4.「森の主」

 夜明け前、あなたは村の外れにある簡素な小屋を訪れていた。指示された通り、部屋の中心に座って周囲を見渡す。


 朽ちたサイドテーブルが安置されており、何本かの太い蝋燭と鹿の頭蓋骨が一つ置かれている以外には何もない。如何にも秘密の儀式が行われていそうな部屋だ。


 不穏な気配を感じ、あなたは思わず身震いした。ふと、外がにわかに騒がしくなる。静かに扉が開き、一人の老婆が姿を表した。


「初めてお目に掛かるね。私が村長だよ」


 あなたが滞在の礼や挨拶に行けなかった事を告げると、老婆は僅かにほほ笑んだ。


「君がこの村を訪れたのは知っていたよ。気を悪くしないで欲しいが、君の近くにいると不安になるのさ。きっと、他の人間には無い秘密を隠しているんだろう?」


 あなたは何も言えなかった。言ってはいけないが、言わなくても全てを見透かされている気がして。


「準備はいいかい?」


 老婆は仕切り直したが、あなたには取るべき準備など検討もつかない。


「最初はそういうものさ、始めよう」


 老婆が近づいてきて、あなたは暗闇の中で初めてまともに老婆の姿を見ることができた。


所々に茶色いシミ――血液でなければいいが――が浮いたぼろ布のローブを纏い、同じボロで両目を隠している。失明しているのだろうか。その割には動作に迷いが無いが。


 老婆はローブのポケットから小さな瓶を取り出し、それをあなたの足元へ投げ捨てた。瓶が割れ、中身の液体が床に広がってあっという間に揮発する。不意を突かれたあなたは深く嗅いでしまい、激しく咳き込んだ。


「すまないね。魔女様なら道具になど頼らないが、私には資質が無かったんだ」


 突如、あなたを中心として輝く魔法陣が浮かび上がる。最初は一つの小さなものだったが、老婆が謎の言葉を呟くにつれ一回り大きな魔法陣が次々と増えていく。


 あなたは思わず目を見開いた。祈祷と聞いて精神的な安堵感を得るものとばかり考えていて、このような魔術的なものは想像していなかった。何やら物理的な効果がありそうだ。


「これで君は森に踏み入る資格を得た。もう瘴気に怯える必要はない」


 魔法陣が激しく炸裂した。真昼のように明るかった室内が再び暗闇と静寂に包まれる。あの光は外からでも見えただろう。それが合図だったのか、次々と村人が小屋に入って来る。


 村人は手を繋いで円を作り、あなたを囲む。まるで魔法陣の再現のようだ。あなたと共に円の中心に残された老婆が全員に語り掛ける。


「今日、この良き日に我々は新たな友を迎えた。互いを知る時間は多くなかったけれど、彼の勇気に我々は敬意を払う。さあ、手を繋ごう。彼が戻った時、再会を喜ぶ為に。戻らなかった時、良き別れだったと言えるように」


◇ ◇ ◇


 あなたが西の森に踏み入ったのは夜明けと同時だった。しかし、うっそうと茂った木々が朝日を遮り、内側からはじっとりとした湿気を留めている。森の外と中では明らかに雰囲気が違う。東の森とは異なり、ここに生命の気配は感じない。


 時折吹く風の音以外に何も聞こえない森を歩いていると、あなたは自分がウェイストランドに戻ったような感覚に捕らわれた。あの場所に森があればきっとこんな感じだろう。所々に散見される奇妙な植物はまるで変異植物だ。


 ぱきり、と足元で何かが砕ける感触。あなたが目線を下にやると、獣の白骨化した死体があった。ヤマネコ位の大きさの、恐らくは哺乳類だ。無数の蔦に絡めとられて殆ど地面と一体化していたので、詳しくは分からないが。


 考えにくいが、もし哺乳類の死因が蔦だとすれば、あなたは地面を注視する必要があるだろう。ここではあなたの常識が意味を成さないようだ。ウェイストランドを歩くように、全てを監視し、臆病な兎の如き心を持たなければ。


 背後に気配を感じ、素早く振り返る。何も見えない――少なくとも目視では。いや、でも……恐ろしい獣が、今にもあなたの命を奪おうと息を潜めているかも知れない。周囲を囲む木々が未知の方法で牙を剥くかも知れない。今踏んでいる蔦があなたを先程の死体のように絡めとってしまうかも知れない。


 あなたは右手に握るブラスターガンの感覚を確かめ、疑心暗鬼に陥った思考を振り切った。疑心暗鬼は心の弱さだ。


 ここの場所はあなたにとっての恐怖、未知がひしめき合っているが、それに飲み込まれてはいけない。恐怖を無視するのではなくて、認めた上で制御するのだ。あなたが今までもそうしてきたように。


 嫌な気配は消えないが、これで良い。これがあなたの考えた森の主に対する作戦なのだ。神出鬼没の敵を狩るには、餌を泳がせるのが最適手段。あなたはルアーだ。獲物を前にして旨そうに踊り、食いつくのを辛抱強く待つ。あなたという生餌は、森の奥へと慎重に進んでいく。


 森に入って数十分、上り始めた太陽によって闇が少しずつ晴れてきた頃、あなたは木の幹に座り込んだままの遺体を見つけた。今度は哺乳類では無く、人間だ。


 既に白骨化し所々が欠損しているが、特に目を引くのはその体制だ。両手を喉元に伸ばし、口を大きく開けている。まるで窒息したかのように。表情など分からない筈だが、あなたはその人物の想像を絶する苦痛の表情を見た気がした。


 不意に風が吹き、黒い靄もやのようなものがあなたの元へ流されてきた。それを吸った瞬間、息苦しさを覚える。あなたは毒ガスを疑い、慌ててガスマスクを装着するが状況は変わらない。むしろ余計に息苦しくなった。


 あなたの脳裏に、老婆の言葉が浮かぶ――もう瘴気に怯える必要は無い――察するに、これが瘴気なのだろうか。


 魔術的祈祷を受けたにも関わらずこれほど苦しいのなら、本来はもっと致命的なのだろう。あの遺体の死因は瘴気による窒息死かも知れない。


 大人しくガスマスクを外し、ポーチに戻そうとしたその時、木陰から一匹の狼があなたを覗いていることに気付いた。


 目と目が合うが、襲ってくる様子もなければ逃げるそぶりも見せない。いささか不自然な状況に思わずブラスターガンへと手が伸びる。いざ引き抜こうとした途端、狼は脱兎の如く逃げ去った。


 いよいよ獲物が食いついたのだろうか。もしフェンリルが姿を現さないのなら、あなたの方から出向く必要がある。ブラスターガンを油断なく構え、狼の足跡を追い奥へ進もうとしたその瞬間。無数の視線があなたに突き刺さる。


 あなたはゆっくりと周囲を見渡した。敵が餌に食いついてくれたのは喜ぶべきだ。しかし、これ程の数が一度に釣れるとは思ってもみなかった。あなたは完全に包囲されている。


 狼の群れをかき分け、一匹の大きな狼を姿を現した。他の狼より二回りも大きく、黒い靄――瘴気を纏っている。収まり切らなかった牙が口から除き、全身に残る無数の傷跡はフェンリルと人類の闘争の歴史を如実に語っていた。


 危機的な状況だ。こういった状況で取るべき行動は集団の頭を無力化だと考えるあなたは、神速でブラスターガンの引き金を引いた。西部劇の真似事だが、狙いは完璧だった。が、肝心の弾丸は届かない。近くに控えていた狼が咄嗟にフェンリルを庇ったのだ。


 均衡が崩れ、群れ全体が騒めきだす。今にも総出で襲い掛かってきそうだ。


 あなたはベルトのポーチ、その中に入っている奥の手に触れた。缶コーヒー程の大きさの金属筒で、上部にはレバーと安全ピンが付いている。閃光手榴弾フラッシュバン、この距離ではあなたも被害を被るが、とやかく言っていられない状況だ。ピンを噛んで引き抜き、真上に金属筒を投擲した。


 垂直に近い放物線の頂点に達した瞬間、辺りを凄まじい閃光と大音量が包んだ。数値にして百万カンデラ以上、一七〇デシベルもの威力だ。人体においては方向感覚の喪失や難聴、一時的な失明を起こすほどである。


 あなたは眼を閉じてある程度の閃光は防いだものの、聴覚の損失までは防げなかった。だが、狼は瞼を閉じることも、耳を塞ぐことも出来なかったのだ。初めて味わう衝撃に、群れは大恐慌へ陥っていた。


 激しい耳鳴りの中、あなたはブラスターガンを周囲に連射した。狙いを定める余裕など無く、目についた獲物を片っ端から撃ち抜いてゆく。凄まじい威力の弾丸を浴びた狼は殆どが即死し、そうでなくとも四肢を失い死へと向かう。


 しかし、戦闘に置いて聴覚を失うというのは、判断材料が一つ減った事を意味する。それがあなたを窮地へと陥れた。


 右手に強く引っ張られ、抗えずに地面へと引き倒されてしまう。振りほどこうとするも、途方もない力だ。ブラスターガンが手元から離れ、四方八方へと無茶苦茶に引きずり回される。


 混乱する視界の中、あなたがどうにか認めたのは今にも右腕を食いちぎらんとするフェンリルと、こちらへ駆ける三頭の狼だった。この状態で狼たちに襲われようものなら、中世の処刑のように八つ裂きになってしまう。


 あなたは後ろ腰に挟んでいた小型拳銃――S&W M36を左腕で引き抜いた。装弾数五発、.38スペシャル弾という非力な弾丸を使う拳銃だ。この状況、特に獣相手に対しては十分とは言えないが、最早あなたに頼れるものは他にない。


 一発でも外せば死が近づく。あなたは冷静さを暴れる心に閉じ込め、迸るアドレナリンを原動力に引き金を立て続けに引いた。


 撃った弾は四発。そのうち外れたのは一発だけで、三発は見事に三匹の狼に命中した。残弾、一発。あなたは銃口をフェンリルの頭に押し付け、発砲。ほんの一瞬勝利が過るが、予想通り儚い希望だった。


 非力な.38スペシャル弾はフェンリルの頭蓋骨を撃ち抜けなかった。むしろ、返って闘争心に火をつけたのだろう。あなたの腕をより深く噛み、今度こそ引き千切ろうと全力を注いでいる。


 右腕の感覚が徐々に消え失せるのが分かる。最早格闘戦の道しか残されていない。


 あなたは必死の思いで体制を立て直し、フェンリルの背中に組み付いた。ブーツに隠していたナイフを抜き、延髄目がけて体重をかけて押し込んだ。


 刃が半ばまで刺さり、骨に当たり止まる――違う。首の太さを顧みるに、この程度では延髄に達しない。フェンリルが首の筋肉を硬化させ、延髄への到達を防いだのだ。ナイフを抜こうとするが、抜けない。筋肉の摩擦抵抗は人間のそれを遥かに凌駕している。


 どれほどの血を失ったのか、意識が遠のいてきた。ナイフは抜けない、武器は無い。そうくれば、首に刺さったナイフを押し込むしかない。生命の危機に瀕したあなたの本能が叫びをあげた。身体の奥底で何かが解放を求めて暴れ回り、溢れかえるほどのアドレナリンが筋肉を限界を超えて膨張させる。


 ナイフの柄に肘打ちを叩き込む。フェンリルが跳ね回り、あなたの背が木に叩きつけられようとも抵抗を決して緩めない。


 ――チャンスは唐突に訪れた。それは神のご加護でも、ツキが巡ってきた訳でもない。苦難に耐え続けたあなたが勝ち取ったものだ。


 激しいロデオのような突き上げに、あなたの身体が浮いたのだ。右腕が固定されたまま、胴体が跳ね上がる。必然、右腕を支点に勢い良く体全体が落ちていく。あなたは全体重を乗せ、胸骨をナイフの柄に叩きつけた。


 今度こそ刃が根元まで埋まる。枯れ木を折ったような音と共に、フェンリルの動きが鈍った。右腕が解放され、あなたを下敷きにする形でその巨体を地へ横たえた。


 しばらく苦し気に喉を鳴らしていたが、やがてフェンリルは動かなくなった。


 苦心してフェンリルの死体から抜け出し、あなたは自らの右腕が残っているか確認した。袖を捲り、腕を露わにする。


 血濡れで皮膚が見えないが、きっとボロ雑巾のように引き裂かれてしまっているだろう。アドレナリンが少しずつ失われ、引いては押し寄せる波の如き痛みが襲ってきた。だが、本当の地獄はここから始まる。激痛などという言葉が生温いほどの痛みが直に襲ってくるはずだ。


 ポケットから数少ないオキシコドンを数錠飲み、スキットルから度数の高い蒸留酒を掛け、包帯で傷口をきつく締め付ける。本当なら今すぐにでもベッドで眠りたかったが、周囲はそれを許してはくれない。血の臭いを嗅ぎ付けた獣がやって来るかも知れないのだ。


 あなたはフェンリルの首を切り落とし、ふらつきながら村を目指した。

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