Dead end

Sanaghi

第1話

 もしも逆ならば——つまり、亡くなったのが自分で、彼が海に散骨する立場だったならば、大騒ぎだっただろう。と、船に揺られながら考えた。阿賀野というアーティストは、顔立ちも整っていて、背丈も人一倍高い。なにより、メディアの露出は決して少なくなかったから、同船している乗客のなかには彼のことを知っていて驚く人もいるかもしれない。いや、いくら有名人がいるからといって、とてもそんな気分にはならないだろう。自分がいま、彼が亡くなった事実に対して現実感がないだけで、本来、「死」とは、もっと荘厳で、悲しいものであったはずだ。だというのに、太陽は高く登って、空は清々しいほどに青い。たしか、祖母が亡くなった時もこんなふうに天気は晴れやかで、世界は彩りにあふれており、自分だけが色褪せてしまったみたいだ。船が出港してから、二十分ほど経っただろうか、港はずっと遠くになり、ぞろぞろと並んでいた漁船は、細くて白い線の束のようだ。


 今日は随分と暑い日ですから、と葬儀屋の担当者が自分にペットボトルのミネラルウォーターを差し出す。自分はそれに少しだけ口をつける。船のそばをウミネコがぐるりと回るように飛んでいた。散骨している自分たちの様子が、餌やりの観光船と重なって見えるからだと担当者が説明をする。どうせならば、すべて攫っていってくれないだろうか。


「どうか、このことは、我々関係者だけの内密にしていただけませんか」


 阿賀野が亡くなった翌日、マネージャーである瀬尾は彼の関係者を集めてそう話した。「集めて」とはいっても、阿賀野はデスクトップミュージックを専門とする、ひとりきりのアーティストで、バンドグループのように他のメンバーがいるわけではないから、そこにいたのは彼の友人であった自分と、阿賀野の母、事務所の社長のたった四人で、病室の扉についている窓からその様子を覗けば、我々は家族のように映ったかもしれない。それほどまでに静かで、小さな集まりだった。


「それは別に構いませんが」僕は戸惑った。「なぜ、そんなことをする必要があるのですか?」西日を受けて、ベッドのそばにある机の、その上に置かれた花瓶から、影が彼のいたベッドに手を伸ばしていた。社長が瀬尾の一歩前に出て口を開く。

「彼には、まだ働いてもらわなければいけないのです。


 彼の影響力は——あなたもご存知の通り——社内外問わず非常に大きいもので、彼の死が明らかになれば、ウチの経営も傾きかねないのだから」


 彼がD.e.a.d.(Digital employment/economy after death)について説明していることは、自分も阿賀野の母もすぐに理解できた。それが社会的なムーブメントであると同時に、彼らがアンチテーゼを掲げることによって商売としてきた部分でもあったからだ。比較的若くして亡くなった阿賀野だったが、それを補ってあまりあるほどにデータの収集は用意だろう。テレビ、ラジオ、SNS、彼の部屋のラップトップに眠っている、いくつもの未公開音源。彼はそういった個人のプライバシーに関して言えば、ある程度オープンな性格だった。だから、技術的には不可能ではないはずだ。


「皮肉ですね。あれだけD.e.a.d.に対抗して『生きた音楽』とやらに拘っていたあなた達が、死んだ時のことを考えられなかったなんて」

「そんなものなど、世間に向けたアピールにすぎない。今、私の目の前に広がっているのは死者という資源によって繰り広げられたデジタル闘争だ。どれだけ売り上げを立てることができるか、どれだけ人を集めるキャンペーンを展開できるか。死者のデータを使った生者の時間を奪い合う、陣取り合戦だ。我々は『生きた音楽』を掲げてその争いから一歩距離を置くことができていた。しかし、阿賀野君が亡き今となっては」


 阿賀野をD.e.a.d.として再現復活するために厚生労働省へ提出する必要がある申請許諾書を渡しながら、今後の会社と遺族の関係について瀬尾が阿賀野の母に話をしている。彼女は最後に会った時に比べて目の下のホリが一層と深くなっていて、随分とやつれていた。「すこし、考えさせてください」と彼女は瀬尾にそう伝えた。


 ぶろぅ、と船のエンジンは調子の悪そうな音を立てて止まる。葬儀担当者が紙に包まれた遺骨と花びらの入った箱を自分に渡した。甲板に阿賀野の母の姿はない。遺骨は生前の阿賀野本人の希望で海に撒かれることになったが全部ではなかった。遺族である母の意向で、遺骨の一部が分骨され彼女の自宅近くの霊園に埋葬されることになった。だから、彼女がここに来ないことはなにも不思議ではない。海に散った花びらが不当に捨てられたプラスチックゴミに見えた。船がその周りを周回している。船主から伸びる鐘が鳴る。その音に驚いたウミネコがばっと散り散りに、遠くへ飛んでいく。


 俺が阿賀野とはじめて出会ったのは小学生のころだった。その時にはすでに、彼は自分の世界を構築していたような気がしていた。ゲームをするために招かれた彼の部屋には、阿賀野ワールドのようなものが広がっていた。彼の祖父から譲ってもらったパソコンとモニター、スピーカー、キーボード。オーディオインターフェースはお年玉から捻出したと自慢する。それまで自分にとっては「聞くためだけ」の音楽の裏側にある、「作る」世界を見せてくれたのは彼だった。


「マジで面白いよ。これ一個だけでどんな音楽も作れちゃうんだからさ」


 彼のやっていることが非常に少数派だということを知ったのは、それから数年が経ってからのことだった。市場に並ぶ音楽の作り手が生きている人間なのか、死んでいる人間なのか、それとも死んでいる人間を模したAIが作っているのか、そんなことを気にするのはD.e.a.d.が確立される前の時代を生きていた保守的な人間だけで、自分や阿賀野にとってそれはとても些細なことだった。同級生がイヤフォンからクラシックの新曲を聴いているのと同じように、自分と阿賀野は自分の手で自分の曲を作っていた。大学生になった頃には、自分の興味は音楽から別のものへと移ってしまっていたが、彼は子供のころと同じような情熱を携えていた。死の直前まで、彼は彼の好奇心の赴くままに曲を作っていた。


 自分は火山を専門とした学者になった。それに特別な理由はない。強いて言えば、自分の興味関心が強いものの中で、D.e.a.d.をはじめとしたAI予測の及ばない分野のひとつだからだろうか。火山学は学問的には比較的、未熟な分野だった。それは単純なレベルが低いというわけではない。成立した年代に対して扱う対象があまりにも大きすぎるのだ。火山の歴史を遡れば何万年という時間を遡れる。それに対して国際的な火山研究協会が発足されたのは今から、ほんの百二十年ほど前のことだ。世代を超えた、長期的な観測も必要なことも相まって、火山学のほとんどは未だ人の手で行われていることが多い。


 阿賀野の葬儀から一週間ほど経ち、自分はいくつかのモヤモヤを抱えながらも、今まで通りの仕事、つまりは火山のフィールドワークへと向かった。自分の研究テーマは、降雨時の火山砕屑物(火山から噴出した固形物の中で特に溶岩以外のものを指す総称)の崩壊・流動シミュレーションのリスクマップの作成だ。シミュレーションはコンピューターが行うことはできても、実地調査はそういうわけにはいかない。


 手元の温湿度計では気温二十三度、湿度七十二パーセントを示していた。遠くで、鳥が鳴いている。地面はところどころぬかるんでいて、木がところどころ濡れており、独特の臭いを放っている。この山は数日前の降雨によって小規模の土砂災害が発生した地域だった。自分はこの斜面上に残る火山砕屑物の残存率と分布を調べ、その安定性を評価しなければならない。道も谷も分からないほどに荒れ果てた斜面の写真を撮る。それから手に持っていたトランクを地面に置いて開き、土壌硬度計を取り出し、組み立てた。それは四角い箱の機械にドリルのような細い棒が伸びている機械で、これは地面に突きつけて押し込むことで、深度別の地面の硬度を線グラフで表示することができる。


 ポイントを変えて土壌硬度測定をしようと元々道であったところを恐る恐る歩いていると、どこからか衣が擦れるような音が耳に入って、思わず足を止める。地元の猟師だろうか、それとも単なる観光客だろうか。前者ならば鹿か何かと間違って撃たれては困るし、後者にしても、この辺りは地盤が不安定だということを教えたほうがよいと思って、音のする方に向かって歩みを進めた。


 数分、斜面を登ったところで、木の影から男の姿が見えた。「すみません」自分は声をあげる。「そこでなにをしているんでしょうか?」男は自分の声に気づき、こちらの方を振り向いた。手には巨大なマイクが握られており、首からはカメラのような機械がぶら下がっている。歳は二十半ば、といったところだろうか。顔にはシワ一つなく、短く刈り揃えられた髪からは若々しさを感じる。ただ、表情はやや不機嫌で、どうやら自分が姿を現したこと顔をしているように見えた。


「あんたが近付いたせいで、シジュウカラが逃げちゃったじゃないか」

「シジュウカラ? バードウォッチングをしているのか? なんでもいいけれど、この斜面は危険だ。先日の雨で崩れてないんだよ——つまり、これから崩れるかもしれないってことだ。地面が湿っていて滑りやすい。何をするにしてもここではない方がいい」

 彼は目を丸くしながら、こちらの方を観察した。

「あんた、もしかして学者か?」


 彼は自分のことを、市目と名乗り、地元の学生だと説明した。野鳥の鳴き声を収集、分析して、文法や言語の仕組みを明らかにする動物言語学の専攻である、と。自分が学者だとわかるなり、彼は態度を柔和にして、自分の研究についてあれこれ訊ねてきた。どういった研究をしているのか、このようなフィールドワークは普段からしているのか、他にどのような場所に調査するのか、など。


「さきほど、君は野鳥の鳴き声を収集していると言っていたけれど、どうしてわざわざこんな山奥まで足を運んでいるんだ? 僕の記憶がただしければシジュウカラは特段めずらしい野鳥でもない。東京の真ん中だって電線の上に乗っているよ」

「それじゃあダメなんですよ。都市じゃあ、環境の変化に乏しいから」


 そう言うと彼は自分とともに山の麓まで行くことを提案した。彼はそこにを構えているという。彼はそこにパソコンや撮影器具など、研究のために採点限必要な器具の置き場にしているらしい。

 三十分ほどかけて山道の入り口に戻り、そこからさらに五分ほど歩いたところにある小さな民家に招き入れられた。一人暮らしするにはやや広い家で、実際持て余しているかのように余白が目立った。生活感は全く感じられない。


「ここで一度データを保存して、大学の研究室に置かれたパソコンと同期させるんだ。だから、ほとんど物置みたいなもんなんですよ」


 市目はそう言うとパソコンを立ち上げながら、スピーカーを接続させた。横からモニターを覗くと、デスクトップには無秩序に.wavデータが並んでいた。「それはまだ未整理なんすよ」と彼は照れ臭そうに言った。マウスを操作し、音声ファイルを再生した。あるものはジジジと低い音が鳴り、クッーピョと高く何かに甘えるような、二拍子の聴き慣れた鳴き声がする。多種多様な鳴き声を一通り自分に聞かせると、画像ファイルを開く。枝の上に留まる小さな鳥。白黒の体と羽、鶯のような深い緑。


「信じられないかもしれませんが、先程の鳴き声はすべて、このシジュウカラの鳴き声なんです。彼らは——俺たちが今こうして話しているみたいに——自分たちの鳴き声を言語として持っていて、状況に応じて使い分けているんすよ」


 この鳴き方は「集まれ」この鳴き方は「警戒せよ」というように、彼らはいくつかの鳴き声を意図的に使い分けている。自分と出会った時、市目は鳴き声とその状況のデータを収集しているところだったようだ。


「俺たち、お互いに協力することができると思うんですが、どうでしょう」


 突然、市目がそんなことを言い出した。彼は部屋の物置から古いカメラとガンマイクを持ち出してきた。お互いに山を舞台にフィールドワークしている者同士、お互いの研究の手伝いをすることができる、と言う。つまり自分が他の山の地質調査をする時、都合が良ければシジュウカラの鳴き声とその様子についても調査してほしい、というのだ。正直なところ、その提案は悪いものではなかった。研究室はどこも人手も予算も不足している。特にD.e.a.d.の登場以降、学会における生きている人間に対しての扱いは決して良いものではない。生きている人間より死んでいる人間の方がずっと優れている——正確には、優れている人間に再現復活する権利が与えられている。そしてそれらが優れた結果を出すからこそ、そこに富や権利が集中していく。だから、Digital employmentであると同時にDigital economyなのだ。それに対抗する形で、学問を横断して協力することは珍しいことではない。市目は自分にシジュウカラの鳴き声と姿、録音機材の使い方を教え、その代わりに自分は連絡先と地質調査の方法を一通り伝えた。


 阿賀野の母一人では彼の遺品整理を満足にすることができないと理由で、江東区にある彼の実家を訪れた。自分が子供の頃に見たそれよりも、庭は随分と寂しくなっていたような気がする。庭を囲むように生えていたはずの庭木はたったの三本にまで減っていて、それぞれ歪なシルエットを描きながら枝葉を伸ばしていた。


「アイツに顔を合わせてきてもいいですか。どうも、海洋散骨は現実感がなくて」

「ええ、もちろん。仏壇は二階の、子供部屋だったところにあります」


 子供部屋の扉を開けると、ぎぃ、と立て付けの悪そうな音が鳴った。木の香りとともに、懐かしい光景が広がっていた。キーボードとオーディオインターフェース、ケーブルだけが壁に掛かっている。たしか、一人暮らしを始める時に「俺は新しいのを買うから」と言って、モニターを譲り受けた気がする。それは今、どこにあるだろうか。そんなことをふと考える。懐かしさに立ち尽くしていた。阿賀野の遺影と相対する。銀椀がじわぁんと音を響かせる。その残響の中で彼との思い出を振り返った。学園祭のステージで自作の曲を披露したり、大学の授業を全てサボって三日三晩放蕩してみたり。初めてシンポジウムに登壇者で出席した時、参加者側に彼が居たこともあった。彼の病室に、突然押しかけて、彼の目を丸くさせてやった——思い出は溢れては留めどない、過去に戻りたくなる。しかし、それは叶わない。ついこの前まであったものが、ふっと姿を消してしまうことだ。「ただ、そこに在った」ということだけが、自分の心の中に宙ぶらりんになる。


 阿賀野家を掃除していくうちに、どうしてこんなことをしなければならないのだろう、という気持ちが募ってきた。たしかに彼は亡くなった。けれども、彼の服、書類、古いCD、本、参考書、タンス、コップ——彼の居た痕跡まで、まるで清掃人のように消そうとしているようなさえ気がしていた。部屋の中がひどく寂しいと感じたのだろうか、阿賀野の母は作業をしながらテレビを付けていた。そこから音楽が流れている。これもまたD.e.a.d.だ。死者のミュージシャン、死者の作詞家、死者のプロデューサーによって作られた音楽、死者の演出家と死者のカメラマン——デジタル上に再現復活した死者の楽団、死者のクリエイター集団。阿賀野もその一人に加わるのだろうか。それを不気味に思うのは、きっと自分が古い人間だからだ。時代が移ろうにつれてD.e.a.d.に対して感じる理由なき非倫理的だと感じる気持ちは薄れていくだろう。テレビに映るクリエイターが死者であるか、生者であるか、そんなことは多くの人にとっては些事なのだ。死は自分たちに、もっと身近で、生と切り離す必要もなくなってゆくに違いない。


「これは親友の僕からの……単なる戯言にすぎないのですが、D.e.a.d.で再現しないで、彼をそのまま、そっとしてあげられませんか」


 阿賀野の母は困った様子でこちらを見た。


「僕は彼との思い出をできる限りそのままにしたいんです。穏やかなままで。でもテレビを付けたり、インターネットニュースを見るたびに彼が現れたり、ありもしない新曲を発表したりすることに、自分の気持ちが耐えられそうにない。

 彼は亡くなったんだ。亡くなってしまったんです。D.e.a.d.のやっていることは、瀬尾たちがやろうとしていることは彼の名前と形と才能を、彼の墓から掬い出して、こんなの趣味の悪い人形遊びじゃないですか」


 彼女は長い間、自分の飛び出た言葉について、じっと考えていたようだった。


「D.e.a.d.があなたの言う『趣味の人形遊び』だとしても。私は、それで喜んでくれる人がいるならば、彼の音楽を知ってくれる人がいるならば、そうするべきのように感じるの」


 その言葉を聞いて、自分はゆっくりと目を閉じた。彼女のなかでとっくのとうに答えは決まっていたようだった。彼女の答えに、自分はケチひとつだって付けられなかった。きっと阿賀野が生きていたとしても、きっとそのように答えただろう、となんとなく感じてしまったからだ。


「阿賀野さんを説得しようとしたらしいじゃないですか、困りますよ」


 僕が市目から貰ったシジュウカラの鳴き声が収録された.wavデータを聴き漁って時、瀬尾はわざわざ大学の研究室まで足を運んで、そんなことを言ってきた。いつもの黒いスーツではない、ややカジュアルな格好をしていた。大学ではスーツが目立つと考えたのだろう、周囲の目を気にしがちな彼らしい選択だ。「出しゃばりすぎましたね」と苦笑いしながら謝りながら自分は彼に珈琲でも淹れようかと訊いてみたが、彼はそれを断った。


「でも瀬尾さん、ずっと側にいたあなただってわかっているでしょう。これから作られる音楽は彼の音楽では決してない。彼ではない何かが、彼を騙り始める。しかもそれをあたかも生きているように演出するんだ」

「私は諦めましたよ。なんなら絶望したくらいです。先日、試作として、彼のD.e.a.d.が作った音楽を確認したのですが、まったく違いが分からなかった。自分は彼がデビューしてからずっと彼の音楽を聴いてきた自負があった。親友であるあなたよりもね。そんな私でさえ『初めて聴くが、これはまごうことなきだ!』ってね。頭ではこれは偽物だ、って思ってもね。私の耳はそう考えるんです」


 瀬尾の言葉には悔しさが滲み出ていた。それを言われた時、自分は何も言えなくなってしまった。いずれ音楽は死者たちの者になるのだろうか。消費者が求める分だけ、音楽が吐き出され続ける。空には重たそうな雲が立ち込めている。


「雨が降り出しそうですよ。瀬尾さん。早く事務所に戻った方が良いでしょう」


 阿賀野は東京に仕事場と兼ねてアパートの一室に居を構えていた。彼が亡くなったことをきっかけにそこを引き払う必要があり、ここでもまた遺品整理をする必要があった。流石に彼の家だけあってプライベートで残しておかなければいけないものが多かったが、一眼で不要だろうと考えることのできるものも多かった。旅行先の土産屋で買った怪物のような鳥の置物はその場にいた瀬尾や阿賀野の母から「絶対にいらないでしょう」と言ったが、そのまま捨てるには大きすぎた。市目ならば喜んで引き取るだろうか、と考えながら自分はレコーディングルームの片付けを請け負った。


 書きかけの楽譜。捨てられずに灰皿に溜まったタバコ。飲みかけのアルコール缶、一ヶ月前のまま捲られていないカレンダー。どれも薄く埃をかぶっていて、自分に発見されるまで、息を潜めていたようだった。掃除機を片手に、しばらく掃除をしていると、懐かしいものを見つけてその手を止める。それは祖父から譲り受けたというパソコンだった。


 阿賀野の生前、自分はこのパソコンを誰にも知られずに処分してほしいと頼まれていた。ずっとその機会を探っていて、今がその時だろう。そのパソコンは祖父から譲り受けたものだという。パーツの規格が変わってしまってから随分経っている、型落ちなんて言葉でも説明仕切れないほど古いものだから、とっくのとうに廃棄していたとばかり思っていたが。思い出の品だから飾っているのだろうか。そう思ったが、電源ケーブルはコンセントに刺さったままで、すぐに起動できる状態にあった。まだ、これで作曲しているのか? そんなバカな。そう思いながらも起動させる。空冷ファンが回転してモニターは目の痛くなるような光を放つ。


 パソコンはロックが掛けられていて、パスワードを入力しなければ中を見ることはできなかった。生憎、そんなものは彼から教わっていない。小さくため息を吐くと自分はパソコンをシャットダウンさせ、後部に付けられた主電源のスイッチを落とした。それから部屋の中に置かれていたドライバーで中を開いていく。そこからSSDを外す。それはCDケース程度の大きさの薄い板のような機械だった。ここにパソコンに保存されているデータが残っている。俺はそれをこっそりとカバンの中に入れた。それからできる限りパーツを分解して段ボールに詰め、パソコンケースだけが最後に残った。俺以外の誰かが見たところで「思い出の品としてケースだけ残しているんだ」と思うだろう。隠すようにしてそれを部屋の隅に戻す。突然、瀬尾が様子を見にきたものだから肩を思い切り震わせてしまう。彼は不審げに俺を見る。


「そんなに大袈裟に肩を震わせて、財布でも見つけましたか」

「はは。いや、突然出てくるものだからびっくりしただけですよ。機材を除けば、ここにあるのもゴミばかりです。タバコとかね。書きかけの楽譜がありましたが、これは捨てずに残しておいた方が良さそうですね」


 八畳一間の小さなアパートの自宅に戻るなり、すぐにでも横になって眠りたい気分だった。遺品の整理は思いがけず重労働だったし、明日の早朝には、予約した新幹線に乗って、また火山の斜面を調査しなければいけない。ただ、気持ちは身体よりもいくらか元気で、とても眠る気分じゃなかった。なにより自分のカバンの中にあるSSDのその中身が気になって仕方がない。USBの変換ユニットに繋げば、パスワード認証をスルーして中身を確認することができる。彼のパソコンだ。悪意のあるデータは無いだろうと、ディスクを支給されているパソコンに接続して、その中身を確認した。


 そこには一人の作曲家がいた。もちろんそれは単なる比喩表現だ。そこにあるのは莫大な数の.mp3データと見慣れぬ起動ファイルがひとつ。拡張子に見覚えはない。インターネットで調べると、それは古い機械学習ソフトを起動するためのプログラムファイルだった。しばらくの間、自分はモニターの前から抜け出すことができなかった。.mp3を再生してみると、それはどれも音楽だった。国もジャンルも録音環境も違う。そこに趣味嗜好のようなものは全く感じられない。手当たり次第に音楽という音楽をかき集めたようだ。恐ろしい考えが脳裏をよぎる——俺たちはいったい誰の音楽を聴いていたんだ?


 あれからできる限り多くの曲を聞こうと、夜更かしをしてしまい。予約していた新幹線に乗ることができず、当日券を追加で購入するハメになった。例のSSDは家に置いておくのもおそろしく、作業道具と一緒にキャリーバッグに入っている。市目から頼まれていた録音機材も加わって、ここ数日で随分と重くなった。博多行きのアナウンスがプラットフォームに鳴り響く。平日昼下がり、新幹線に乗り込む他の乗客はほとんどいなかった。天気はあまり良く無い。一時間弱で目的の駅まで着き、そこからバスに乗り込む。バス停から見える山が見え、山頂から尾の長い薄雲が、ゆるりと流れている。


 手元の温湿度計では気温十七度、湿度は九十五パーセントを示していた。雨と見間違うほどの霧が目の前に立ち込めていた。どこからともなくシジュウカラの鳴き声が聞こえる。きっと耳が慣れてきているのだろう。


 この世界に音楽家なんてものは存在しないのかもしれない。音楽なんてものは波長や音符の連なりにすぎず、誰が作ったところで同じなのだろうか。それならば、なんて虚しいのだろう。いつのまにかこの世界はD.e.a.d.によって支配されていた。死はもはや死んだものの人間ではなく、AIのものなのだろうか?


 突然、シジュウカラが聞いたことも無いような音で鳴き始めた。さえずりと地鳴きが混じった複雑な鳴き声。その言葉の意味を自分は理解することができない。ただ知っている英単語の部分だけクリアに聞こえるように「ピーツピッ」という警告の音が自分の耳に突き刺さった。何か、嫌な予感がする――そう思って数歩、後ずさった時、ばちんと何かが割れるような音が響く。黒煙が高く上がっている。それから十秒も経たない内に黒い幕のような何かが自分に迫っているというのに自分は動けなかった。噴煙が自分の目の前に迫る。肌を焼くような感覚に襲われる。


 痛み、しびれ、熱、渇き——山が噴火したのか。そう気付くには遅すぎた。細かな噴石が自分の身体を貫く。シジュウカラの鳴き声が、自分の意識が遠ざかってゆくのを感じる。シジュウカラはこの噴火を知っていたのだろうか。いや、違う。あの鳴き声は市目が渡してくれた音声データの中に似たようなものはひとつだってなかった。おそらく、彼らは自分たちで言葉を生み出したに違いない。まったく新しい言語を、文法を。なんのために? この危機を伝えるために。生きるために。

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Dead end Sanaghi @gekka_999

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