41.「有限の希望」

 時計塔の鐘の年季の入った響き。まずは一回、それからやや間を置いて五回、モールス信号のように聞こえた。一と五、すなわち十五時を知らせる合図だ。


「良い時間ですね、お茶にしましょう」


 ルフィナの声、もう一人が奥に引っ込む。最早見慣れた光景だ。


 ここで食事をするのはこれで二度目になる。ほんの数時間前、昼食にパンとスープを頂いたばかりだった。あなたは遠慮なく食べたのでまだ満腹感があるが、メイベルはあなた達と違って長いこと頭脳労働に従事している。糖分は助けになるだろう。


「ん、そこ置いといて」

「紅茶が冷めますが」

「……じゃあ頂くわ」


 開いていた本はそのままにして、メイベルは姿勢を正してテーブルに置かれた小皿を手に取った。一口サイズの茶色いケーキだった。ちなみにあなたはもう食べた。具体的に何の味なのかは分からなかったが、甘いことはあなたにも分かった。


「どうです、進捗は」

「まあまあね。ざっと全部読んだし、今は気になる所もう一回読んでる」

「それは良かった」


 一口でケーキを食べ、紅茶を飲むとメイベルは再び作業に戻ってしまった。今のところトラブルの予兆もなく、あなたとカレンは退屈している。


 眠くはないが、気分転換が必要だった。あなたは煙草を一本取り出し、ルフィナに何処か吸える場所はないかと聞く。


「ここで吸って結構ですよ。一本頂けます?」


 ルフィナも吸うとは意外や意外ではあったが、一本くらいどうということはない。あなたは手に持っていた煙草を咥え、箱を振って一本差し出す。彼女はそれを摘まむと、慣れた手つきで指先に火を起こして着火した。


 息を吸うと、それに呼応して火が勢いを増した。先端から紫煙が立ち昇り、行き場をなくして部屋の中を彷徨っている。今のところ、ルフィナに窓を開ける気配はない。


「窓開けて、臭いから。あと紙と書くもの頂戴」

「ええ勿論……一枚で?」

「いっぱい」


 今度は珍しく、ルフィナが動いた。立ち上がって窓を開け、棚から束ねた紙とインク、万年筆を取り出してテーブルに広げる。メイベルはそれを一瞥すると、形式的な会釈をして受け取った。


 万年筆を手に取り、さらさらと一切の迷いなく何かを書き連ねている。


 カレンはどこか緊張した面持ちで、所在なく身体を揺らしていた。


「乾燥してますね。もう少し湿度を与えた方が香りが出ますよ」


 あまりに唐突すぎて最初誰に言っているのか分からなかったが、ルフィナの目線であなたに語り掛けているのだと分かった。手元で弄んでいる半ばまで吸った煙草からして、恐らく煙草の話だろうと当たりをつける。


「ええ、煙草の話。湿らせた方が喫味は豊かになります。ご存知なさそうですね」


 忘れがちだが、あなたはウェイストランダー。吸えるなら雑草すら紙屑で巻いて吸ってしまう生き物なのだ。煙草の調節などには、全く縁がない。


 見た所、ルフィナは随分な愛煙家らしいが。


「別に四六時中吸ってはいませんよ。ある時だけ、です。頭も冴えますし」


 魔術師は頭脳労働だ。常に頭をクリアに保ち、必要な時には最大のスペックを発揮させる。それが至上命題である。


「体に悪いとか肺に良いとか色々聞きますけど実際どうなんです?」


 カレンが尋ねた。彼女は非喫煙者だ。 


「さあ、どうでしょう。魔術師はベッドで死ぬことはありませんから」

「だからって痛めつけることもないでしょうに。身体が資本よ」

「うふふ、いかにも」


 ルフィナが何を考えているのか、あなたにはよく分からない。常に曖昧な微笑を浮かべ、綺麗な碧眼は澄んで底が見えなかった。


 あなたはぬるくなった紅茶を一気に飲んで口内に残るヤニの苦みを一掃した。甘い香りの茶葉、品種は分かろうはずもない。


 メイベルが右手で世話しなく書き綴るまま、あなた同様に紅茶を飲み干した。


「おかわりどうですか?」

「計算中、黙ってて」

「あら……」


 メイベルのそっけない態度もあなたにとっては馴染みのものだが、ルフィナはどう受け止めているのだろうかとあなたは考えた。あの微笑の奥にはタールのようにどろどろした黒い感情が渦巻いている可能性だってある――本人は他人からどう見られているかなど気にしないだろうが。


「……出来た、ほら」

「あらあら」


 今やメイベルが書き上げた紙の厚さはちょっとした参考書程にもなっていた。乱雑に積まれたそれを軽く揃えてぶっきらぼうに突き出す。


「走り書きだけど勘弁ね」

「ええ……結論を先に教えてもらえます?」

「実現する可能性は零よ」

「どういった意味で」

「解はあるはずよ、有限個の。でも他の無限個の可能性がそれを邪魔する。有限を無限で割って、零」


 何かしら無言の呻きを発し、ルフィナは渡された書類を読み始める。それもそこそこの速さで。速読と言っても良いだろう。


 メイベルは続ける。


「自然現象を魔術演算で実現するのは可能かもしれない。けどどう見積もっても時間がかかりすぎる。考え得る最速の速度でも約三千五百億年ってとこかしら」

「……私達は無限に挑んでいる」

「勝敗は見えてるわ」


 無限の計算速度に挑む無謀な試み。無限と言う絶望的な壁を、彼女たちは越えようとしている。


「無限の創造に無限の情報は必要ありません。色の異なる二色の板を非周期的に並べると、それだけで無限の組み合わせが生まれることは実証されています」

「無限の情報量に世界は耐えられるかしら。あんた責任とれる?」

「私達は魔術的禁欲主義を全面的に支持しています」


 魔術的禁欲主義は単純な理論だ。『完成した物がどう使われようが知ったこっちゃない』それだけの簡単な話。


 仮に全人類が滅亡する装置を造ったとして、それが実際に使われても責任は取らない。完成品に対する一切の責任の放棄。


「世界が内側から丸ごと弾け散るかもしれないわ」

「それは重大ではありますけど、研究を中止する動機としては弱いですね」

「……困るのよ。あんたの気分で天気が変わるようじゃ、洗濯物も干せない」


 自然現象を脳内で再現し魔術を行使する。これは自己と世界の境界線を消すことに繋がるとメイベルは考えている。最大の懸念もその点だった。


 つまり、考えたことが全て実現してしまう。雨が降れば良いと思えば雨が降り、晴れを望めば雲が掻き消える。もし破滅的な思考に至ろうものなら、それは実際に破滅を意味する――ルフィナの提出した論文には、それを防ぐ方法はおろか、考慮した形跡すらなかった。


「それは……確かに困りますね」


 ルフィナが微笑を強くした。確かに、感情ある笑みだった。


「ほら、持って来たわよ」


 メイベルが代表して、シロアッフに本を手渡した。表紙には『魔法陣演算理論の展望と可能性、第三巻』とある。


「お見事。それで……彼女らは諦めたか?」

「諦める訳ないでしょ。少なくとも有限数の解があると分かっただけで大きな成果だって言ってたわ。その前向きさは見習いたいけど」

「まあそんなことだろうと思ったさ。ま、彼女らの研究がいずれ役に立つかもしれん」


 シロアッフは笑っていたが、無意味な感情のない笑みだった。


「何はともあれお疲れだった。明日は休むといい」

「久々に頭使ったから助かるわ」

「お休みあるんですね……」

「最初は使い潰そうかとも考えたが、最近の働きぶりを見て考え直したよ」


 使い潰せるものならやってみろと、あなたは内に殺意を滾らせる。あなたはこの男がどうにも気に食わない。


 ここで働く全員を殺してやっても良い、あなたは本気でそう考えている。この立派な建物は、全員の墓標としても不足はないだろう。


「今日はこれで解散だ……報酬を渡しておく」

「えっ、報酬が?」

「忠誠心は金で幾らか買えるんだ。覚えておくと良い」


 三つの小さな巾着袋がそれぞれ配られた。メイベルが一番多く、あなたとカレンは同額でたいした額ではない。


「で、次は何処に行かされるわけ?」

「西に向かって頂こう。長旅になるが、物資はこちらで準備する」


 それで解散となった。


 あなたは全員で夕食に行くつもりだったが、メイベルが疲れていると拒否したのでカレンと夕食を共にして、その日を終えた。

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