二、ヒルコとニギハヤヒ②―ミナカタとニギハヤヒ、怠惰な日々の思い出―
「俺は昨日お前たちがここにやって来たときに初めてお前らのことを見たんだ。確かオモイカネと一緒に歩いてたよな。その時はジジイが一人、オッサンが一人、それとお前の三人だった」
ニギハヤヒはあれからずいぶんな急ぎ足で田畑のあぜ道や住居がある横道を突っ切って高天原の外縁部までやって来た。その間中ミナカタの腕をずっとつかんだままである。
ここからは遠く山並み、森、海が見える。実に景色のいい場所である。
そしてニギハヤヒはここに着くと、待ちきれないといった様子で口を開く。
やはり本当に話がしたくてたまらないようである。
「ええっと、それは多分オモイカネ様に今住んでる住居に案内してもらってるときだ。頭とひげが真っ白なのはスサノオ様、中年風のは俺の父オオクニヌシだ」
「そうか」
「うん、昨日はここに着いてすぐアマテラス様の宮殿に行って、その後オモイカネ様に住居まで案内してもらったんだ。あと俺たち三人以外にももう一人、スクナビコナっていう身体の小さいやつもいるんだ。何しろ手の平に乗るくらい小さいからあの時は見えなかっただろうけど…」
「…ふうん…」
ニギハヤヒはミナカタの話が興味深かったのか、腕を組んだままうなずく。
「…そうそう、今話を聞いてて一つ言いたかったんだけど…」
「えっ、何?」
「オモイカネを呼ぶのに〝様〟なんてつける必要ないぜ」
「えっ、そうなの…」
ミナカタはニギハヤヒの思わぬ言葉に驚く。
「そうだよ!あいつはあいつの親父であるタカギ共々アマテラス様に取り入って高天原を牛耳ってるふざけた野郎なんだ!」
ミナカタはいきなりニギハヤヒがタカギとオモイカネの悪口を言い始めたことにあ然とする。この二人は高天原の中でもかなりの力を持っていると思っていたからだ。
「あいつらはいつも高天原で偉そうにしているいけ好かない奴らだからな。だからあいつらを呼ぶときに“様”なんてつける必要は一切ないのさ。これからはお前も少なくとも俺と話をする時はあいつらに“様”なんてつけるのはやめてくれよ、な?」
ニギハヤヒはミナカタの方を見て、目配せする。
「…う、うん、わかったよ…」
「ははっ、ミナカタ、お前は話のわかるやつだ!」
ニギハヤヒはミナカタの言葉を聞いて、嬉しそうににやりと笑う。
「お前みたいな面白いやつはスサノオ以来だよ」
「えっ、スサノオって、あの…」
「ああ、そういやあスサノオは今回お前と一緒にここに来たんだったな。見た目はすっかり爺さんになっちまったみたいだが…」
「えっ、じゃあニギハヤヒが見たスサノオ様はそうじゃなかったの?」
「ああ、俺が見たスサノオの外見はちょうど俺やお前と同じくらいの年頃の感じだった。そして高天原で大暴れをしたんだ」
「その話少しだけ聞いたことがあるような…」
「ふん、この話は地上でも有名なのか。あのときのスサノオは高天原でやりたい放題だった。あいつには高天原の連中は皆迷惑してただろうな。実際スサノオはあの後高天原から追放されちまったからな。でも俺はあいつに関しては他の高天原の連中とは違う考えを持ってるんだ」
「違う考えって、…どんな?」
「はっ、あのままスサノオが高天原を支配し続けてれば良かったんだよ!そうすればあいつが高天原をめちゃくちゃにしてくれたんだ!タカギやオモイカネが他の連中と謀ってスサノオを追放しちまったんだ!おかげで今の今まで高天原は退屈でくだらない場所になっちまったんだ!」
ニギハヤヒは話を聞いているミナカタをぼう然とさせるほどの勢いでまくし立てる。
「俺は退屈でつまらないのが大っ嫌いなのさ。面白おかしく日々を過ごしたいぜ」
ニギハヤヒは少しだけ調子を落ち着けさせながら言う。
「でも、今のスサノオは高天原をぶっ壊してくれそうにないな。前よりよぼよぼになっちまったみたいだし」
「うん、ニギハヤヒが見たときから、地上では今までにずいぶん時間がたっているから、スサノオ様が年を取るのは当然のことだ」
「そうか。高天原じゃあ時間が流れないから、俺も含めて生き物は一切年を取らないからな。もっともタカギみたいに生まれたときから年寄りじみた見た目のやつもいるけどな……」
「そうなのか。俺はまだここに来たばかりでまだ高天原のことが何もわからないから、色々教えて欲しいな」
「おう、いいぜ!そっちも地上の話をどんどん聞かせてくれよ!俺は地上のことをもっと知りたいんだ!」
こうしてミナカタはニギハヤヒと仲良くなった。
ニギハヤヒはいくらかミナカタに対して自分がお前の兄なのだ、とでも言わんばかりに偉そうにするところがあったが、根は悪い男ではなかった。
高天原はほんの少し農作業をすれば必ず作物が豊かに実るため、暇な時間はかなりあった。
そのお互いに暇な時間を利用して、ミナカタとニギハヤヒは頻繁に会い、お互いの知っていることを話し合った。
もっともミナカタは出雲でミカヅチに一対一で負けたことのような、自分にとって不愉快な体験について積極的に話すようなまねはしなかったが。
とはいえ、両者にとってこの二人の時間は、高天原での最も幸福な時間と言ってよかった。
ミナカタには高天原には他にこれほど多くのことを話せる者はいなかったし、ニギハヤヒもどうも高天原の中では浮いた存在のようだった。
ミナカタも高天原に一定期間住んでみてはっきりわかったのは、とにかく高天原がなんら変わることがない所だということだった。
そんな高天原の環境は刺激のある生活を求めていたミナカタ、そしてニギハヤヒにとってはとにかく退屈だった。
そのため最初はお互いの知識について話していた二人の会話も、いつしか高天原の“永遠に変わらない世界”に対する不満や愚痴のようなものに変わっていった。
こうして二人の日々は無為に、そして怠惰に流れていった。
しかしそんな状況が変化したことが一度だけあった。
それはアマテラスらの命でミナカタがスサノオらと共に地上に降ったときであった。
それはあくまで地上でのヤマサチとウミサチの間にある問題を解決するためのものだった。だがニギハヤヒは地上に降りるミナカタのことを心底うらやましがった。
そして再び高天原に戻ったときには、すぐに地上で体験したことを自分に話して聞かせてくれることを、ミナカタに熱望したのだった。
「やっぱり地上はすごいよな!」
ニギハヤヒはミナカタの地上での話を聞き終えた後、興奮冷めやらぬ様子で言う。
ミナカタは地上から高天原に帰還した後に暇な時間ができると、ニギハヤヒの注文通りに、真っ先に地上での“冒険
ワタツミの宮での体験や鬼との戦いなど、ミナカタの話はどれもニギハヤヒを喜ばせるには十分なものだった。
もっともミナカタが一体の鬼も討ち取ることができなかったことは、話の中には含まれていなかったが。
「いやあ、本当に面白かったぞ!今の話で三十年分は楽しませてもらった!」
ニギハヤヒはミナカタの地上での話を絶賛したあと、さらに続ける。
「やっぱり地上はすごいんだな!ああ、お前の話を聞いて、俺もなんとかして地上に降りたくなってきた!今すぐどんなことをしてでも地上に降りたい気分だぜ!」
「…あの、…ちょっと…」
相変わらず一人で興奮しているニギハヤヒにミナカタが割って入る。
「うん、なんだ?」
「お前はさっきから地上のことを褒めてばかりいるけど、そんなにいいことばかりじゃあないぜ」
「ふうん、そうなのか?」
「ああ、例えば高天原じゃあ人が死ぬことはないけど、地上じゃあ人も死ぬんだ。現に今回の戦いでも何人か犠牲者が出た」
「ふうん、話には聞いてたけど、やっぱり人って死ぬんだな」
「ああ、地上では高天原では絶対に起こりえないことが起こるんだ。それに戦いでは人が怪我をして血を流すこともある」
「血を流す?それも話には聞いたことがあるな」
「そうだ。怪我をすると傷口から赤い血が流れて本当に痛いんだ。それに
「ふうん、そうなのか」
「とにかく、地上には高天原にはない危険なことがいっぱいあるってことだ。それだけは忘れちゃだめだ」
「…そうか…」
ミナカタは地上がはらんでいる危険性について力説する。だがニギハヤヒはその言葉をどこか他人事のように聞く。
「…ああ、でもさ…」
わずかの間だけ沈黙したあと、ニギハヤヒは再び口を開く。
「やっぱり俺は地上に降りたいぜ!だいたいまだ起こるか起こらないかもわからない死ぬ事なんて、気にしてたってしょうがねえじゃねえか!俺はとにかくこの退屈から抜け出したいんだ!そのためにはどんな危険な事があったっていいんだよ!少なくとも今の退屈よりはずっとましだからな!なにしろ俺はこの高天原にずっといるおかげで退屈すぎて死にそうなんだ!地上に行く!どんな手を使ったって行ってやるんだ!」
ニギハヤヒのまるで駄々をこねる子供のような理屈に、ミナカタは言葉を失う。
実際に地上で行われた戦いの光景がいかに悲惨で過酷なものだったか。
ミナカタはこの男にそれを見せてやることができないことを心底残念に思ったのだった。
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