58.「にくめないひと」

「シロアッフに監視しろって言われた?」

「いえいえ、あの人は確かに私の上官ですが部署が別なので。責任の一端を担う者として個人的にあなた方を労おうとね、それだけです」


 そう言って事務官はメイベルが塞いだ隙間に体を押し込んだ。あなたは事務屋の分のビールを追加で一本、ついでに目に留まった煙草を一箱買った。奢ってくれるようなので、遠慮はしない。


「カートンで買っても構いませんよ」

「やめときなさい。後で何させられても知らないから」

「もうさせられているでしょう、誰もやりたがらないことを」


 あなたとカレンの首に縄が掛かっているのだ。やるやらないではなく、やるしかない。全力で抗えば逃げることは可能だろうが、それはカレンの母が吊られることを意味しているかもしれない。シロアッフはその可能性を口にはしなかったが、あなたは密かに恐れている。


 あなたは空になったビールのおかわりを頼み、新しい煙草の封を切った。まだ前のを吸いきっていないが、気分転換だ。


 ところが強いミントのような匂いがして、失敗だったかとあなたは顔を顰める。他人の金で買ったものだが、あまり好みではない気がした。


「ここではその銘柄しか置いていませんよ。悪臭の絶えない職場ですから」


 事務屋はあなたが買った銘柄と同じ煙草を吸っていた。実際に火を付けた時の香気は封を切った時より強烈で、多少のヤニ臭さに目を瞑れば香水としても機能しそうなほどだ。


「……シロアッフさんと仲が悪かったり、します?」

「なぜそう思うんです?」

「あ、いや、なんとなくの雰囲気、です」


 しどろもどろになったカレンを見て、事務屋がふっと笑った。それは『なにもないよ』といったニュアンスの笑みに見え、実際に事務屋はそう言った。


「そんなことないですよ。完全に一枚岩とは言いませんが、迷惑を掛けたり掛けられたり。あなた方の社会とさして変わりはありません」

「上が揉めるのは自由だけど下に迷惑かけないでよね」

「あなたの分まで火の粉を払っておきます」


 事務屋は用済みになった吸殻を灰皿に捨て、二本目に手を伸ばす。見た目によらずヘビースモーカーのようで、あなたはそこに若干の好感を抱きつつあった。


 吸う速度も並大抵ではなく、たったの一口で四分の一を炭に変えてしまう。煙草から舞い散る激しい火の粉は、なんとなく彼女の抱えるストレスを連想させた。


 その様子を見て、メイベルが言った。


「……あんた、中間管理職とか?」

「個人的には『敗戦処理係』だと思ってますが、書類上はまぁそうなんでしょう。自分の生活も管理できていませんが」

「じゃああんたに盗聴の文句言っても仕方ないわね」

「誰に言っても無駄ですよ。保安上の理由で全員の部屋が盗聴されてますから」


 事務的な笑いが酷く空虚に響き、寒空に消えていった。煙草はもう半分炭になっている。


 一体どこに笑う要素があったのかあなたには分からない。余程疲れているのか。


「もう一つ聞いていい?」

「ええ、私に答えられる範囲なら」

「あんた名乗りに来たんじゃないの?」


 事務屋は顎に手をやり、はっとしたような表情を見せた。


「またも名乗り遅れたようですね」

「まあ知らないなら知らないでいいけど」

「これは失礼、私はニーナを申します」


 うら若いヘビースモーカーはニーナと名乗った。彼女はまたも新たな煙草に火を付け、メイベルに進捗を訪ねた。


「捗ってます?」

「あまり。次から魔術を使うわ」

「どのような? 一帯を消し飛ばされては困るのですが」

「ちょっと剣の切れ味を良くするだけよ」

「本を無事に回収できるなら何をしても構いません」

「言ったわね」

「……私の仕事が増えない範囲で」


 ニーナは自らの失言を悔いる素振りを見せた。彼女が身を置く地位では武器よりも発言が力を持ち、それによって容易に身が滅ぶことを知っている。しかしメイベルもあえて迷惑を掛ける気はなかったようで、それ以上何も言わなかった。


「シロアッフに伝えといて、二週間じゃ終わらないかもって」

「……後二日待って駄目そうなら、言っておきます」


 二週間があなたに与えられた時間だが、ここに来るだけで凡そ三日が経過している。単純計算で行き帰りに六日を要するなら、仕事に使えるのは八日しかない。実際にコトに当たるまでは軽く見ていた面はあったが、進捗の悪さを目の当たりにすると期限内に終わらせる自信があるとは言えなかった。


「早めに言った方がいいんじゃないの、そういうのは」

「色々と調整が必要なんです。伺いの伺い、報告書の報告書みたいに。ただでさえ我々は多くの問題を抱えているのです。物事は可能な限り整理した方が良い」

「ふーん……」


 沈黙が広がり、あなたの耳は再び雑音の隙間を捉えた。ばたばた、ばさばさと聞こえる。先程も聞こえた、布が風にはためくような音だった。


 一体何なのかとあなたは尋ねようとしたが、カレンが口を開く方が早かった。


「さっきから音がしませんか?」

「ん、私も聞こえてる」

「肉を焼く音ですよ。言ったでしょう、夜になると侵食が増すと」


 夜までには必ず引き上げる。それは何度も繰り返し聞かされたルールだが、実際にその様子を見たことはない。


「見に行きましょうか。面白くはないですが」

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