8月 アイラインは任せた

前編

――そんな考えじゃ、社会人になったら通用しないから。


 そんな叱咤を本気で信じていたあの頃、私は幼気な少女だった。物心ついたころから私はいつも自分と誰かを比較していた。


 幼稚園の時、母や父に手を挙げられるのはしょっちゅうで、その度にいつも悪いのは自分だと思い込んでいた。ある時転んで制服を汚して母に頬を叩かれた。今となればただ服を洗えばいいだけのことだと分かるけど、あの時は母の荒げた声で私は罪深き人間だという思考を素直に受け入れてしまった。


 しかし、同じクラスのある女の子は転んで制服を汚した後、真っ先に母親の元へ行き頭を撫でられていた。その母親はちっとも怒らずに、痛かったね、とその女の子に言うのだった。私にはその情景があまりにも信じられず、私の世界とその女の子の世界の違いに身震いした。なぜあの女の子は許されて、私は許されないんだろう。その疑問はいつまでも私の心に残り続けたけれど、次第に面倒くさい事項として処理されていった。


 高校生の時、とある習字のコンクールで最優秀賞をとった。昔から手先が器用で、字を書くことも手芸も絵を描くことも得意だった。それを母も父も褒めてくれたことはなく、出来て当たり前のこととして認識され、いつしか私の負担になった。教室の隅で本を読み、度の強い眼鏡をかけ、それにしてはあまり高くない成績をとる私は、至って真面目な女子高校生だった。


 友人もいたが片手に収まるぐらいの人数で、彼女らを心の底から信用したことはない。母にも父にも否定されて育った私は、人から否定されることを何よりも恐れていて、その恐怖は人間関係を深く構築するには邪魔なものである。親友と呼べる人を私は知らない。


「佐々木って、字上手だよね」


 女子高生にしては明るい茶髪で、鋭利に伸びた爪を私の机に乗せる校則違反の塊は私にそんな言葉を投げかけた。


「そ、そうかな」


 私は明るい人間が苦手だ。この校則違反の塊の目を直視することが私にはできない。


「そうだよ! うちなんてシャーペンでさえあんなに綺麗に字書けないし! 佐々木ってすごいよね」


 屈託のない笑顔で私を褒める校則違反の塊。憎めない、愛すべき馬鹿。そんな彼女に少し苛立つ。


「ありがとう」


 私は彼女に不快感を与えないようになるべく笑顔を作った。すると彼女はじっと私の目を見つめる。まるで私の中に入り込もうとしているかのような眼差しで、心がそわそわした。


「その目、カラコン入ってる? あ、でも佐々木が校則破るわけないか」


 彼女の瞳は女神に舐められたビー玉のようだ。彼女の独り言も全て鼓膜でしっかり受け止めたのに、私は聞いていないような素振りで彼女から目を逸らす。


 秋の放課後。夏の蒸し暑さを一つまみ残した風が変に気持ちよい。ほんの数センチの窓の隙間でも、十分にカーテンを膨らませる。私と校則違反の塊以外、この教室には居ない。居心地が悪いような、いつまでもこの時間が続けばいいような、そんな振り子のような想いで私の心は夕焼けに染められた雲のようにふわふわと浮かんでいた。


「てかさ」


 彼女のその言葉で私の思考はストップする。次に彼女の口から発せられるのは私にどんな情を与えてくれるものなんだろうか、そんな高揚が心拍数を上昇させる。


「なに?」


 声は震えていないだろうか、そんな心配は多分きっとするだけ無駄。彼女は私がどんな想いでここに居るのか、ちっとも分かっていないんだから。


「佐々木あんなに綺麗に文字書けるからさ、きっとアイラインも上手に書けるよね?」


「アイライン?」


 彼女は自分の目元を指さした。


「どうしても左右対称にならなくてさぁ」


 スマホの画面で自分の目元を見てため息をつく彼女。


「書いたことないからあんま分からない」


 生クリームのような色白の肌に、少し色づいた頬や唇。きっと化粧なんてしなくても申し分ない顔立ちだ。


「ねぇ」


 彼女の喉を経由した艶っぽい声が、私の集中を本から彼女へと誘導する。いいや、元から本の内容なんてこれぽっちも脳内には入って行かなかない。私はゆっくりと視線を彼女に移す。


「書いてよ、アイライン」


 彼女はそう言って、アイライナーと思しき一本のペンを私に差し出した。


「校則違反とかしないし。第一私にアイラインは変だよ」

「違うよ」


 フフッと彼女は笑って私の手にアイライナーを乗せた。


「うちの目にアイライン引いてよってこと」


 彼女の微笑みで心が溶けそうになる。内側から肉汁のようにとめどなく溢れる生暖かい情は、母性かもしれないし、慈しみかもしれない。


「な、何言ってんの? 私化粧とかしたことないし……」

「大丈夫だよ! 佐々木あんなに綺麗に字書けるんだよ!」


 彼女はアイラインの引き方が載っているサイトをスマホで表示させ、私に見せた。


「この間書いてた『天』って文字の、ハライ?ってやつをここに書いてよ」


 自分の目じりを指さして、能天気に彼女は言った。私は一度、わざとらしくため息をついた。


「……失敗しても知らないよ?」


 そう言って私はアイライナーのキャップを取った。確かに筆のようなペン先で、私には得意分野かもしれないと思った。


「やった! ありがと」


 彼女のスマホの画面にあるアイラインの引き方を私はジッと目に焼き付ける。これを失敗したら、二度と彼女は私に話しかけてきてくれないかもしれない、恐怖感からそんな脅しを思いつくのは私の悪い癖だ。


 スマホの画面から彼女の目元に目線を移す。彼女の目元にかかる前髪をそっと撫で、眉上まで上げた。爽やかなレモンの香りが伝わってきて、どこの香水だろうかと無意識に考えた。香水のブランドなんて、一つも知らないくせに。


 彼女は私から目線を逸らさず、じっと私の瞳を見つめている。何かを渇望しているかのようなその眼差しは、私に勘違いと間違いを起こさせようとしていた。

 

 そっとペン先を彼女の方に向けると彼女は私に身を委ねるように私から目を逸らす。堪らなくいじらしいこの生命体に、これから私は黒を与えるのだ。


 ペン先が彼女の肌に触れる。彼女の肌はいつも使っている半紙より脆いような気がした。いつものように一筆書きで美しく弧を描く。あまりにも慣れた手さばきでアイラインを引く自分に私は驚いた。


「ほら、やっぱり上手い」


 綺麗に引かれたアイラインをスマホで確認して彼女は言った。


「まだ右しか書けてないし。ほら早く」


 私は彼女の頬に触れ、左の目元にかかる前髪をそっと眉上になぞる。頬から手を放し、こんなに顔が小さいなんて、と微かに残る自分の手の感覚に驚きながら、私はまた彼女の目にアイラインを引く。右目とのバランスを取りながら、一筆書きで描いた。喉がカラカラに乾いて、唾を飲む。その音を彼女に聞かれるのが堪らなく恥ずかしかった。


 私は彼女からペンを離し、正面から彼女の顔を見た。我ながら左右差なく綺麗に書けた、と思った。彼女はスマホで自分の顔を見る。彼女の反応が怖くて、手が震えた。アイラインを引いている時にこの震えが訪れなくてよかった、と心底思う。


「え、うますぎん?」


 彼女はそう言うとスマホから目を逸らし、私を見た。


「ほんとに初めて書いた? プロ??」


「そ、そんなに褒めないでよ」


 私は若干にやけながら、ペンに蓋をして彼女に返した。


「ほんとにうますぎ。今日化粧落としたくないもん」


 彼女からの称賛が自分の身の丈には合っていない気がして、けれど私の引いたアイラインでいつもとは違う彼女に出会えた嬉しさで気持ちは高ぶった。


「可愛い」


 私がつい想いを口に出してしまった瞬間、彼女の醸し出す雰囲気が変わった。しまった、と後悔したが、一度言ってしまった言葉は取り消すことが出来ない。気持ち悪いと思われないか、そんな不安から体中の汗腺から汗がにじみ出るような気持ちの悪い感覚を覚えた。


「佐々木ってそんなこと言うんだね」


 しかし想定していた彼女の様子とはかけ離れ、彼女は嬉しそうに笑い目を細め優しく言った。その笑顔で私は安堵と緊張を同時に手に入れる。


「あんまりそう言うこと言わないイメージだったから驚いた」


 そんな言葉を私の心にそっと置いて、彼女はまたスマホで自分のアイラインを見た。


 私の描いたアイラインで女としての輝きが増した彼女。底知れぬ欲の存在に気が付き、自分は気持ちの悪い生物だと再確認した私。傍から見れば私たちはただの女子高校生。けれど私たちの心はあまりもかけ離れた存在だ。


「ま、またいつでも書くよ」


 こんな機会また訪れるのだろうか? きっともう、二度と彼女は私を必要としてくれない。マイナス思考な私はまたの機会を期待しないように、自分に暗示をかけ始めた。


「ほんと? じゃあ毎朝頼んじゃおうかな」


 彼女の優しい瞳が私に期待と恐怖を与え、私の心臓はいつまでもせわしない。マイナス思考も自分を責める癖も悪いものだと自覚はしていた。けれどそれを直せるほど、私はこの世の中を信用してはいなかった。でも、彼女の頬のぬくもりだけは何故か信じられるような気がしている。また明日も私にアイライナーを預けて、一番にアイラインを引いて整った顔を見せてくれるんじゃないだろうか。


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