第5話 地下通路

 ユグムは官舎から出て一番近い井戸へ走った。

 小さい頃、城の中にはいたるところに随分前に作られた隠し通路があると聞いたことがあった。王族のための非常用通路という名目だったらしいが、身動きの取りづらい王が夜な夜な城下町へ出かける際に使用していたらしい。しかし、普段は人々の往来がないこと、通路は複雑に入り乱れており管理も難しいこと、様々な要因が考えられるが、『外なる』を冠する獣が発生するようになってしまったようで、何代か前の王が出入り口を封鎖したのだそうだ。

 ただ、彼の王も全ての出入り口を封鎖できたわけではなかった。

 隠し通路の一部は、元々あった水路を利用して作られたらしく、閉鎖すると給水に問題が生じる懸念があるので、そういった場所はそのままになっているらしい。

 水の国と言うだけあって、給水路の規模はたいへん大きい。加えて、全ての隠し通路が埋め立てられたわけではないのなら、入り口さえ見つかれば守衛らの目を掻い潜る手間を省いて安全に城の内部に入ることができるだろう。

 ユグムが思い当たる場所といえば、各地に設置されている井戸だった。水路の端末として、あちこちに点在している井戸は、通路の出口として都合が良いのではないかと考えたのだ。

 流石に洗濯場にある水場が通路につながっているかどうか、あれほど女官がいる中で確認するのは不可能だ。だから、ユグムの記憶にある中で一番近い井戸へと向かった。兵舎の裏にある井戸だ。

 兵舎には度々視察という形で訪れることがある。この兵舎を利用するのは兵卒の者たちで、最低一年間ここで過ごすのだ。どの役職に、どの隊に、誰の元に配属させるか、ある程度選別するためだ。

 ユグムは年に三回この兵舎に訪れる。彼らが入舎する時、そして半年たった時、そして退舎する時だ。

 兵卒らの一斉稽古を視察した後、推薦された者と試合をする。ユグムはこの行事が好きで、いつも楽しみにしていた。彼の警護を務めるサリマンと出会ったのもこれがきっかけだ。

 当時は九歳だったこともあって、試合ではサリマンには良いようにあしらわれたが、実直で誠実な態度の彼が気に入って、将軍であるバイソンに頼み込んでこっそり会う機会を作ってもらったリした。

 そんなこともあって、兵舎内での歩き方は知っていた。人目につきにくい通路や茂みに隠れて、ユグムは比較的容易に井戸に近づいていった。

 石組の井戸の底は深く、水を汲む桶に長い縄が結びついていて、滑車で引き上げる仕組みになっている。井戸を覗き込むと、底の方で水がゆらゆら揺れているのが分かるが、薄暗くて地上からでは入口の有無はわからなかった。

 いつ誰がやってくるか分からない。ユグムは井戸の中に入ってみることにした。石の出っ張っている箇所を手探りで探して、音を立てないように慎重に降りていった。

 水音が立つ。水に足がついた。地下を通っている水だからか、だいぶ冷たい。ユグムは歯を噛み締めながら更に降りる。

 ユグムの腰ぐらいまで水に浸かったところで、底に足がついた。水の温度に体が慣れるまでじっとした。五秒ぐらいしてやっと体が動くようになったので、改めて周りを見渡した。地上から思っていたより空間が広い。壁をまさぐって隠し通路に通じていないか探した。

 指を壁に這っていると突然、頭上から人の声がし始めた。

 聞こえてくる声は二人分、おそらく水汲み当番に回された兵卒だ。

 ユグムは壁にびったりくっついた。心臓が騒がしくなる。音を立てないようにじっと我慢した。

 すぐ後ろで、大きな水飛沫がたった。背中が濡れる。上から桶が投げ入れられたのだ。

「全く、面倒な時期に入舎しちまったもんだ」

 ユグムは二人の会話に耳を澄ました。おそらくもう一人の兵卒が「おい」と小声で注意している。

「あんまりそういうことは口に出すもんじゃないぞ」

「わかってる。わかってるけどな、やっぱりそう思うよ。まさか王様が死んじまうなんて。周りも暗い顔してるし、お前だって不安に思うだろ」

「まあ、お前の言いたいことはもっともだ。でも、何処に耳があるか分からないだろ。出世したいのなら、余計なことは言わないほうがいい」

「みんな訓練場か、講義室さ。お前が言いふらさない限り、俺が何を言ったところで問題ない。もちろん、俺もお前が何を言おうが、すぐに忘れることにするよ」

 ここで少し間が開く。

「……王様が亡くなったことに関しては、やっぱり怖いなって思うよ。ナゾルでの病死ってのは、ただ事じゃない」

「大精霊に嫌われるようなことでもしたのかな」

「おい」

「だって、水の大精霊は生命ってものを司ってるんだろ。眷属である王様の危険を見過ごすようなこと、普通あるか?」

「もっと口を慎めよ」

「とにかく、最近の諸々の出来事が不穏なんだよ。王妃様の時は、大変なご出産だったんだ。不幸だったって納得がいったよ。でも、王様が倒れられること自体おかしいんだ。起こるはずのないことが起こってる。これって、水の大精霊がナゾルの国から離れていってるからじゃないのか?」

「……本当のところは分からないさ、結局、俺たちにできるのは、言われたことをこ成すことだけだろ」

 再び桶が井戸に投げ入れられる。バシャっと水が跳ねる様子をユグムは背中の近くで感じる。

「少なからず、お偉いさん方も俺とおんなじこと思ってるんだろう、多分。皇太子様と姫巫女様のご婚姻の話が現実味を帯びてきたのは、そういうことさ」

「それは、まだ正式に決まったことじゃないだろ?」

「でも、宰相殿が動かれたんだろ。そうなる可能性は高いんじゃないかな」

 ユグムは驚いた。もう噂が出回っているのか。それに、モゾマがユグムに話を持ちかけたことも知られている。ユグムが思っていたよりずっと前に、婚姻の話は持ち上がっていたのかもしれない。

「複雑だよな。国は安定して欲しいけど、姫巫女様が誰かのモノになっちゃうってのは」

 頭の上の方から、はあと大きなため息が聞こえた。

「冗談抜きで出世には向かない性格らしいな。口だけじゃなくて手も動かせ」

 その後二人は何回か水を汲む作業をしてから、本来の持ち場に戻っていった。

 ユグムは二人の声がしなくなったことを確認してから、再び隠し通路への入り口がないか探した。

 しかし、いくら壁を触っても、水の中を覗いてみても、それらしいものはなかった。


 隠し通路を見つけたのは、それから二つ目の井戸を調べた時だった。

 水深が他の井戸に比べ深く、壁に比較的新しい掘り起こした痕跡が見受けられたので、水中の壁を念入りに探ってみた。

 給水口の左の壁を触った時に、押し込める感覚があり、そのまま力を入れて壁を押してみると、ユグムの力に合わせて深く壁が沈んでいった。充分に押し込めると壁の一部が外れ、奥へ通じる通路が顔を出した。

 ユグムは壁にできた穴をくぐり抜けた。押し込んだ壁の一部を元の位置まで戻して、水から浮上した。

「すごいな」

 思わず、そんな言葉が出てしまった。本当にこんな場所があったなんて。小さい頃は半信半疑で聞いていたのに。

 通路の様子は、ほとんど洞窟だ。水路の端に、一人歩けるか歩けないかの狭い道が続いている。

 必要最低限の舗装されているものの、受ける印象としては『とりあえず人が通れるようにした』というところだ。岩壁はゴツゴツと出っ張っていて危険だし、足元に水路の水によって浸水している箇所がある。隠し通路を作るのに表立って工事ができなかったのだと思われる。

 ユグムにとって一番厄介なことは、光源がないことだ。目前ですらどうなっているのか分かりづらい。

 しかし、とにかく歩くしかない。

(先の王たちは水に濡れることを厭わなかったのだろうか)

 もちろん、別の場所にあるであろう出入り口の方を利用していたのだろう。濡れ鼠の男なんて目立つに決まっている。おそらくこの井戸は他の通路が使えなくなってしまった際の予備だったのではないかと考えた。

 全身がびしょ濡れである。一応懐を確認してみたが、マエラから賜った仮面は無事なようだ。

 目の周りを拭うと、少しぬるぬるした。なんだと思って確認すると、マエラにしてもらった化粧が少し崩れてしまっていた。この通路に入るため入水は避けられなかったわけが、これ以上化粧が取れてしまうのは避けたい。なるべくあの奇妙な青痣は隠しておきたかった。ユグムは顔を拭うのを我慢して、自然に乾くのを待つことにした。

 ユグムは髪の毛や服を絞って水気を取りながら歩く。通路の続く方向は間違いなく、ユグムの住まう王宮殿だ。

 しばらく長い一本道が続いた。空気が薄いこと、湿度が高いこと、さまざまな要因が暗闇をただ歩くのみの作業を更に厳しいものにする。額から汗が垂れるのがまた鬱陶しい。

 とうとう変化が起きる。行き止まりだ。水路はまだ奥まで繋がっているため、正確にいえば違うかもしれないが、人の通路として作られた洞穴はここで終わっている。

 代わりに、体を傾けられれば通れそうな、狭い横穴があった。まず覗いてみると、向こう側に空間があることがわかる。ユグムは地面から適当に小石を拾って、向こう側目掛けて投げてみた。小石の落ちる音から、その空間がかなり奥の方まで続いているとわかった。

 ユグムは横穴に体を差し込んだ。ユグムがやっと通れる幅で、気を抜くと頭をぶつけてしまいそうだ。

 体をずらすようにして一歩一歩慎重に横穴を進んでいくと、不意に、首の後ろが泡立つような嫌な気配がした。まずい、と思ってユグムは移動速度を早めた。横穴の岩壁のあちこちからぬらりとした黒い藻が染み出してくる。徐々に規模が大きくなり、黒い藻はユグムに興味を示しているのか、彼の輪郭をなぞる。

 ユグムはそれらを全て無視して、急いで横穴を脱出した。横穴を出た際に反動で転がる。受け身をとって素早く体を起こしてから、自分の体に壁から沸いた藻がはべりついてないか確認した。黒い藻はユグムの肩や肘に引っかかっていたので、手で剥ぎ取って地面に投げ捨てた。投げ捨てられたそれは、地面の上で控えめに動いている。

 横穴を見ると、恐ろしい惨状になっていた。うねうねと波打つ黒い藻が横穴にびっちりと詰まっている。それに対して、嫌悪感以外の感情が湧いてこない。

 人の手入れがない場所には、ああいうものが発生するのだ。これは腐食現象と呼ばれるもので、その空間が外なる存在らによって影響を受けていることを示す。腐食現象が起きて外なる存在が発生するのか、『外なる』存在が発生したことで腐食現象が起こるのか、その因果関係はよくわかっていないが、どちらにせよこの現象は人の手が及んでいない場所によく発生する。また病気や死に関する場所に起こりやすい。その対策が浄の作業であって、よって腐食現象を遠ざけるのだ。ユグムは立ち上がった。横穴はもう通れそうにないが、外に出る方法はまだ他にもあるだろう。

 ユグムはあたりを見渡して確信する。先程のお粗末な通路とは打って変わって、歩きやすいように敷石が敷かれているし、高い天井が崩れないように補強されている箇所があって、火をつけられるように松明の掛けられた燭台が点在している。こちらの道が、王が本来隠し通路として用いていた道だ。

 火種がないため灯りを灯すことは叶わなかったが、それ以外はだいぶ歩きやすくなった。しかし、ここからの通路は枝分かれしているようだ。全ての通路をしらみつぶしに見ていくことはできない。

 ユグムは頭の中で地上の地図を思い描いてみた。ユグムがこの通路に入るのに用いた井戸は、城壁内の北西のあたりだ。そして、通路は中央に向かって伸びていた。あの粗末な通路を歩いた歩数から予想すると、ユグムの目指す王宮殿まで届いていない。

 できれば方向を変えずに進みたいが、この通路はどのような作りになっているのか見当がつかない。なるべく方向が逸れない、中央の方へと進んでいる道を選んだ。

 ユグムが黙々と暗闇を進んでいると、腐食現象が起きている箇所がいくつか見受けられた。普段からこうであるのか、それとも国王の死によって発生したのか。ただ、この隠し通路は外なる獣が見られるようになったから封鎖されたのであって、危険なことには変わりない。

 ユグムは神経を尖らせて用心する。一応、ユグムは『獣』規模であれば一人で討伐した経験がある。外なる存在たちは、小さいのは『蟲』、少し大きくなると『獣』、手に負えなくなると『怪物』というように、規模によって呼称が変わるのだ。

 年に数回、狩りが行われる。国境から少し離れたところまで、具体的にいうと星泉の加護が薄らぐ場所まで出て、外なる存在らを駆除するのである。そうしないと住民や畑に害が出ることはもちろんだが、旅人や商人たちが利用する道が閉ざされてしまうからだ。国家間の往来をする人間がいなくなると、物流ばかりか外勢の情報も滞る。それを防ぐために、公共事業の一環として狩りが行われる。

 ユグムも狩りに参加することがある。ユグムの参加する狩りは普段のものとは少し異なり、どちらかといえば行事としての意味合いが色濃い。そういった狩りでは、代表者によって倒された『外なる』の、たとえば角や牙、そして目玉などをゾルノムに献上するという一連の儀式がある。だが、「代表者が倒す」とは言うものの、弱らせた獲物が用意され、後はとどめを指すだけといった、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。

 何度か「自分でやらせてくれ」と頼み込んだことがあって、一応他者の力を借りずに獲物を仕留めたことがある。「一応」というのは、ユグムが危なくなったらすぐに救援に入れるように後ろに沢山の兵士が控えていたからだ。その時は馬の形に似た、けれども頭に自在に動かせる一本の蔓を生やした獣を討ち取った。その時は、頭に張り付いている大きくて太い蔓をナイフで切り取って献上物にしたのである。

 この地下通路は、何年もの間駆逐作業が行われていない。井戸に水を運んでいたあの水路には、ゾルノムの加護が通りやすいのだろう、腐食現象はどこにも見受けられなかった。しかし、横穴に入った途端に腐食現象に見舞われた。ならば、ユグムはいつ襲われてもおかしくない。

 ーー来た。その時、ユグムは思った。首の後ろが粟立つ感覚。ユグムは歩きながらも身構える。姿は見えないが、確実に見られている。暗闇で鋭くなっているからか、はたまた呪いの影響で感じやすくなっているのか、ユグムは視線を浴びていることを察知した。

 耳を澄ますと、ずるずると何かを引きずるような音がする。音が反響しているのか、どこから音が発生しているのかよくわからない。

 ユグムは体制を整えて、何が起きてもすぐに対応できるようにした。そして、神経を更に鋭くさせ、一体この音は何によるものなのか探った。

 突然、後ろからびじゃんと水風船が叩きつけられるような音がして、ユグムは素早く振り返った。てらてらした桃色の大きな躯体をうねらせ、いたるところに生えている触覚が視覚の代わりになっているのか、右往左往動いている。湯気を立ち上らせているそれは、まるで巨大ミミズだ。あたりにミミズの体表を覆っている分泌物が飛び散っている。おそらく上から降ってきたのだ。

 ミミズは明らかにユグムに興味を示している。ユグムは走り出した。間違いなく、『こちらに属さないもの』だ。『怪物』までいかないが、大きい。あのミミズは、ほとんど通路の幅を埋めてしまっている。ああいった、体表に粘液を覆っている類の相手には、容易に触ることができない。ああいった輩が分泌する液体には大抵、人体になんらかの影響を及ぼす何かがあったりする。現在ユグムは帯刀していない。つまり、ミミズへの有効手段を持たない。

 ミミズは逃げるユグムを追いかける。しかし、巨躯ゆえにか移動はそれほど速くなかった。すると、ミミズはユグムに向かって口から何かを射出した。いくつも飛んで来るそれを避けようとするが、全てを避け切ることはできず、一つ被弾してしまう。強い衝撃で吹っ飛んで、地面に転がる。

「うわ!」

 ユグムに向かって飛んできたのは、あの姿をそのまま小さくしたミミズだった。本体と比べれば段違いで小さいが、それでも大きい。子ミミズは触覚を動かしながらユグムに張り付いている。突然先端が十字にばっくり割れて、鋭利な歯が露出した。ユグムは急いでローブを脱いで引っ付いてる子ミミズごと放り投げた。子ミミズが地面に叩きつけられ、ぶちゅっと水分量の多い物質の潰れる音が響く。

 ユグムの周りには射出された子ミミズでいっぱいだった。体が小さい分、奴らは俊敏に動く。触覚を巧みに動かして、ユグム目掛けて飛んでくる。再びユグムは走り出した。その間、ユグムは通路に点在する燭台が目に入った。ユグムは燭台に立て掛けてある松明を取って、振り回した。飛びついてくる小ミミズを松明で殴りつける度に、生肉が潰れる音がする。

 大量の子ミミズをいなしながら走っていると、突然、再び前方に巨大ミミズが降ってきた。ユグムの後方にいるあのミミズとは別個体だ。前後を巨大ミミズに挟まれ、また更に前方の巨大ミミズは、『何か』を吐き出すような動作をした。

 仕方なくユグムは横道にそれる。ユグムの後方で、二つのミミズから噴出された子ミミズ同士がぶつかり合う音が響いた。振り返ってみると、ミミズらはお互いを貪っている。見ていて気分のいいものじゃない。むごたらしい光景に思わずユグムは口元を押さえた。とにかく、再びユグムに興味を示す前に、この場から離れた方がいいだろう。道は当初の目的とは別の方向に伸びているが、あの道に戻ることはできない。

 井戸で隠し通路を見つけて、どのくらいの時間が経ったのだろうか。ミミズの襲撃があってから、自分の正確な現在位置が分からなくなってしまった。ユグムはあてもなく地下を彷徨うことになった。

 ユグムは立ち止まって膝に手をついた。空気の薄い場所で走り回ったからなのか、脅威に晒されたからなのか、気分が悪い。胸の周りにどろどろした不快感があった。嫌だな、とユグムは思った。先日の夜に感覚が似ているからだ。腐食現象に犯されている空間に長く居続けると、あちら側に引っ張られる作用が働くのだろうか、と考えを巡らせた。ユグムは胸のあたりをさすって再び歩きだす。とにかく、この症状の原因と要因がなんであれ、立ち止まってる時間なんてないのだ。


 しばらく地下道を彷徨った。もう、完全に現在地がわからなくなってしまった。下品な水音が響いてる通路や、腐食現象が激しい場所は、あのミミズを想起して迂回せざるを得なかったからだ。

 しかし、しばらく彷徨っていると、おや?と思われる光景に出会った。どうして疑問に思ったのか、些細なことだった。

 比較的多量の腐食現象が見られたために迂回した先の通路である。

「この燭台、最近使われていた形跡がある」

 ユグムは、ミミズから逃げるために思わず手に取った松明と、その燭台の松明とを見比べた。

「新調されている」

 触ってみると、その違いは明白だ。ユグムが振り回していた松明はささくれ立っているし、汚れているし、何より地下の水分を存分に吸って湿気っていた。

 決定的な違いは、先端に巻かれている布にある。手元の松明のものとは違って、火種となる油を吸った布はそこまで汚れておらず、最近に交換された印象を受ける。加えて木材はさらさらに乾いていて、長時間この地下に放置されたものだとは思えない。

 この発見に、とんでもない違和感をユグムは覚えた。

 ユグムがマエラの自宅で、独特のきつい香りがする茶を馳走になった時のことだ。

『今、そうやってカップを用いて茶を啜れることが、貴殿がまだ人の枠内にいることの証明じゃ。椅子に座り、姿勢を正し、カップを用いて茶を飲む。外なる怪物になってしまったら、このように人らしい行動が取れなくなる。しかし貴殿はそうではない』

 外なる存在が、暗い道を歩くために、松明に灯を灯すだろうか?松明を新調しようなどと思うだろうか?

 ーー明らかに、つい最近この地下通路を使用している『人間』が存在している。

 ユグムは、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 外敵の存在を意識したのだ。

 今まで築いてきた城の安寧が決定的に崩された瞬間であった。そして、ユグムは緊張と恐怖を受け入れた後、やっとのことで松明を新調した人間こそが、自分を呪った犯人かもしれない事に気がついた。

 そしてそいつは、父を殺した犯人である可能性が高い。

(……付近を調べてみた方が、いいかもしれない)

 ユグムは迂回しようとしていた通路に一歩、そして一歩と踏み出した。

 時折ユグムは黒い藻を厭わずに踏みつけて、深淵の通路を進んでいく。

 ユグムの皮膚の下で、何かが蠢くのを感じる。

 ユグムはそれすらも無視して、別に新しく松明が新調された燭台がないか調べる。

 ユグムを突き動かすのは、表面上の冷静さに隠された、底に沈んでいる怒り、そして憤りだ。

 しかしユグムは気が付かない。次第に、腐食現象はユグムを恐れるかのように引き波のごと消えていく。

 ユグムの動きは次第に洗練されていき、そして鬼気迫る空気を纏い始める。

 暗闇の雰囲気に引きずられているのか、それとも、内なる狂気に蝕まれているのか。

 彼はそのことに気がついていない。

 遠くで、ミミズたちが騒めく。その場に留まり、彼の狂気に全身の触覚器官を向け、体を委ね、そして魅了され恍惚と佇んだ。子ミミズらもそれに倣い、全ての感覚神経をおぞましい気が流れてくる方へと向けた。

 暗闇に飲まれるユグムの姿は、一体どんな形をしているのだろうか?


「ここで終わっている」

 ユグムは久々に声を発した。終わっている、というのは、松明が交換された形跡のある燭台を指している。

 ふむ、とユグムは頭をさすりながら考えた。

 ユグムが松明の交換に気がついてからここに至るまで、脇道は無かった。では、何故この通路だけ松明の交換が途絶えているのだろうか?

 ユグムは来た道を壁に手を当てながら引き返してみた。この地下通路を発見した井戸は、壁に擬態した入り口でこの通路を隠していた。もしかすると、また隠された通路や部屋があるのかもしれないと思ったのだ。

 しかし、結果はユグムの予想とは異なるものだった。特別引っかかるような感覚もなかったし、不自然な溝も見当たらない。

 ユグムは強く眉間に皺を寄せた。おかしい。おかしすぎる。隠し部屋も、通路もない場所に、何故光源が必要なのだ。

 絶対に何かがあるはずなのだ。

 ユグムはここで、自分のそもそもの思考が間違っているのではないかと考えた。

 ユグムは、これまで松明の灯りは移動に使用するものだと考えていた。大分この暗闇にも目が慣れたとはいえ、やはり移動を不便に思ったからだ。

 しかし、仮にこの松明を交換した人物がユグムを呪った術者本人だったとしたら、そもそも松明の灯りなど必要なのだろうか?

 ユグムは知っている。魔術師というものは、ありとあらゆる自然の中に揺蕩う力を借り、多少間違った表現になるのだが、無から有を生み出す技を使うのである。代表的なものは、火を起こしたり水を生み出したり、というところだ。実際には、魔導とは空中に漂う自然を形成する要素を波動によって組み替え様々な現象を起こすという技術なので、厳密には無から有を生み出しているわけではない。立派な技術の一つである。

 しかし技術といえどもこれには適性が必要で、例えばユグムは魔導はからっきし駄目であった。概要は学んだものの、その根源や力の循環について理解できなかった。波動は多かれ少なかれ誰しもが持っているもので、ユグムももちろん人並みにはあるらしいのだが、さっぱり才能が無いらしい。比べてアリーシアには才能があり、よくユグムに手本を見せてくれた。

 だからこそ、魔導の才が全くないユグムでも火種が無くとも手元を照らす方法がいくらでもあることがわかる。

 つまり、最初から術者には松明など必要ないのだ。

 では、何のために松明を新しくする必要があったのだろうか。

 『人の生活』を周囲に添えることで、外なる存在らを寄せ付けないためである。

 ここの近くに、彼らに荒らされたくないと思う何かがあるのだ。

 そして、通路を照らす必要がないのなら?

「上か」

 思わず声が出た。ユグムは高い天井を見上げる。天井は何もないように装っているが、一箇所だけ妙な凹みがあった。


 ユグムは、自らの体からすっと何かが引いていくのがわかった。それは、恐ろしさに血が引くのとはまた別の感覚である。頭が冴え渡り、今なら思い通りに体を動かせるような、錯覚に近いものだ。

 彼の頭から徐々に引いていったのは、彼を彼たらしめる感情。そして残ったのは、冷たい視線、全てを削ぎ落としたような冷徹な思考。しかし彼自身は冷静だ、際限なく。

 ユグムは、天井めがけて手を伸ばした。すると、ユグムの肩から指先までが、勢いよく歪な形に変形する。ユグムは理解していた。これは自分の一部であり、意のままに操ることができると。

 ユグムは容易に天井を探ることができた。疑わしい凹みの周辺をいじってみると、その周辺に怪しい一筋の青緑色の光が素早く四角を作って、なんだろうと思っていると囲われた箇所だけぽっかり穴ができた。

 ユグムは地面を蹴った。あそこまで跳ぼうと思ったからだ。跳躍によって容易に天井に届いた。ユグムは爪を立てて、四角い穴の内側に思い切り突き立てる。それが杭の代わりになって、ユグムは穴の中に留まることができた。

 ユグムが穴の中をあらためようとすると、再び変化が起こった。現在ユグムの足の下に位置する、地下道の天井が再び出現したのだ。それはユグムを支える足場となる。必要がなくなったので、爪を引っこ抜いた。

 ユグムが足を下ろすと、先ほどと同じ青緑色の光が足元を照らした。どうやらこの空間は螺旋状に上へと繋がっているようだ。

「一体、どこなんだ、此処は」

 こんな設備も空間も聞いたことがない。ユグムは知らない施設があることに薄気味悪く思った。

 ユグムは足元を薄っすら照らす灯に従って、上へ上へと進んだ。進む度に、青緑色の光はユグムの進む先をを丁寧に照らした。まるで歓迎されているかのようだ。

 螺旋の道はとうとう終わりを迎えた。扉だ。ユグムは手で押してみた。その扉は容易に開いた。

 

「なんだ、ここ」

 そのように口から漏らすほど、ユグムにとって馴染みのない場所に出た。

 扉の先は、部屋だった。独特な雰囲気に溢れた、奇妙な部屋だ。

 古い本、色とりどりの小瓶、ナイフ、大きな壺、杖、マエラの家を思い起こさせるような器具がいくつもあるが、どれもこれも彼女の家にあった物とは違う。この世のものとは思えない、明らかに自然の法則を無視した生物の装飾がしてある。具体的には、明らかに生きていく上で邪魔になるであろう大き過ぎる牙を持っていたり、おかしな所から用途が思いつかない腕がいくつも生えていたり、あちこちに異形の剥製が吊り下げられていたり、大変趣味の悪い様相だった。

 ユグムは恐る恐る手近なものを手に取った。盃のような形をしているが、実際には何に使われるのかはわからない。その盃は金属のような見た目をしているが、ほんのり温もりがある。視覚で得た情報と、実際に触って得た情報が一致しない。ユグムはその感触を気持ち悪く思った。

 これはまるでーー

「外なる存在が、そのままこんな姿になったかのような……」

 ユグムはぞっとするような気分になった。

 古の禁呪の使い手、マエラは確かそのように呼んでいた、と頭の中で反復した。

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