第2話 過去編 【おりん】 其之一

 〜室町時代 常陸国〜


 空が朱に染まっている。今の季節は夏ではあるが、まごまごしていると陽はすぐに落ちる。すでに葉を照らす光は赤い。山間の竹に覆われた静寂の沢地に、土と枯葉を踏む小さな足音がバタバタと響く。


 おりんは、家路へと急いでいた。


 兄にいつも言われているのだ。近くに狼がいる。暗くなれば彼らの世界だ。ここは私達の世界ではなくなる。そして、私達には見えない何かの世界にもなる。だから、暗くなる前に、必ず私達の世界を守ってくれる家にいろと。

 小さな手で必死に抱えた薪を、一つも落とさないように、おりんは、ひたすら走った。

 おりんはまだ十を過ぎたばかりの子供だ。

 でも、大人の——特に兄の役に立ちたかったのだ。いつもいつも長兄に頼ってばかりの日々に終止符を打ちたかったのだ。


 私だってやればできる。そう頭の中で繰り返した。


 先ほど家で姉の声が聞こえた。あれ?薪は?すぐに父が答えた。まあ、明日でよかろう。ちと少ないがなんとかなる。

 おりんは、この前、兄の五平に連れられて薪を取りに行った。薪を拾う場所はわかる。そして、すぐに戻れる自信もあった。だからこっそり家を抜け出して、その場所に薪を取りに行ったのだ。

 しかし、闇が迫ってきた。何だかあまり聞かない鳥の鳴き声も聞こえる。おりんは、見えない何かの世界になりつつあるのを肌で感じた。


 急げ、急げ。と心の中で何度も繰り返す。みんなで作ったこの階段を登り切れば、家族のいる集落だ。


 急げ、急げ。こっちに急げ

 え?


 突然、おりんの頭の中に知らない女性の声が響いた。

 おりんは寒気と同時に恐怖で足が竦んだ。

「だ、誰?」

 精一杯の勇気を振り絞って、おりんは声を出した。

 周りを見ても誰の姿もない。そして、あと数段上るだけで集落だ。けれど、足が地面にくっ付いてしまったように動かない。これはどうした事だろう?

 

 ほれ、こっちじゃ。

 

 また、どこからか声が聞こえる。

 おりんの身体は、勝手に階段の下へと向いた。みんなのいる上を向きたくても向けない。

「でも、そっちは私の家と反対…そっちには行きたくない!」

 必死に反抗し、身体の自由を取り戻そうとするが、おりんは見えない何かに身体を押さえつけられていて、動くことすらできない。

 汗が滲んで、身体が熱い。恐怖がおりんの心の中に巣喰い始めて、もう薪どころではない。


 太陽の光が山に遮られ、赤い光もおりんの元に落ちてこなくなった。闇の支配はもう間もなくで、おりんは、底知れない黒い何かの存在を感じた。


 良いのじゃ。そちは今日から我のために働いてもらう。

 

 嫌だ!!と叫びたかったが、何故か声が発せなくなっていた。慌てて口を開くために手を口にかけた。先程まで必死に抱えていた薪は全て離した。

 薪は階段に落ち、一箇所に固まって転がった。


 とうとう闇の支配が完了した。


 深い木々に囲まれた山奥は、人間の時間を通り過ぎ、人ならざるものの時間になった。空気は途端にまとわりつくような冷気を帯び、聞こえる音もくぐもる。


 黒い何かが、おりんに被さった。


 おりんは、突然何もかもが見えなくなった。暗い洞窟の中にいるようだ。目を凝らすと、遠くに針の穴のように小さい光が見えた。救いはそこだと、おりんは、光に向かって走った。

 ひたすらに走った。

 力の限り走った。

 光が少し大きくなった。奥で何かが動いている。

 どこを走っているのかは分からないが、光には近付いている。それが証拠に、光の場所で動いているのは人だと分かった。

 そして、おりんは気づいた。

 

 あれは自分だ。


 そして立ち止まった。


 呆然としたというか、もう理解が追いつかない。涙が出たような気もするが、それも気のせいかもしれない。

 しかし、悲しくて、おぞましいのは気のせいではない。

 あそこに見える自分は笑っている。その後ろには巨大な狐の怪異がいて、おりんを包むように見守っている。おりんは見たことのない三日月型の刃物を使って、嬉々として動物や人間を屠っていた。

 血だらけになった自分が、何故あんなに嬉しそうなのかと震えた。そして、後ろにいるあの狐の化け物は何なのか?


 楽しそうだね。

 あの女性の声が聞こえる。


 ああやって私を守るのだよ。いいね、おりん。

 

 光は消え、闇がおりんを支配した。おりんは、もう考えるのを止めた。

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