2.「ラザロ」

 大丈夫――で――か……


 声が聞こえる。少女の声だ。

 頭がぐらぐらする。訳が分からない。まるで溺れているようだ。 


 あなたは全方位から襲い掛かる不快感から逃れようとして、身体を無茶苦茶に動かした。こんなものが死後の世界であってたまるものか。せめて安らぎをくれ!


 大丈夫で――


 身体が揺れている。精神が、世界が、存在が混ぜこぜになっていく。

 突如として、あなたの身体が凄まじい勢いで浮上を始めた。水中に生じた泡のように、上へ、上へ、光へ――


◇ ◇ ◇


「うわっ……あ、大丈夫ですか!?」


 あなたの眼前に少女の顔が広がる。


 反射的に突き飛ばそうとしたが、出来なかった。身体が重い。体内から何かが這い上がる。あなたはそれを体外へぶちまけた。それは大量の水だった。あなたはそこで初めて、自分の身体がずぶ濡れになっている事に気付いたのだ。


「落ち着いてください。分かります? あなた溺れてたんですよ」


 黒髪の少女が指さす先には川が流れていた。そこまで大きくは無いが、成人の腰までの深さと緩やかな流れがあるようだ。人が溺れるに十分な条件が揃っている。

 あなたは自分がどうして川で溺れていたのか、ましてやなぜ生きているのか皆目見当もつかなかったが、少女に感謝を伝えた。


 少なくとも、命を救われた事に変わりはない。


「いえいえ、偶然通りかかっただけですし、溺れている人がいたら誰だって助けますよ」


 その言葉にあなたは衝撃を受けた。溺れる者は身ぐるみを剥がせ。そう学校で教わらなかったのか?


 あなたは自分の身体を調べたが、何一つ失われていない――いや、ブラスターガンが見当たらない。確かに手に持って居た筈だ。もしかすると川に流されてしまったのかも。


「探し物はこれですか?」


 ブラスターガンは少女の手に握られていた。銃口があなたに向いていて少々危なかったが、礼を言って受け取る。


「これって魔道具ですか? 初めて見ましたけど……よく見たらあなた旅人みたいな恰好をしていますね。名前、教えてもらっても? 私はカレンです」


 あなたは自分の名を名乗った。


「この辺りじゃ聞かない名前ですね。眼も黄色いし、遠い所から来たのかな……」


 少し落ち着いてきたあなたは周囲を見回した。ここは……森、と言うのだろうか。

 見回す限りの大自然。写真でしか見た事の無い場所にあなたはいる。随分と遠いところまで来てしまったらしい。

 川のせせらぎに小鳥のさえずり、生きた土地の香り……こんな場所が、まだこの世界に。


「どこから来たのか教えて貰えませんか? お話し、聞きたいです」


 あなたは自らがやってきた世界ウェイストランドの話をした。僅かに生き残った人類と、覇権を握らんとする異形どもミュータントがしのぎを削る灰色の地獄。かつてアインシュタインが予言した第三次世界大戦後の世界だ。


「うぇいすとらんど……? 魔物なら分かるんですか……」


 違和感がある。土地が違えが表現も変わるものだろうが、これ程だろうか……?


「あっ、ごめんなさい。休む時間が必要ですよね。ついてきてください、家まで案内します」


 先導するカレンについて行く。道中はあなたにとって驚きの連続だった。


 時折獣の気配や雄叫びが聞こえるが、それ以外は呆れる程のどかで、美しい。この静けさは無数の生命が織りなすものだ。ウェイストランドのような、死が積み重なったものでは無い。


 カレンはきっと狩人なのだろう。弦で胴にかけられた弓と背負った矢筒、ベルトの右側に下げられたシースナイフを見てあなたはそう考えた。


 さっと腕を上げ、カレンが足を止めて体制を低くした。弓を手に取り、矢をつがえる。鋭い視線は熟練の狩人のそれだ。弦を素早く引き、矢が放たれる。何かに突き刺さった音と、獣の小さな悲鳴が響いた。


 カレンが木々に分け入り、矢を拾い上げた。矢じりには兎が刺さっている。


「さて、これで食事に一品増えましたね」


 彼女はユーモラスだ。


 しばらく歩いた先に、その村はあった。森を抜けた先、平坦な草原に幾つかの民家が集まっている。


 カレンに続いて村に入ると、あなたは多大な注目を浴びた。薪を割っていた男も、牛の世話をしていた男も、駆けまわって遊んでいた子供までもがあなたに注目している。


 あなたがずぶ濡れだからではないだろう。各所に補強が施されたロングコートに大きなバックパック。周りの服装に対して、あなたは明らかに浮いている。


「旅人かな?」

「お話し聞かせてもらおうよ」

「お前たちは家に入ってなさい。ほら、行った行った」


 子供たちが家に隠された。あなたは警戒されているようだ。長く滞在するつもりなら、どうにかして信頼を得る必要があるだろう。自分の居場所は自らで作り上げるものだ。


 あなたは小さな疑惑を抱きつつあった。この村は無防備すぎる。ウェイストランドでの居住区は高い壁に囲まれ、その上にずらりと防衛兵器が並んでいるのが常だった。略奪者やミュータント、そこの住民以外の全てから身を守る必要があるのだ。


 だが、ここは……一応壁はある。家畜の脱走防止の隙間の多い木の柵だが。成人なら簡単に乗り越えられるし、“ここから先に入るな”という精神的警告程度の効果しか持たないだろう。


 住民も奇妙だ。武装している者は見かけない。唯一武器として使えそうなのは薪を割っている男の斧ぐらいに見える。服装は簡素で前時代的。あなたのトレンチコートとは大違いだ。


 もしかすると……あなたは本当に遠くまで来てしまったのではないだろうか。物理的な距離では無く、より本質的な――具体的には死を迎えた事に起因する、魂などが遥か遠くへ飛ばされてしまったのでは……


「どうしました? 着きましたよ」


 カレンの声ではっとしてあなたは我に戻った。小さいが立派な小屋に入っていく。


「ただいま、母さん」

「お帰り……その方はどうしたの」


 家事をしていた一人の女性が出迎えてくれた。美しい黒髪に、整った目鼻立ち。成程、カレンによく似ている――母のようだ。


 しかし、あなたはカレンの母が後ろ手にナイフを掴んだのを見逃さなかった。


「大丈夫、旅人さんだよ。川に浮いてたの」

「カレン、いくら見かけは無害そうでもね、そうやって知らない人を家に連れてくるなんて!」

「父さんなら、きっとこうしたでしょ」


 その言葉を聞いた母が少し逡巡し、ナイフを置いた。


「いいわ、入りなさい。妙な気は起こさない事ね」


 頭を下げ、あなたは奥に踏み入った。カレンから服を乾かす許可を貰ったので、暖炉の前に置かれた木のラックに濡れたトレンチコートを掛ける。暖炉の中では網に乗せられた肉が焼かれていた。


 流石にシャツやズボンを脱ぐわけにはいかない。暖炉の前でじっとしていれば乾くだろう。


 そこで初めて、あなたはシャツの右脇腹付近が赤く染まっていると気づいた。捲りあげると、深くは無いが切ったような傷がある。どこかで切ったのだろう。この程度なら何日か放っておけば塞がるだろうが、念のためにスキットルから度数の高い蒸留酒をかけて消毒した。鋭い痛みと、品の無いアルコール臭を感じる。


「……傷が治るまではいていいわ。勿論、何かしら役には立ってもらうけどね」


 幸い傷の治りはかなり早い方だ。滞在はそう長くはならないだろう。それに、礼儀の返し方もあなたは心得ている。ポケットから幾らかの代金を支払った。


「何よこれ、金じゃないわね……銅か何かで出来た木の実の模型かしら」

「見て母さん、ここに丸く印が付いてる。押してみようか」


 弾丸の雷管を押そうとするカレンを見て、あなたは血相を変えてそれを取り上げた。冗談じゃない! もしかして弾丸すら見た事が無いのか?


 驚いた表情の二人には悪いが、取り上げて正解だ。後少し遅ければ大惨事が起きていたかもしれない。


「残念だけど、その通貨? はこの国じゃ使えないわよ、旅人さん。あなたが何処から来たか知らないけど、この国の通貨はこれなのよ」


 カレンの母は机の引き出しから何枚かのコインを取り出した。歪な形をしているが円形で、金、銀、銅でそれぞれ作られているようだ。中央には見知らぬ男の顔が掘られている。

 一つ分かった事がある。この国では弾丸は通貨として使えない。今のあなたは全くの一文無しだ。


「成程、あなた一文無しって訳ね」

「ちょっと母さん……」

「……追い出したりはしないわよ。ただし、役に立ってもらうって言ったわね?」


 あなたは頷く。


「明日からカレンの狩りを手伝って貰うわ。兎の一匹ぐらいは持ってくるのね」


 動物狩りよりも人間狩りの方があなたは得意だったが、それだけでこの素晴らしい場所に滞在できるなら安いものだ。あなたは条件を飲み、成果を約束した。


 恩を返すのは当然だ。あなたを人間たらしめる最後の心情でもある。


「よろしい。さ、座りなさい。夕食よ」


 促され、テーブルを囲む三脚の椅子の一つに腰掛ける。夕食は肉入りの茶色いシチューとパンだった。多分、さっき暖炉で焼かれていた物だろう。何の肉だろうと関係ない、食べることさえ出来れば。


 茶色いスープを木製の匙で掬うと、小さな穀物と野菜が見て取れた。口に含む。


 やや癖のある風味と、香草の風味、穀物の滑らかな舌触りを感じる。恐らく獲物の血液まで利用しているのだろうが、香草や野菜の溶けだしたエキスが上手く調和を取っている。肉も完璧だ。生まれて食べた肉の中で一番旨い。


 パンだってそうだ。焼かれてから時間が経っているのか少し硬いが、本物のパンだ。あなたが慣れ親しんできたおがくずを混ぜた地獄パンではない!


 思わず潤む瞳を抑える。二ヶ月間乾燥肉と石のようなチーズで過ごしてきたあなたには大きすぎる衝撃だった。


「旅人てのはそんなに酷い暮らしをしているものなの?」


 カレンの母があなたの様子を見かねて言った。

 きっとあなたは感覚が麻痺していたのだ。生まれてこの方そんな生活をしていたのだから、それが普通だった。


 あなたは返事もそこそこに、美味しい食事を食べ進めた。


◇ ◇ ◇


 食事が終わり、睡眠の時間だ。この家に部屋は二つ……あなたのベッドは無い。


「あなたは外へどうぞ。朝食は用意してあげるから」


 あなたはの寝室は家の側になった。問題は無い。キャンプなどお手の物だ。

 丁度良い木と枝が傍らに落ちていた。簡素なフレームを築き上げ、バックパックからポンチョを取り出してテントのように組み上げた。簡単だが、雨風と周囲の視線は遮る事が出来る。


 夜になると少し肌寒い。環境を見るに恐らく春の中頃だろうか。気を付けないと体調を崩すだろう。毛皮のロールマットを敷き、封筒型レタングラーの寝袋を設置した。小さなオイルランプに火を灯すと、ぼんやりとした薄明かりがシェルターに広がる。


 あなたはブラスターガン――AW-B23をホルスターから引き抜き、検める。


 残弾表示は四三発、予備の弾倉は二つだ。何処にも傷や歪みは無く、安全装置も指紋認証も問題なく機能している。


 ――きっと、ここはウェイストランドではないだろう。死後の世界か、幻覚を見ているのかは分からない。だが、確かにあなたはここで生きている。


 謎は多い。


 どうしてあなたは生きているのか。ここは何処なのか。何故言語が通じているのか。奇妙だが、あなたが聞き、話す言葉はあなた自身も知らない言葉だ。なのに、身体に翻訳機が付いているかのように自動的に翻訳されている。


 謎は、多い。


 この生活を享受するにも、謎を解き明かすにも――明日目が覚めると、今度こそ死んでいるかもしれないが――


 まずは、生き残らなければ。

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