第26話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其五

 雨は上がったものの、体力的にこれ以上の登山は厳しいと判断した源翁は、本日の泊まり木を探しながらゆっくりと歩いた。全身びしょ濡れで、水分を含んだ服が重く、あちこちの傷もヒリヒリと痛む。

 目の前の開けた場所に、一本の大きな木が目に入った。

 ここならば、結界も張り易く、調理もしやすい。

 私は、石と薪木を集め、山菜も採ってきた。木の周りに結界を張り、火で暖をとりつつ調理にかかる。今日はまだ明るいので、調理もしやすい。

 ついでに雨に濡れた僧服と道具袋を木に吊るして乾かした。

 昨日と違い、近くに水場が無いので、焼いて食べられる山菜を中心に、干物を千切って焼いた。香ばしい匂いが立つと、近くに狐や狸といった獣が寄ってきた。遠巻きにこちらを見ているが、近づいてくることはない。若し近づいてくるとすれば、飢えた熊か狼だ。

 腹が膨れ、身体も温まったので、私は傷口に軟膏を塗って木の上へと上がった。

 いつものように怪異を警戒しつつ瞑想をする。

 これだけの怪我をしても思索だけはしっかりとできる。非常に有難いことで、これこそ最も菩薩に感謝しなければならないことだろう。この瞑想を通して、もう九尾の狐と何通りの戦いを繰り広げただろうか?この積み上げが最後に生きてくると信じたい。


 朝を告げる鳥が鳴いた。この山に入ってから七日目を迎えた事になる。


 昨日の雨が嘘のように晴れ、気温も暖かい。まだ暗い事もあり、小さな怪異が消えずに私の頭の上を飛んでいるが、中位の怪異は鳴りを潜め、一切姿を現わさない。狼や熊といった獣の存在も遠くには感じるが、私の前に現れてはこない。恐れをなしているというよりは、異様なほどの剥き出しの敵意が薄くなったように感じる。

 源翁は傷が開かないよう身体を気遣いながら、黙々と上を目指した。植生は完全にどの山にも見られるものに変わり、普通に山登りをしている感覚だ。

 いくつか考えられる事はあるが、一番濃厚なのは、私が中々死ななかったことで、九尾の狐がこれ以上の罠を考える事に飽きた。次に濃厚なのは、九尾の狐が私と純粋に戦いたくなったから。どちらにしても、やれる事をやって九尾の狐の元へと行かなければならない。

 安心材料もある。

 鉄砲水で負傷した左足は骨折はしていないようだ。未だに痛みは感じるものの歩行の妨げにはなっていないからだ。背中と左腕の裂傷の方が遥かに痛みが大きい。

 

 源翁は、九尾の狐の気を感じる方へと進む。山頂近くに感じる災厄の匂いもいよいよ濃くなってきた。


 九尾の狐はもう近い。

 その証拠に、私の肌にヒリヒリとした黒い気がまとわり付くようになった。それが思った以上の重圧を加えてくるので、私の心をも常に圧迫し、九尾の狐が持つ力をより大きく感じさせる。奴は、今までに会ったどの怪異とも比べ物にならない、まさに山のような———いや、もっと大きな存在で、そう、言うなれば空に煌めく星のように感じる。恐怖と威厳を併せ持った黒い気は、まさに伝説と言うに相応しい大きさだ。

 私はその気を、お釈迦様の威厳と皇帝の恐怖を組み合わせたようだと感ずる。

 そのような気を前にすると、私はなんと小さな存在なのかと思わなくもないが、そんな事を考えても事態は好転しない。例え相手が星のような力を持っていたとしても、私は自分のやれることをやるだけだ。その先に道はきっと開かれる。


 考えてみれば、九尾の狐は生物の頂点に立っている生き物だ。それが、格下の人間にやられたとあれば、その怒りは相当なものであったであろう。『獣狩り』に魂をバラバラにされたにも関わらず、こうして九尾の狐が復活できたのは、まさに怨霊の如き執念深さ故だ。私も、闇に飲まれないという前提で、その執念だけは見習わなければならない。


 二百年。永遠の命を持つ九尾の狐にしてみれば、長くもあり短くもあっただろう。


 『獣狩り』に討ち取られてから二百年もの間、九尾の狐は不完全な魂だけの存在だったはずだ。まともな思考も出来ず、延々と宙空を漂う日々だったに違いない。『獣狩り』に完全に滅されない為に、九尾の狐は、やられる直前に身体と魂を無理やり切り離したはずだ。そして、『獣狩り』にバレないよう魂をバラバラにした。当然その反動は大きく、不完全な魂は、考えるという行動を起こせない。だから、今の今まで我々の前に現れる事はなかった。

 それでも、復讐の一念で九尾の狐の魂は、少しずつ魂の欠片を集めて思考を取り戻した。それは、どんな怨霊よりも恐ろしく、人間にとって最悪な厄災と言える。


 何が正義で何が悪だと一概には決められない。双方に正義はあるし、自然の摂理に抗うこともできない。しかし自分が人間という生き物である以上は、九尾の狐という妖の正義を認める訳にはいかない。これを認めれば、ここまで連綿と築き上げてきた日本という国の歴史を終わらせることになるからだ。勿論、今の日本は、蝦夷と呼ばれる先住民を追い出して作られた。蝦夷と我々のどちらに正義があるかと言われれば、私も返答に困る。それでも我々は前に進んでここまできた。それを否定する事はできない。曖昧な正義ではあるが、人間と妖という区分で言えば、やられる立場の我々にも言い分はあるということだ。


 そんな事を考えていると、源翁は水の匂いを感じた。

 丁度水の補給をしたかった所なので、これ幸いと、水の匂いのする方へと足を早めた。昨日のような濁流は勘弁だが、喉を潤す水は大歓迎だ。

 こんもりとした木に囲まれた場所を通り過ぎると、竹林があり、その竹林の中に入ると突然視界が開けた。そこから水の流れる音がする。

 竹林の中は広場になっていた。そこに足を踏み入れた私は驚いた。

「ん?ここは…」

 と思わず独り言ちながら、ゆっくりとこの広場を見回した。空間は思った以上に広く、水の多い沢がある。そして、私は思った。


 間違いない。この竹林には人の手が入っている。


 新鮮な筍を抜いた跡、刃物で切られた竹の切り株もいくつかある。それに歩きやすくなるよう道が綺麗に踏み固められている。足跡は大きいのから小さいのまであり、ここに複数の人間が入っていることが見てとれた。

 まず、この山に人がいた事に純粋に驚いた。ここまで全く人の気配を感じなかったからだ。この霊気の強い山での暮らしは並大抵ではないはずだ。だから地元の人間も山へは入らないし、修験だけが例外だと思っていた。

 人間とはげに凄きもので、こんな霊圧の強い場所でも生活できるのかと源翁はつくづく感心した。

 竹林はうまく間引かれて、使い勝手の良いように整備されている。

 中央は開けていて、そのほぼ中央に崖から出る湧き水が小さな流れを作っていた。その流れ始めの場所には木枠で水が溜められ、水を汲みやすくなっており、普段の生活用水はここから貰っていることが分かる。

 私は山の恵みに感謝し、沢に祈った。

 祈りが終わり、湧水で手を清めたあと、早速水を手に汲ませてもらった。水は透明で美しく、非常に冷たくて心地よかった。顔を洗い、喉を潤す。ここの水は素直に美味しい水で、これほど美味しい水は中々飲めないと断言してもいい。以前訪問した浅間神社近くの水も美味しかったのを覚えているが、ここも負けず劣らずだ。思わずもう一度水を口に運ぶ。やはり美味しい。

 源翁は水筒に水を入れ、再び周りを観察した。

 竹林の横には緩やかな崖があり、その崖の脇には階段上の道のようなものが見てとれた。崖の上では、僅かながら煙が揺れているのが見えた。どうやらあそこに人がいる。

 私は、どんな人たちがここに居るのかと思いを巡らせた。

 間違いないのは、非常に意志の強い人たちだということだ。ここで普通に暮らせる人間はなかなかいない。霊圧があり、獣も多く、急な坂が多く自然も厳しい。この場所は山頂に近いため、下に降りるには不便すぎるので、盗賊の隠れ里という事はないだろう。

 よし。と源翁は心を決めた。

 崖の上へ上がろう。

 ここに入ってから七日間。服は汚れ、負った怪我もひどい。人に会うにしては服の見た目が悪すぎはしないかと少し気になる。このボロボロの格好では追い返されるかもしれないと思ったが、引き返すこともできないので、出たとこ勝負だ。

 最低限のことだけはしようと、草鞋の土を落とし、服を叩いてみたが、特段変わった感じはない。まあ、そうだよなと、誰に向けるともなく苦笑する。

 心ばかり身なりを整えた源翁は、早速煙のたつ崖へと向かった。全身が緑色になっていないだけマシだと思う。


 竹林横の崖の最下部から上にかけては、木枠で囲われた土の階段があった。この階段も多くの人が使っているようで、昨日の大雨にも関わらず、すでに土は石のように固かった。結構な段数を登り切ると、驚いた事にそこには鄙びた集落があった。平地とまではいかないが、ある程度平らな場所で、丸太と板を張り合わせた不恰好な家が十件ほど並んでいた。小さいが畑もあり、蕎麦や壬生菜のような野菜が見える。

 どの家もそこそこ大きさがあり、思ったよりも多人数がここに住んでいるのが分かる。

 源翁は手を合わせ、ここに導いてくれた土地神様に感謝の意を表した。

 そして、ゆっくりと集落に足を踏み入れた。

 すると、家が固まっているのとは逆側の斜面を、狩りから戻ってきたばかりと思われる青年が、滑るように降りて来るのが見えた。私よりもボロボロになった薄布に身を包んで、肩には木に括られた猪を乗っけている。

 彼の服装が今の私と似たり寄ったりなので、この格好を気にすることもないなと少し安心した。

 見れば、猪は立派な大きさで、昨日の土砂降りで地面も滑っただろうに、よく狩れるものだと感心する。

 私は、早速その若者に話しかけた。

「そこのお方。私は曹洞宗の僧で、源翁心昭と申します。この山に用があって参りました。しばらくここで休んでも構いませんか?」

 青年は、いきなり見知らぬ人間に声をかけられて驚き、キョロキョロと周りを見回した。私が盗賊かもしれないと思い、他に仲間がいないかを確認しているのだろう。この集落に人が訪れる事はまずないはずなので、警戒するのは当たり前の事だ。青年は、続いて恐る恐る崖下の竹林の方を覗き込んだ。そこにも人間がいないのを確認すると、最後に後ろの集落を見た。いつも通りなのが分かったからか、青年はおずおずと私に近付いて来た。

「え…と、お坊さんですよね?」

「はい。そうです。拙僧は、源翁心昭と言う曹洞宗の僧です」

 青年は、「そうとう?と言いながら」目を白黒させて首を傾げた。

 ここで宗派を言ってもよくは分からないだろう。彼の反応は至極当然と言える。

「まあ、有体に言って、日常的に坊主をしている者です。」

「そうですか。

 あの…ここに入れるかですが、おじいが良いと言えば大丈夫です。ただ、見ての通り宿坊も何もないですよ」と頭を掻きながら申し訳なさそうに言う。根はなかなかに良い人間のようだ。

 私も礼儀として改めて背筋を伸ばし、手を合わせた。

「もちろん宿は所望しません。明日の朝まであの切り株に座らせてもらえればそれで良いです」

 私は集落の中心近くの大きな切り株を指差した。私が三人分座れそうな大きな切り株なので、元はさぞや立派な木であったろう。今は人々の丁度良い作業台になっているようだ。

「いや、でも、お坊さんをその辺に居させる訳にも…あ、私、五平と言います。ちょっと待っていてください。おじいに聞いてきます。あ、それにしても、こんな山奥に修験の方でもないお坊さんが来るなんて、どうしたことですか?」

 誰もが当然そう思うだろう。私は、なるべく丁寧に説明する事にした。

「この辺りに、九尾の狐という強大な妖の魂が根を張っています。拙僧は、それを祓いに参りました。九尾の狐は、恐らくこの山の上にいます。拙僧はそこを目指しているのです」

 五平は、九尾の狐と聞いた瞬間、驚き顔をひきつらせて一歩下がった。その拍子に足がつんのめり、折角獲ってきた猪を地面に落としてしまった。

「うわ、まずい!」

 慌てて猪を拾おうとした瞬間、五平は、いつからいたのか白髪の老婆に杖で頭を叩かれた。

「うわ!!痛い!!」

 頭を押さえる五平に、老婆は威圧するように言った。

「これ!!五平。食物を粗末にするでねえ!!」

「痛いよ、おばあ。ちょっと落としただけじゃないか」

「何に驚こうが怖かろうが、自分で獲った食物は丁寧に扱え。お前、命あるものを粗末に扱うと呪いにかかるぞ」

 その『呪』という言葉が余程怖かったのか、五平は取るもの取り敢えず猪を担いだ。彼の顔は青くなっている。それだけ『呪』は恐ろしいものなのだ。老婆はその様子を見ながらため息をつくと、私をじろっと見た。

「お前さん。こんな寂れた山に妖だと?」

 老婆はすっかり曲がった腰を無理矢理に起こして、私を睨んだ。

「はい。その妖、二百年ほど前に京の都に現れて悪さをしました。京の陰陽師に正体を見破られ、逃げ出した先の那須野で討ち取られはしましたが、魂までは滅せませんでした。その魂が二百年をかけて力をつけ、ついにこの地に現れたという事で、拙僧が祓いに参りました」

「どんな妖なのだ?」

 五平に話した内容と重なるが、源翁は、おばあに詳しく話した。

「その妖の名は九尾の狐と言います。高位の妖で、海向こうの大国『元』から大和の地へやってきました。九尾の狐は京都に入り、玉藻前という女官になり代わり、事もあろうか上皇に悪さを働いたのです。陰陽師安倍晴明に正体を見抜かれ、狐の姿で京から那須野へと逃げました。陰陽師阿部泰成の指揮の元、三浦介義明の矢で貫かれ、上総介広常の刀で切られました。しかし、そこは海向こうの大国『元』で暴れた大妖怪。魂は逃げ出し、二百年もの間、各地を転々とし、今まさに力を溜めて此の地へと参ったのです」

 齢七十は超えていそうな老婆もそれには驚いたようで、下を見るように頭を下げ、何度か頷いた。

「お前さん、『獣狩り』か?」

 私は驚いた。何故こんな山奥に住む老婆が『獣狩り』という言葉を知っているのだろうか?

「いやはや、その言葉をご存知とは。しかし、拙僧、『獣狩り』ではありませぬ。『獣狩り』は妖専門の朝廷の戦闘員で、もう過去のものとなります。拙僧は、その前に禅僧であります」

 老婆はニヤッと笑った。知識を溜め込んだ頭で納得したのだろう。

「なるほどな。私達はこの山に入る前は、近くの海辺に住んでいてな。そこには『獣狩り』という武士に村を救ってもらったという話が残っておったのだ。まあ、妖をどうにかして貰えるならどちらでもええがの。五平。このお坊さんに泊まる場所を作れ」

「はいっ」

 五平は猪を抱えるように持つと、集落の奥へと走って行った。あれだけの大物を持っているのに、とても足が速い。その姿はすぐに見えなくなった。

「山の夜は早い。今日はここで泊まっていきなされ」

「かたじけのうございます。九尾の狐を祓う事でこの恩に報います」

 私は深々と頭を下げた。


 結局、本日はこの集落の最奥にある五平の家の片隅に私の寝場所を作ってもらい、一晩を過ごす事となった。


 家で山菜料理を馳走になった礼にと、私は、自前のお札を使い、蚤や山蛭避けの簡単な結界を家に張った。八人に及ぶ五平の一家は、それに大層喜んでくれた。やはり虫が入ってくるのは、どこで生活していても嫌なものなのだろう。麓の集落でも同じように結界を張れば良かったと、今更ながら後悔する。

 もう一つお礼にと、私は、今までしてきた旅の話をこの家族にした。

 ここの集落の人間は、山の外へは出られない。詳しくは聞かないが、何か理由があってのことだと思う。そんな事もあり、彼らは山の外の話に飢えていた。私などはほとんど極楽浄土か桃源郷から来た人のように思われているかもしれない。

 五平の家族は、山の外の他愛のない話でも、まるで真実にあった御伽噺を聞くように真剣に、そして、想像を働かせながら聞いてくれた。だから、色々と質問も飛ぶ。「海と湖と池はどう違うのですか?」「ずっと真っ平な土地が続くところがこの世にあるのですか?」「海の大きな魚とはどのくらいの大きさなのですか?」などなどだ。

 これは、どこの集落でもそうなのだが、そこで生まれた者は、生まれた家を継ぎ、親と同じ職業に就き、ずっと同じ地で死ぬまで過ごす。だから、その集落の外はまるで別世界の出来事のように感じるのだ。しかも、この山には人がほとんど入ってこない。そういう意味では、この集落の人間は、他の集落の人間よりも更に狭い宇宙に住んでいる事になる。

 結局、私はいつもなら寝てしまう深夜まで話をした。

 五平達はまだ話を聞きたそうだったが、私も九尾の狐を祓わなければならないので、心苦しいが、今回はここまでという事にさせてもらった。


 夜もふけ、皆が寝入ったのを確認し、私は囲炉裏の火を焚べ直した。火が爆ぜて、暗闇が一瞬だけ明るくなった。その囲炉裏の灯りを頼りに、私は腕、足、背中に軟膏を塗って治療をした。続いて土間横の上り框で座禅を組んだ。いつも通りに、瞑想の中で九尾の狐と戦うのだ。これを毎日やる事で、更なる課題が見つかり、それを様々な角度で問答し、検証する事で解決の為の道筋を見つける。

 私は、お釈迦様に祈りつつ、精神を集中させた。

 外から聞こえる虫の声、葉の擦れる音、怪異達の声が徐々に薄れていく。

 私は心を無にして座禅を完成させた。

 それからどれだけ時が経ったのか、玄関先で音がした。それは小さな音でネズミの動く音に等しかった。しかし、空気の流れの変わった事で、私は異変を察知した。

 瞑想を解き、薄らと目を開け、私は玄関の方を見た。


 怪異の匂いが濃い。そう感じた。

 一般的に、怪異は人の多くいる場所には出てこない。それでも来たからには、相当に気をつける必要がある。

 

 玄関の引き戸の隙間から、音を立てずに、何かが家の中へと入ってきた。それと同時に少しだけ空気が冷たくなった。いや、空気が引き締まったと言うべきか。

 玄関先の土間には、闇より暗い悪意の塊を感じる。源翁は、その存在をはっきりと認識できた。闇を纏った悪意の塊は、足を引き摺りながらゆっくりと私の方へと近づいて来た。足を引きずっているのは分かるのに音はしない。怪異だからなせる業だ。

 私は微動だにせず、己の存在を消すことに努めた。そうする事で敵の出方を窺うと同時に、こちらの手の内を読ませないようにするのだ。

 怪異は土間の中央まで来た。闇の塊は二本足で歩いている。私は、この怪異は人間の形をしていると推測した。ただ、輪郭がぼやけるほど濃すぎる闇を纏い、真っ黒な靄に包まれているような状態なので、私の気の結界だけでは、はっきりとした姿は分からない。

 とうとう、私の前で足音が止まった。すでに構えていたのか、先端を月の明かりに照らされた三日月型の刃物が、容赦無く振り下ろされた。

 しかし、その刃の先端は、私の額の手前で止まった。そこにいる闇の塊がどれだけ力を入れて押し込んでもそれ以上は押し込めない。「ぬう…」思わず漏れたしゃがれた声から察するに、闇はイライラしているようだ。

 目を開けると、そこには青龍刀を持った人間が立っていた。

「無駄だ。空蝉の身を操ろうとも、拙僧は討てぬ」

 私は予め気の鎧を纏っていた。この鎧は、私が命をかけて凡ゆる怪異と対峙して磨いてきたものだ。相当高位の怪異でなない限りは、打ち破る事はおろか傷つけることすらできないはずだ。それを考えれば、この気の鎧を易々と切り裂いた先日の隼の怪異は、本当に異次元の強さだったと言える。

 源翁はゆっくりと立ち上がり、怒り狂う闇に向かって真言を唱えながら印を切った。東密のやり方であって曹洞のやり方ではないが、妖相手に宗派は関係ない。

 祓いの術式が怪異へと飛んだ。

 暗殺者の持つ刃の鋒から眩い青白い火花が散り、黒く澱んだ刃が小さく爆ぜた。

「グァァ!」という低い叫び声と共に、怪異の手から刃物が落ちた。

 追い討ちをかけるように、私は丹田に溜めた気を放った。

 充分に練り込んだ気を放出する度、黒い闇の靄に亀裂が入り、怪異の闇がボロボロと剥がれていく。最早攻撃する事も逃げる事もできず、怪異は崩れるように倒れた。私は、手を緩めずに気を注入し続けた。すると怪異は、土間で苦しみ、のたうち回った。

 その隙をついて、私は刃物を拾って部屋の奥へと投げた。相当重いもののようで、がしゃんと激しい音がした。

 床が抜けていなければ良いがと思いつつ、私は苦しむ怪異を見据えた。まだ闇の靄は晴れないが、動きが鈍きなってきているので、かなり弱ってきたようには感じる。

「曹洞宗には悪魔を祓う為の経があります。それをお聞かせしましょう」

 源翁は、手を合わせ、ここだとばかりに曹洞宗の悪魔祓いの経を唱えた。この経の文言は非常に長いが、怨霊じみた怪異にはよく効く。

 再び、怪異がのたうち回る。

 この経の効果は覿面だった。土間で身悶えていた怪異が、苦しみの限界を超え、倒れたまま動きを止めた。すると、怪異を包んでいた闇の衣が徐々に晴れていった。黒い靄のような暗闇が全て消し飛ぶと、昼間に見た老婆の顔が現れた。老婆は突然上半身を起こすと、狂気に満ちた笑みを浮かべ、こちらを見やり、小さく「やるな」と言って完全に意識を失って土間に倒れた。

 ここに至り、怪異との戦いに気づいた五平の家族たちが、ようやく目を覚ました。

 黒い気を浄化する為に経を唱え続けている私の横に、ドタドタと五平の家族が並んだ。そして、皆が同時に上り框から土間を覗き込んだ。そこには、あの老婆が倒れていた。五平の家族は皆で何がどうなっているのかと怪訝な顔を見合わせたが、その結論が出る前に、五平が「おばあ!!大丈夫か?おばあ!!」と叫んで、土間に飛び降りた。

 五平に続けと、家族全員が一気におばあの横へと傾れ込んだ。

 源翁は現状を知るべく、周辺に強い気を張った。その後、気の範囲を広げ調べたが、家の中も外も大きな怪異がいるようには感じなかった。そして、すでに闇の匂いはしない。


 私は経を唱えるのを止め、部屋の奥に投げた刃物を土間の端に置いた。これで誰も怪我はしないだろう。


 土間では、五平がおばあの頭を少し上げて、「おばあ!おばあ!」と声をかけて意識の確認をしているが、おばあはまだ気絶したままのようだ。

「すみませんが、皆様手を貸して下さい。まずはおばあを部屋の奥に寝かせて下さい。そして、ゆっくりと白湯を飲ませてあげて下さい。更に——五平は、この事を長のおじいに報告をして下さい。後で詳述しますが、九尾の狐がおばあを乗っ取り、我々を攻撃してきたのです」

 それを聞いた五平の家族達は同時に「はい!!」と返事をして、各々の役割に散った。

 五平の両親と姉と私は、土間に倒れたおばあを家の奥へと運び、枯葉を敷き詰めた寝床へと移した。すぐに濡らした笹の葉をおばあの額にのせ、身体には筵をかけた。

 五平の母親が、慌てて沸かした白湯を持ってきてくれたので、源翁は白湯をおばあの口に含ませた。

 すると、重い瞼をこじ開けるように、おばあが目を開けた。

「ん?ここは…」

 おばあは周りを見て全てを理解したようだった。微かではあるが、操られていた記憶があったようだ。身体を起こす事は厳しいのか、おばあは寝たまま「すまんの」と私に言った。

「いえ、奴に操られては仕方のないことです。拙僧こそ、ここにいるべきではなかったかもしれません」

 頭を下げるとすぐに、老婆に怪我防止の祈りを捧げた。

「年は取りたくないものじゃな…」

 身体の不自由さにおばあの愚痴が出た。ただ、これだけ話せれば、おばあは大丈夫だと思える。私は、五平の家族におばあを見守るようにお願いし、静かに土間へと向かった。


 やれる事はなるべく早いうちにやらなければいけない。それが、敵の武器であれば尚更だ。


 上り框から土間に置いた三日月型の刃を見た。刃は所々黒く焦げており、やはり邪気は感じない。この様子だと、また邪悪な呪を発揮する事はなさそうだが、念には念を入れておく。

 私は皆の方を向いて「これからこの刃物を浄化します。しばらく、私に近づかないで下さい」と言った。

「は、はい。みんなここに集まって」と五平の母が言うと、家族全員が家の端に固まった。そして、おっかなびっくりこちらを見ている。

 では、と私は青龍刀の浄化を始めた。

 まずは、借り受けた柄杓に沢から汲んできた水を入れ、私の持つ清めの塩を混ぜる。塩は渦を巻きながら水に溶けて消えた。次に、悪魔祓いの経を諳んじながら、柄杓に入った清めの水を土間に置かれた刃物に満遍なくかけた。

 太陽と自然の恵みを受けた清めの塩水をかけると、禍々しい青龍刀は白い煙を出しながら、まるで生き物のように蠢いた。この気持ち悪い動きに、五平の家族から悲鳴が上がる。

 確かにこの動きは、蛇かミミズのようで気持ち悪いと私ですら思う。

 経を唱え終ると、最後にもう一度清めの水をかけ、私は刃物の清めを終えた。

 闇が取り祓われた刃物は、完全に動きを止めた。

 よく見れば、刃の部分に書かれた呪を込めた字が全て焦げていた。この青龍刀の呪は、完全に取り除かれたと言って間違いない。

 私は全身を気で防御をしながら、慎重に刃物を拾い上げた。

 ぶん投げた時も思ったが、刃物は見た目よりもずっしりと重く、とても老婆が持てるようなものではなかった。日本ではまず見かけない大陸製の両刃の刃物で、刃の部分は三日月型に曲がっている。

 これ以上の事はないと思うが、念のためこれは明日、山に埋めてしまう事にした。

「この刃物は完全に浄化されました。もう悪さをする事はありません」

 それを聞いた五平の家族は、奥から恐る恐る土間へと降りてきた。同時に、長への報告を済ませた五平が家へと戻ってきた。土間に集まった家族を見て、五平は私に聞いてきた。

「源翁さま。ここで何があったのか改めて説明していただけませんか?」

 その声は震えているが、恐怖に必死に抗い、長兄の立場を全うしようとしている。その後ろにいる家族も、それに倣ってこちらを見ている。

 私は、清めた刃物を布で巻いて土間の端に置き、五平の家族と向かい合った。

「九尾の狐はそこの刃物に呪をかけ、おばあを操り、拙僧を殺そうとしました。ですが、他人を操っていた事で、高度な事をするには、少々呪量が足りなかったようです。見たところ人間一人にしか効かない呪なので、今日はもう心配する事はありません」

「で、では、その———九尾の狐ですか…は、ここの近くにいるのでしょうか?」

 怯えた表情で周りを見回す五平の問いに、私は、今一度周囲の気を確かめてみた。近くには怪異を感じない。

「ふむ…ここにはいないようですね」

 本当に何もいないとは言えないが、窓から見える黒い木々、そして集落の広場には、大きな闇の存在は感じない。ただ、さっきまで九尾の狐はすぐ近くにいたのだろうとは思う。何故なら、この家の玄関の外に、僅かではあるが普通の怪異にはない高貴でいて残酷さを併せ持つ、巨大な黒い気を感じたからだ。

 九尾の狐がこれだけあっさりと引き下がったのは、単純に遊んでいるからだろう。そして、九尾の狐はここからそう遠くないところにいる。奴は早くここに来いとばかりに、自らの黒い気をわざとらしく歪ませている。

 私は、五平に聞いた。

「ここから三里ほど山を登った先に、大きな闇の存在を感じます。山の上に建物などはありませんか?」

「あ、あります。山の上に修験の方が、小さなお堂を建てています」

 五平は、私がなぜそんな事が分かるのかといった顔をして、山の上を指さした。

「承知しました。明日、日が登ったら、そのお堂に向かい、私は九尾の狐と相対します」

「で、では、そこまでは私が案内します。どうか、どうか、源翁さま。その妖を退治してください。これではここに安心して住めませぬ」

「分かりました。よろしくお願いします」

 私が頭を下げると、五平はもったいないもったいないと言いながら頭を下げた。 

 勿体無いと思うのはこちらの方だと思いつつ、私はこの五平という青年に手を合わせて、もう一度深々と頭を下げた。


 そして、九尾の狐との対決に、自然と身体が震えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る