを感じた。

 急造の闇の衣が、頭の上から落ちてきたが、私は身体の中の気だけでそれを吹き飛ばした。

 焦った九尾の狐が、また同じことを繰り返そうとしたのだ。しかし、もう遅い。やはり私を脅したことには、深い意味があったのだと、私は確信した。


 あれだけ精神を痛めつけたのに、反撃した上、不敵に笑う源翁を見て、九尾の狐はゾッとした。


 こいつは本当に人間なのかと思う。それほど精神の強靭さが尋常ではない。

 しかも、そんな奴に何か変なお札を食わされたのだ。慌てて吐き出そうとした九尾の狐だったが、何か異様な味を出しながらお札が舌に張り付いて取れない。おまけにお札で気道が塞がれた。

 自分は魂の状態なのだ。そんな事が起こるはずがない。それは頭では分かっているのだが、何故かお札が舌から取れないし息ができない。

 やばい。苦しい!!

「なんだ?お前、何をした!!」

 焦った九尾の狐は、身体をジタバタ床に打ち付けながら源翁に叫んだ。源翁からはすぐに答えが返ってきた。正義の光と地獄の業火は紙一重。どちらに身を置くかの違いでしかない。源翁の低い声がそう言った。

 地獄の業火だと?それは私がお前に放つものだ。そう思った瞬間、九尾の狐は、実態のないはずの身体に炎を感じた。

「同じな訳がないだろう。ふざけるな…うぐううぅ」

 低いうめき声が自然と漏れた。

 魂の存在の私がなぜ、熱さを感じるのか?そして、燃えているように感じるのか?

 

 何故だ!!!


 九尾の狐は、源翁に向かって罵詈雑言を浴びせたかったが、お札に喉を締め付けられ、もう言葉を言えないばかりか窒息寸前だった。おまけに地獄の業火に包まれ、闇の衣ごと九尾の狐を燃やしていく。焦る。ここまで焦った事はない。『獣狩り』と戦った時でさえも、もっと余裕があった。

 自分には身体がないのだ。こんな事があるはずがない。

 そう思い、慌てて大風を起こすも、身を焦がす業火の前に風など無意味だった。ならばと、水を降らせ、氷で身を包んだが、それでも炎が消えることはなかった。何故消えない!!世の中の炎というものは、必ず消火できるはずだ。そう思うが、たたら場の炎も如何にと呪いたくなるような灼熱の火炎に毛も肌も焼かれていく。痛い、熱い。


「これが地獄の業火だと言うか…このクソ坊主!!」と叫ぶも火は消えない。


 さしもの九尾の狐も我慢できず、炎を消そうと全身全霊で暴れ、悶えた。炎は身体に纏う闇を燃やし続け、九尾の狐の身体を炭へと変えていった。もうこれ以上耐えきれないと思った九尾の狐は、背に腹は代えられず燃えている闇の衣を脱ぎ捨てて逃げようとした。


 ついに闇が祓われ、九尾の狐の魂が姿を現した。


「闇の衣を脱ぎ捨てたな」九尾の狐の心に源翁の冷たい声が突き刺さる。

 身が震えた。

 この坊主は何だというのか?『獣狩り』でもないのにこんなことができる人間がいるのか?と九尾の狐は、生身の人間に初めて恐怖した。

 すると、我が身を焼き続けた火炎が突然消えた。

 闇の衣は、火を避ける為脱ぎ捨ててしまった。今、九尾の狐の魂を守るものは何もない。哀れな剥き出しの魂は、祭壇の前でゆらゆらと浮かぶしかなかった。そこに、源翁の数珠から圧倒的な気が放たれた。もう混乱して動けないし、術も撃てない。九尾の狐は万策尽きたことを受け入れるしかなかった。


「何という屈辱。この屈辱お前の百代後までも忘れんぞ!!」


 呪詛の言葉を投げかるが、源翁は微動だにしなかった。

 源翁の気と何かの術式が、全身を包むと、九尾の狐は完全に抵抗できなくなった。

 九尾の狐は、『獣狩り』という天敵もいない中途半端な狭間の時代に、こんな坊主がいた事を呪った。この世の全ての呪いを源翁に履かせようとしたが、どういう訳か全く効かない。

 これでは妖怪の名折れだ。人間に呪いと恐怖を与えてこその妖怪だ。

 しかし、九尾の狐はどことなく理解した。勝負は、相手を馬鹿にしていた時点で決していたのだ。『獣狩り』の時もそうだった。あんな力を持った人間がいるとは思っていなかったのだ。

 九尾の狐はここで考えるのをやめた。この先、思考があると余計に腹が立つからだ。

 そして、次こそはどうあってもこの島国の人間を根絶やすと決めた。


 源翁は、九尾の狐の魂から意思が無くなったのを感じた。


 その数秒後、床に燃え尽きたお札が落ち、焼け焦げた灰が四方に飛んでいった。

 風も音も戻ってきた。全ては幻影だったのだ。だからこそ、九尾の狐は必要以上に私を脅し、屈するように迫ったのだ。逆に、その幻影に似せた術式で九尾の狐は屈した。


 あの完全なる闇は散った。私を覆い、精神を蝕み続けた闇の帳は消え去ったのだ。


 そして、私は目を開けた。

 暗いが、ここがあのお堂だと認識できた。私は目が潰されていなかった事に安堵した。

 そう言えば、九尾の狐は私を門番にすると言っていた。だから、身体を完全に潰す事を考えなかったのだ。

 お堂は普段の静けさを取り戻し、目の前には先程の祭壇がある。そして、その祭壇の前には白と黒に混ざった九尾の狐の魂が揺ら揺らと浮かんでいた。

 この魂にはもう意志が感じられない。

 源翁はそれを見ながら思った。一歩間違えれば自分の方が精神的に死んでいたところだった。そうなれば、私はもう現世には戻ってこられなかったし、九尾の狐はここを根城にして朝廷に対して復讐を始め、日本全土が壊滅的な状況になっていたであろう。

 私は、その魂をじっと見つめた。

 魂はゆらゆらと揺れている。

 その魂の下に薄らと光を感じた。ようやく、私は祭壇の横に灯りが自分の身体を照らしている事に気づいた。

 本当に五体満足で自分の世界に戻れたのか心配だったので、まじまじと自分の手を見てみた。かすり傷だらけで爪の剥がれた手が見える。ついでに足も見た。擦りきれた草鞋と自分の足が見えた。そしてそれらが自分の思い通りに動く。大丈夫。肉体はここにあると安心した。


 この戦いは魂同士の戦いであり、精神世界の戦いでもあった。

 

 現世と黄泉の世界の狭間の戦いは、実態を持たない魂の戦いで、最後まで冷静な方が勝ったのだと私には思えた。だから、愚直にそれを実践した私に勝利が転がってきたのだ。あの世界でほとんど溶けてしまった私の肉体は、現実世界では元のままであった。一方で、業火で心世界を焼き尽くされ、精神的に死に体となった九尾の狐の魂は、雲のように微妙に形を変えながら、ただ宙空を彷徨っている。最早、この魂には意識の欠片もない。

 精神世界の戦いは、げに恐ろしきものよと思わずにいはいられない。


 さて、感傷に浸るのはここまでだと、私は迷える魂を祓いにかかった。


 この魂はあくまでも九尾の狐の魂だ。常識で考えてはいけない。思わぬ反撃がないとも言えないので、事は慎重に運ばなければならない。ここで勝ったと勘違いして、自らも『奢り』で失敗する訳にはいかないのだ。

 私は陰陽道に倣って反閇(邪を封じる歩き方)で邪気を封じつつ、ゆっくりと徐々に九尾の魂へと近づいて行った。白と黒に混ざった魂は、未だ生気を失ったままゆらゆらと揺れている。それでも、近づけば近づくほど、人間の尺度では測りきれない巨大な力を感じた。これが超存在なのだと今更ながら恐ろしく思う。

 九尾の狐は、私の予想を遥かに上回る存在で、怪異というよりも神に近い存在だ。そんな大なるものを、これからどう祓ったものか…

 ふと、祭壇に祀られた御神体の岩が私の目に入った。この御神体からは、当然大いなる自然を感じる。そして、私は、この山の祭神には申し訳ないが少し協力してもらおうと決めた。

 腹が決まったので、私は袋から小さな石造の狐を出した。

 九尾の狐の魂まで三尺三寸に近づいたところで、ゆっくりと狐の石像を床に置く。


 私はそこで立ち止まり、目を瞑ると、背筋を伸ばし、一切の思考を停止して、己の魂をこめて経を唱え始めた。


「世尊妙相具 我今重門彼 仏子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住 或彼悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方 蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去 雲雷鼓掣電 降雹樹大雨 念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間 悲体戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 爾時 持地菩薩 即従座起 前白仏言 世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者 当知是人 功徳不少 仏説是普門品時 衆中八万四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心」


 心を込めて、私は一心に唱えた。


 九尾の狐の魂は、ゆらゆらと浮かんでいる。

 災いを遠ざける妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を唱え終わると、間髪入れずにまた初めから唱え直す。これを何度も繰り返す事で少しずつ魂を浄化していくのだ。

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