第6話 令和に帰りたい

五月。この日あおいは、久しぶりの休暇を満喫していた。

昼頃まで寝て、布団を敷きっぱなしのままで縁側に出て、昨日こしらえておいた、大きな握り飯をふたつ食べた。そして、また横になった。

あおいの部屋は、信長の居室の近くにあり、台所や、湯殿にも行きやすい距離だった。他の侍女は大抵、城下町に建てられた長屋で暮らしているので、城内の本丸に住んでいるあおいは異例であり、その事が、一層あおいへの反感を呼んでいた。

六畳一間の家は独立しており、小さな水屋もあった。ここは元々、茶室として利用されていたのだ。

「ご飯、炊いておこうかな?」

握り飯を平らげたばかりだが、大食漢のあおいは夕ご飯の事が心配だ。

初夏になり、日没の時間も伸びては来ているが、十八時までには支度を済ませておきたい。薄暗くなれば、燈明の明かりだけでは、心許ないからだ。

「そうだ」

窯で飯を炊いた後、急に何かを思い立ち、あおいは部屋の隅にある長持まで、だらしなく肘を這わせて辿り着くと、蓋を開けた。長持の底をごそごそと探し、「あった」と声を上げて喜んだ。

「懐かしいなあ」

あおいが、両手を広げて眺めるのは、高校の制服だった。戦国に来て三か月ほどが過ぎたが、色褪せはしていなかった。制服の上着を顔に押し当て、深く息を吸い込んだ。

あの頃の匂いがする。

「お母さん」

母の事が心配だった。自分がこの世界にいる間は、一人で暮らしているのか?それとも、令和は、令和時代のわたしがいて、普段と変わらぬ暮らしをしているのか?時は流れているのだろうか?

そんな事を考えていたら、涙が溢れてきた。本当は寂しくて、寂しくて仕方がないのだ。ほぼ毎晩不安で心が壊れてしまいそうになる。夜の闇が、永遠に明けないような気がする。

ふと思い立ち、制服に着替えてみた。信長に小便をかけられたローファーは、あおいが目覚めた時、既に捨てられていて無かったが、靴下、下着は洗って保管してある。

着替え終わり、姿見代わりに手鏡を工夫して全身を映してみようと、身体をくねっていたら、挨拶もなく信長がやってきた。

「はっ殿」

固まったまま、数秒間信長を見ていたら、信長の視線が、敷きっぱなしの布団に向けられていることに気づく。

「あっあっ、かっ風邪気味で」

制服姿のあおいは、自分の額に手をやったり、汗もかいてないのに、首元を指先で拭ってみたりしていた。

「熱があるのか?」

そう言うと、信長はあおいに歩み寄り、額に手を当てた。

「そうか?」

首をかしげながら、信長は自分の額をあおいの額にくっつけた。あおいの黒目がちの大きな目が中心に寄る。両手を胸の前で抑えているが、心臓の音が信長まで聞こえそうで恥ずかしい。同時に顔が火照って行くのがわかる。

「熱はないな」

信長は言いながら布団の横を通り、縁側に抜けた。立ったままで、腕組みをし、露地を挟んだ向かいにある多門櫓を眺めた。

「殺風景だな」

「来た時よりも、緑が増えました」

布団を畳みながら言ったので、あおいの声は息切れしていた。

茶室の庭として作られた露地は、苔が張り巡らされた中に飛び石が数個あるだけの質素なものだった。庭を仕切るものはなく、多門櫓が塀の役目をしている。

「麦湯しかありませんが」

盆に乗せた麦湯を、信長の足元に置いた。信長は湯飲みを鷲掴みにし、品定めをしている。

「勝手に使わせて貰っています」

麦湯の入った湯飲みは、この部屋に元々あった茶器を使用している。

「暑い日ゆえ、冷たい茶は丁度良い」

信長は胡坐を組んで座り、右手だけで茶を一気に飲み干した。

「もう一杯いかがですか」

あおいが、空いた茶器に手を伸ばしたが、信長は要らないと言った。

「里が恋しいか」

一拍置いた後、あおいに聞いた。あおいは、自分の服装を見返し、小さく溜息をついた。出会った時の制服を着ているあおいを見て、里が恋しいと信長は察したのだろう。

「寂しくないと言ったら嘘になりますが、どうしようもないこともあるのだと思うのです」

「どうしようもない?」

信長は自分の後ろに正座して座るあおいに向いて座った。

「尾張に来る以前の記憶を取り戻せない?」

「それもありますが」

あおいは、片手を額に当て、首を振った。

「帰れる時が来たら、帰りたい」

「そうか。そういえば、しっかりとお前の話を聞いたことがなかったな」

「出自に関してで、ございますか」

「ああ」

確かに、これまで自分の履歴を問われたことはない。何も聞かず、仕事と住居を用意してくれたのだ。そして、特別過ぎる待遇を受けていることに、あおいは改めて感謝した。

「父と母は健在か?」

はい、とあおいは答えた。父親が単身赴任しているから、母は一人暮らししていることは伝える必要がないと思った。説明が難しいのが理由でもある。

「十八歳ともなれば、嫁いでいるのか?子はあるのか?」

「いいえ」

この時代の十八歳は既に嫁いで子供を産んでいるのが普通である。

「心に決めた人は?」

「…それは、いまは曖昧で」

そう言って俯いた。

三か月も会っていない孝一のことを、彼氏と呼んでいいのかもわからない。幼い頃から知りすぎて、兄弟の様になって仕舞っているので、当時から恋愛とは、また少し違うような気がしていたからだ。しかもこの頃、信長を意識していることに自分でも気づく。時折、言葉に詰まるのも、信長への感情が邪魔しているのではと思っていた。

「で、あるか」

静かに言うと、信長はあおいに背を向けた。

「武家というのは、時に難儀なものである」

それだけ言って、信長は出て行った。

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