大賢者と馬車

 屋敷を後にするとアルフォードは商人の元に出掛けた。先日頼まれたスタミナポーションのレシピを渡すためだ。それから買い足りないものを補充する必要がある。食べ盛りが二人も増えたのだ。相応の食物を買い入れる必要があるのだ。


「約束したスタミナポーションのレシピだ」


 薄い本一冊分はあるであろうレシピを商人に渡す。


「これだけあると紙代も半端ないでしょうね。代わりと言ってはよいので本一冊ぐらいは持って行ってください」


 商人が言うのでアルフォードは本棚を物色すると双王国語で『新しい簿記の本』などと書いてある本があったので、それを貰うことにした。


「その本で良いのでしょうか?他にも良い本はありますよ。まぁ、これは売れ残っている奴だから持って行って貰うと助かりますけどね。保管料もバカにならないのです」


 流し読みした限り、これは恐らく転生者が書いた複式簿記の本で、恐らく門前払いを食らったヤツだろう。それも当然とアルフォードは思った。この本が双王国語で書かれていることが問題なのだ。双王国では複式簿記以前に商人ですらまともに読み書きが出来ない。文字が読めない商人が本を買うわけが無い。しかも無駄にアラビア数字を使っている。初期の複式簿記がローマ数字を使っていたのを知らないのだろう。二重にハードルが高い。フィボナッチが12世紀アラビア数字を持ち込んでいるのだが実際の15世紀の複式簿記ラテン数字で書かれているのだ。そもそもこの世界には既に0の概念があるので、既に使われて居る数字を使えば問題無い。双王国の連中がまともに計算が出来ないから似たような数字が無いと勘違いしたのだろう。そういうわけでこの本を有効活用することにした。諸島協商では、既に複式簿記が存在するのだが記法に統一性がない問題が起きている。この本を底本にして記法を標準化すれば需要があるだろう。家令に送って翻訳と注釈書を作らせるようにしておこう。恐らく翻訳試みている者は他にもいるだろうから注釈書による差別化をする必要だ。そもそも、この内容では説明が分かりにくい。読み手のレベルを想定していないのだ。転生前の常識で説明しているからだろう。


 それからアヒル数羽と箱馬車を買い取るとそのまま乗り込んだ。アルフォードは御者台に乗り込み手綱を引いた。その左右に、カチュアとエリザが乗り込んでくる。なんか荷馬車で十分な気がしてきた。さてこれからセルフ国外追放の時間だ。実際の国外追放のお達しなど出ていないが先んじて国から出て行った方が追っ手も来ないだろう。顔の面が欲望で出来ている伯爵様の事だ。今頃、魔法省復帰のための工作をしていると考えるのが妥当だろう。そう思わせる工作を仕掛ける振りをしておいて、その間に国から出てしまうのである。しかし、わざわざ馬車に乗り、ゆっくり移動しているのも行き先と目的を誤魔化すためだ。


「御主人様は馬車が引けるのですね」


「必要だったからな。それより御者台が狭いから二人とも後ろに乗りなさい」


「普通メイドは、おそばにいるモノですよ」


「警備要員が必要なのだ」


「ちゃんと馬車に乗って大人しくしてなさい。荷馬車で十分なのに箱馬車を借りたのだから座ってくれないと困るんですけど」


 そもそもアルフォードに取っては馬車も本来必要ではなかった。飛行魔法か転移魔法をつかえば十分だからだ。わざわざ馬車を利用する理由は、飛行魔法を隠匿するためと行き先を誤解させるためだけの理由だ。


「「はぁい」」


 相変わらず、返事だけは良いのだが、仲良くしてくれるかが心配である。取りあえず、暇つぶし用の本でも与えることにした。いわゆる大衆小説の類だが、まだ高い代物だ。印刷技術は普及しているものの紙が高いのである。紙はどうしても麻や亜麻から作る必要があり、値段が高くなってしまう。麻紙の性質上、文字通りプレスする必要があるため印刷にかかるコストもはね上がる。そしてインクの品質も良くない。ちなみに木材からパルプ紙を作成する方法の研究もしていたが耐久性に問題があり、まだ売りに出せる状態にない。文字通りプレスとすると破ける恐れがあるのだ。ただ、魔法で強化してやればそれなりに日持ちするので、その紙に借りてきた本を勉強と称して写本させたものを何冊か抱えていた。そのうち何冊かを二人に読ませるために屋敷から持ち出してきたのだ。ちなみに俺の屋敷の使用人は読み書きは当然必須だし、出来なければ働きながら教えていたのでほぼ全ての使用人は読み書き計算が出来る。この二人も例外ではない。カチュアは暗殺者ギルドでたたき込まれたのか、最初からある程度の読み書き計算が出来た。一方エリザは全く出来なかったのだが、今は家禽の数を暗算できるぐらいになっている。馬車はそのまま王国南東の迷いの森の方へ向かった。


 十日ほどかけて、馬車は南東の国境沿いにある迷いの森の手前の村についた。ここで一泊してから迷いの森を真っ直ぐ通過するとファーランドに抜ける。


 ちなみに田舎の村に宿などと言うものは無い。辛うじて酒場があるのでその一角を借りて眠るのだ。しかも少額貨幣が浸透していないので支払いは基本的には物々交換だ。納税は貨幣で行われるので一応貨幣は浸透しているのだが、王国における最少貨幣はデニル銀貨だ。デニルは日本円に換算すると3000円相当になる。しかしそれ以下の貨幣が無い。酒場に泊まるのには追加の支払いは要らず酒場の代金を払うだけで良い。それも農民に払える金額で1000円を超えることはまずない。出来来る酒は薄いエールだし、食事も概ね豆類のスープと黒パンで他の選択肢は無い。そのため田舎酒場においては農民は大麦や小麦を支払いにあてる。旅人や商人はその代わりになるもので払う必要がある。どこでも需要がある塩で払うのが簡単だ。そのため代金を塩で払っていた。田舎だけあって夜が早く、酒場から人が去るのも早い。そうすれば酒場は床とテーブルが並んでいるだけである。しかし、床は食べかすや酒がこぼれたりしてベトベトで汚いので掃除してから寝る必要がある。こういうときのカチュアはハウス・メイドだけあって手早い。掃除道具をわたすと半刻も経たないうちに床をピカピカにしてしまう。カチュアが泊まった後は酒場の店主が丸で新築の様だと驚くぐらいに綺麗になっていた。

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