斉清は車輪を漕いで、ぐんぐんと進んでいく。

 保はそれについていくことだけに集中しよう、と強く思った。

 背後には、二人いる。

 背の高い老人は一言も話さない。美しい生き物は時折こそこそと、よく分からないことを呟く。無性に後ろを振り返って確認したい衝動に駆られるほど、美しい息遣いだ。しかし、その度に、目の前に転がってきた折られた義足を思い出す。

 斉清の向かっている場所は分かる。彼や彼の祖父がたまに立ち入っている、神域だ。普段は独特な色の組紐で区切られており、保でさえ入ったことはない。父にも、許可なく入ってはいけない、と厳しく言われている。

「俺、付いていきましょうか」

 そう聞いても、いつも

「いんや、ひとりでえいが」

 と返されてしまう。とにかく物部家の特定の人物しか入ってはいけない場所ということだけは分かる。そんな場所に、こんなものを入れていいのだろうか。

 そう広い山ではない。すぐに組紐の前に来てしまった。

「斉清さん」

 そう声をかけても斉清は振り返らない。

「お邪魔します、くらい言いや」

 それだけ言う。

 保は言われた通りお邪魔します、と言って頭を下げてから組紐をまたいだ。背後からがさごそと音がするから、二人も同じようにしたのだと思う。

 またしばらく進むと、急に視界の開ける場所があった。

 明るくなった理由が分かった。草木が鬱蒼と生い茂る山の中にあって、ここだけが何も生えていない。ただごつごつとした山肌が露出していて、地面には赤い杭がいくつも打ち込んであった。

「ここでえいが」

 斉清は短く言って、くるりとこちらに向き直る。

「こっち来て」

 斉清が保に向かって手招きする。大量に発汗していて、唇も色が悪い。笑顔が痛々しかった。

「ずいぶんきれいな場所。虫唾が走るくらい」

 綺麗な声がそう言った。

 斉清がまた舌打ちをする。

「ごめんなさい、よく言われるんです。日本語が、おかしいって」

 美しい生き物はきゃはは、と少女のような声を上げて笑った。

「ほいじゃ、確認になるけんど」

 斉清が口を開いた。

「そっちの、男を、留まらせる。それでえいですか?」

「ええ、そうです」

「永久には無理よ。限界があるけん」

「ええ。そんなことくらい分かっている。早くしてください」

 斉清はおん、と言ってから、

「お前は腐ったかざしちゅーき臭いがするから、ウチの神さんが嫌がる。下がっといてくれや」

「本当にひどいこと言う」

 それは、わざとらしく頬を膨らませて、数歩後ろに下がった。代わりに、老人が斉清の前に歩み寄ってくる。

「あんたはこれでえいの?」

 斉清は老人に問いかけた。老人は薄ら笑いを浮かべたまま、何も答えなかった。

 斉清はふう、と溜息を吐いて、両手を合わせ、何かを握りこむように力を入れた。

 その瞬間だけは、保は何もかも——あんなに美しいと思っていた生き物のことも忘れ、斉清に目を奪われた。

 彼の目はどうしてこんなに美しいんだろう、と思う。

 複雑に何層も色が重なっていて、この世のものとは思えない。彼は祈っている、しかし、彼自身が神としか思えないような——

 斉清が手を開いたのと、どさりという重い音がしたのは同時だった。

 急に現実から引き戻されたような気分になる。

 一瞬後に、耳を劈くような音で、鼓膜が震えた。体を起こしていられず、保の体は地面に打ち付けられる。

 何が起こったか把握できたのは、耳鳴りが止んで、なんとか上体だけ起こせるようになってからだった。

 老人が倒れている。

 保は助け起こそうとした。救急車を呼ばなくてはいけない、しかしこんな山の中には来られない、自分で運ぶしかない——そのようなことを考えてから気付く。老人の口元の髭がわずかに揺れているのに気付く。息はしているようだ。

 ただ、眠っているように、その場に横たわっているのだ。

「物部斉清」

 堪らない不快感が足元から全身に這い上がる。虫が全身にまとわりついているような声だ。

「物部斉清」

「なんじゃ。呼ぶな。耳が腐ってしまうけん」

 とても冷静ではいられない。なぜ斉清が堂々と前を向いているのか不思議だった。保は薄目を開けてしか見られない。そこにあれがいることは分かっている。しかし、目を開けてきちんと見てしまったら、狂い死んでしまう。そういう確信がある。

「留まらせるゆうたき、そうしただけです」

 斉清は底意地の悪い声でそう言った。

「今すぐ、解きなさい」

「それは無理じゃ。神さんへのお願いをほいほい取り消せると思いなさんな」

「分かりました」

 圧がより一層強くなった。頭を掻きむしって地面に打ち付け、そのまま死んでしまいたいような気持ちだった。

「物部斉清、今すぐ死になさい」

 叫びだしたくなる。いや、実際に、保の口からは獣のような咆哮が漏れ出していた。眼窩からは血のようにどくどくと涙が流れ、股が不快に濡れていた。

 気が遠くなる、今すぐ死にたい。今すぐ死にたい、という思いで脳が支配される寸前で、保の頭に温かい手が置かれた。

 すまんな、という小さい声が聞こえる。

 手はぐっしょりと濡れていた。それでも、保は我に返ることができた。

 何も起こっていない。何も、だ。

「どうした」

 斉清がにやりと笑っているのが見える。

「信じられんか、なんも起こらんで」

 恐る恐る薄目のまま、あの生き物の方に顔を向ける。

 それは大きく目を見開いて、口元に血を滴らせながら、呆然と斉清を見ていた。

「お前らは、単純じゃ。分かりやすい」

 斉清は大声で笑ってから、

「契約、言うたらえいのかな。それに縛られちょるんよな。可哀想に。俺は何度もこれでえいか確認した。お前も、この男もえいち言うたが。契約成立じゃ。俺はきちんとその通りにしたろう。お前たちは素直じゃ。ほじゃけん、お前に俺は殺せんよ」

 ばりばりと音がする。

 見ると、それはひどく恐ろしい表情でなにかを嚙み砕いていた。

「お前の言うたことは合うちょるよ。俺ははよう死にたいわ。ほんでも、許してもらえん。そういうふうに生まれたき」

「興味がない」

 地の底から涌き出るような声でそれは言った。しかし、斉清はわずかに眉を動かしただけだ。もう、保も先程のような絶望的な気持ちになることはなかった。

「はよう肉持って帰らんね。欲張るき、全部ちゃがまるダメになる

 美しい生き物は暫く恐ろしい形相のまま足を踏み鳴らしていたが、やがて諦めたようにこちらに歩いてきて、老人の体を持ち上げた。

 去り際にあなたのお名前は、と尋ねられる。

 保は助手です、と答えた。

 大きい舌打ちが聞こえた。思わず身を竦める。

 しかし、しばらく経っても何も起こらない。

 おずおずと目を開けると、そこには何もいなかった。

「な、斉清さん……」

 あれがいなくなったことは分かる。しかし、言い知れない不安が押し寄せて、思わず保は斉清の名前を呼んだ。

「なんじゃ」

「何しゆうがですか」

 斉清は人差し指を立てて、波のようにくねらせた。

「留まらせろ言うたき、ここに縫いつけてやった」

 保にはさっぱり分からない。ただ、あの生き物の要望を、斉清が歪んだ形で叶えたということは、わずかに分かる。

「大丈夫なんですか」

保がそう尋ねると、斉清は首を横に振った。

「まあ、また来るじゃろうなあ」

「あれ……一体、ナニモンですか」

「分かりやすく言うたら寄生虫。人から奪うことしかできんくせに、人がおらんと生きていけんもんよ」

「ほいでも……」

 あの生き物のことは瞼の裏に焼き付いている。夜空のような黒髪。星のような瞳。肌は光るような白さで、目が眩むようだった。

「あがいに綺麗なもん、俺、見たことないき」

「綺麗かねえ。俺には、ドブみてえに見えたわ」

 斉清は膝に乗せたスニーカー付きの足をくるくると弄んだ。

「拾っちょったんですね」

「だって、せっかく保君が選んでくれゆうが」

 斉清は照れたように笑った。保、と名前を呼んでもらったことで、保もやっと安心して笑い返した。

「もう行こう。ここには君も、長いことおったらいかんぜ」

 びゅう、と風が吹いた。

 保は頷いて、斉清とともに歩き出す。

 組紐を越えるとき、一度だけ振り返ると、赤かったはずの杭が、全て黒くなっていることに気が付く。

「気のせいじゃ」

 斉清がそう言った。

 保も何も言わず、もう振り返ることはなかった。







 Malleus Maleficarum(了)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

必ず「とらすの子」読了後にお読みください。 芦花公園 @kinokoinusuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ