葡萄酒は濡れた仔犬の匂い

灰崎千尋

雨に唄えば

 毒にも薬にもならないような洋楽ポップスがぷつりと切れて、古ぼけた音の『Singin' in the Rain』が流れ始めた。従業員向けの符牒ってやつだ。これは「外で雨が振りだしましたよ(せやからショップバッグにビニールカバーをかけたげてや)」という意味。


 このファッションビルの片隅で占い屋をやっている俺には、本来あまり関係ない知らせだ。特にこんな時間には。これがあと一時間早かったらもう一人くらい客が取れたかもしれないが、ついさっき受付終了時間を過ぎたばかり。今日は一日晴れの予報だったはずだから、俄雨なんだろう。雨宿りに駆け込んで来たお嬢さんがたが、時間つぶしに占い屋を覗くことは結構あるのだ。実に惜しい。

 俺は適当な鼻唄で『Singin' in the Rain』を歌いながら、店じまいを始めた。作業には邪魔な長い髪を、首の後ろで一つに結ぶ。雨に唄えば。ジーン・ケリーよりも『時計じかけのオレンジ』が思い浮かんでしまうのは、たぶん俺が疲れているからだ。はやく帰って冷えたビールを飲みたい。いやまぁ、ウチの冷蔵庫で待っているのはビールというか「第三のビール」ってやつなんだけれども。


 と、左の小指につけていた指輪がするりと抜けた。


 小さな金属音がして、そのまま俺を離れていく。最近ゆるくなっている気はしていた。しかし惰性と習慣でそのままにしておいたので、突然こういうことになる。俺が中腰で追いかけるうちにも銀の輪っかはころころとよく転がって、通りがかったスニーカーに当たってようやく止まった。


「あ、すんませーん」


 本日最後の営業スマイルを貼り付けて小走りに駆け寄ると、スニーカーの主が俺の指輪を拾ってそれをぼんやり眺めていた。

 その姿を一言で言えば、びしょ濡れの仔犬。

 いわゆるゲリラ豪雨だったのだろうか。スニーカーの白いゴムには泥が撥ね、グレーのパーカーはぐっしょりと濡れてフードが重く垂れている。明るい茶髪が額にぺちゃっと張り付いていたが払おうともしない。大人というには早いけれど、幼いというよりは青い印象の男子。顔立ちは悪くないのに、その表情は「しょんぼり」を絵に描いたように沈んでいて、ちょっと面白いくらいだった。

 その青年が、ツーテンポくらい遅れてようやく俺の顔を見た。つぶらな両目がぱちくりと瞬いて、彼の手の中の指輪、じゃらじゃらとアクセサリーだらけの俺の服装、こぢんまりとした奥の占いブース、と視線が移る。それから突然、わっと俺の手を掴んで、

「う、占ってください!!!」

と叫んだ。

 これはまたえらいのに出くわしてしまったなぁ、と思いつつ、笑顔を崩さないように気をつけて答えた。


「残念やけど今日はもう終わりましてん。また今度来てもらえます?」


 それを聞いた青年は「え、うそ、あっ」などとか細く呟いて、自分の腕時計と俺を交互に見つめてくる。いやそんな、この世の終わりみたいな顔で見られても。


「だって僕、もうどうしたらいいか……」


 ここまでわかりやすく哀れっぽさを醸し出す人間も今どき珍しい。しかし俺のような雇われ占い師に残業代など出ないし。

 かと言ってこんな「今なら何でも縋りついちゃうカモです」みたいな青年を野に放ったら、俺なんかよりもずっと悪い大人に騙されて大変なことになりそうだなぁ、とも思う。指輪を拾ってもらうことで、彼とは縁もできてしまった。それに、未だ俺の手を掴むその指が、冷え切ってぷるぷる震えているものだから。


「……ちょっと聞くんやけど、おにーさん、お酒飲める年齢?」


 そう、だからちょっと気まぐれに、助け舟を出してやった。


「ええ、まぁ、たしなむ程度に……?」


 少年は頭の上に疑問符を浮かべながら首を傾げた。飲めるなら良し。そろそろ偽物のビールには飽きていたところだ。


「じゃあ、ビール一杯。それを延長料金に占いましょ」






 そう提案したのは確かに俺だ。俺なのだが。


「じゃあウチ来ません? ビール好きなんですか? 助かります、今めっちゃ余ってて」


 青年が突然目を輝かせて、そう言ってくるとは全くの予想外だった。これがまた、仔犬の尻尾が千切れんばかりに振られているのが見えるようで。


「いや普通こういうのって居酒屋とかなんちゃう?」


 俺だって一応ツッコんだ。でも青年は少しはにかんだ笑顔を浮かべながらこう答えたのだ。


「僕ビール苦手なんですけど『これは美味しいから』って親がプレモル送ってくれたんです。でも試しに飲んだらやっぱりだめで。一杯と言わずたくさん飲んじゃってください!」


 嗚呼プレミアムモルツ。自分の財布を痛めずに飲むプレミアムモルツ、最高。

 というわけで、そそくさと退勤処理をした俺は彼の家に向かってしまったのだった。

 雨は、とうに止んでいた。






 男一人が住むには十分な広さの、小綺麗な1K。

 そこで俺は、シャワーの音を聴きながら一人、缶ビールを傾けている。


「フラフラ来といて何やけど、いくらなんでも無防備過ぎるやろ」


 思わずそのまま口に出していた。

 確かにここは彼の家だし、あれだけ濡れていたのだからシャワーくらい浴びるだろう。しかし自分で言うのも何だが、占い師なんて胡散臭い職業だ。それにまだ占ってすらいない。こんな相手をほいほい家に上げるものではないし、「先に始めててください」って缶ビールをローテーブルに置いて自由にさせてはいけない。

 ぐいっとあおる。久しぶりのちゃんとしたビールは香りとコクが段違いで、なめらかな泡まで旨い。喉から頭の芯までキンと冷えて、酔いと苦味が混じり合う。まぁ旨いからええやん、と駄目な大人が脳内で囁いた。

 本棚には教育学や語学系のテキストと文庫本が並んでいる。イケアっぽいローチェストの上に、部屋のサイズの割に大きなテレビとSwitch。シンプルなセミダブルのベッド。部屋の隅、蓋の開いたダンボールからは野菜ジュースやレトルト食品が見えていた。

 親に愛された子の部屋。

 まぁそうやんなぁ、と納得感を噛み締めていると、飲み込んだ炭酸が喉まで上がってくる気配がした。ビールは好きだが、吐く息がビールの匂いになるのは苦手だ。


「お待たせしました、カルメットさん」

「うん、せやからカルメットさんはやめてくれん? シュウでたのむわ」

「あーすみません、そっちのインパクトが強くてつい」


 あはは、と笑った後に、はあ、と思い切りうなだれた。忙しい男だ。

 ここに来るまでに互いの名前くらいは聞いていた。青年の名は吉岡拓巳。この家は彼の通う大学にも、俺の働くビルにも徒歩圏内だというから、それなりの家賃がしそうだ。悩める大学三年生。

 俺が名乗った名前は『カルメットシュウ』。もちろん、占い師としての源氏名だ。本名にかすりもしないやつ。「源氏名なんて何でもええやん。アメスピ・ゴローとか」と言う俺に、オーナーが捻り出した名前。年齢非公開。

 拓巳くんはTシャツにスウェットというラフな部屋着に着替え、ほかほかと上気した頬は出会ったときよりは多少健康的に見える。が、やはりうなだれた姿がダンボール箱で震える仔犬に重なるのだった。


「ほな拓巳くん、プレモルももろたし、そろそろ占いましょうか」


 俺が言うと、拓巳くんはスッと向かいに正座して「よろしくお願いします」と三つ指をつくようにお辞儀した。


「いやかたいかたい。あくまで占いやからね、予言とかとちゃうからね。もうちょい楽に聞いてくれる?」

「う、すみません、なんか追い詰められてて……じゃあ僕も飲んでいいですか?」

「ええやん、何飲むの?」

「へへ、コレです」


 そう言っていそいそと拓巳くんが冷蔵庫から取り出したのは、『ストロングゼロ ダブルレモン 500ml』。


「嘘やろ君、プレモル飲まんとそんなん飲んでんの?」

「だってビール苦いし……ストゼロは苦くない……」

「可愛い顔してひどいことするなぁ拓巳くん。プレモル泣いてるで」

「コスパ!コスパが良いんですよすぐ酔えるから!」

「まぁええけど、いやそんな良くもないけど。そーゆー酒はほどほどにしいや。とりあえず乾杯しよか」


 カツン、と缶の底を合わせた。

 意外とくっきり目立つ喉仏を上下させて、拓巳くんはストゼロを流し込んでいく。……一口目にしては随分な勢いで。

 俺の方は最後の一口で、ちょうど一本飲みきってしまった。


「あ、もう一本持ってきますね」


 俺が何か言う前に、拓巳くんは立ち上がって冷蔵庫へ向かう。


「一応聞きますけど、どっちがいいですか」

「プレモルに決まってるやろ」

「ですよねー」


 そんな軽口を交わしている間に、俺は懐から手帳とペンを取り出した。まっさらなページに「吉岡 拓巳」と縦に書き、その横に画数、生年月日などを加えていく。

 拓巳くんは二本目のプレモルをテーブルに置いて、俺の隣に腰を下ろした。メンソール混じりのシャンプーの匂い。


「シュウさん、字きれいですね」

「普通やろ。女っぽいって言われることはあるけども。さて、閉店後の俺を捕まえてまで君は何を占ってほしいん?」


 横目に見た拓巳くんは真剣な眼差しでこう言った。


「僕はこの先、どうしたらいいんでしょうか」


 至極ざっくりしている。まぁ、占いにやってくる客には珍しくない。


「んー、ほんなら近い未来のことをふんわり見ていきましょか。手ぇ見せて」


 俺が左手を差し出すと、拓巳くんの右手が素直にぽん、と乗った。「お手」みたいだな、とつい考えてしまったのはもはや仕方無いと思う。

 手帳に書いた数字を念頭に置いて、その手に刻まれた線を辿っていく。


「あー、本当に真っ直ぐな子なんやねぇ、君。でも結構、八方美人ちゅうか、みんなに愛されたい願望があるんや。へぇ、強欲。いやええと思うよ、若いうちはな。でもどっかで諦めんとしんどくなるんちゃうかなぁ。」


 そこまで言って顔を上げてみると、拓巳くんの眉はきれいなハの字に下がっていた。


「図星?」

「……はい、そうですね。そうなんですよね。この間ツイッターで予想外に燃えかけまして……」

「はぁ、大炎上じゃないならええやん。え、それでそんなしょげかえってたん?」

「それもあります」

「ということはまだあるんやね、了解」


 俺は再び手のひらに目を落とす。俺よりも少し小さな、ふっくらと厚みのある手だ。出会った時はすっかり冷えていたけれど、今は温かくうっすらと汗ばんでいる。

 俺は、俺に見えることをそのまま伝えていった。そのたびに拓巳くんは「あっ」とか「ウッ」とかダメージを受けた鳴き声をあげていた。そして時折ストゼロをガブ飲みした。

 その結果、拓巳くんは俺に片手を預けたまま、ローテーブルに突っ伏している。


「いけるんじゃないかって、思ったんですぅ! 二人で出かけたりもしたし! でも『そういうんじゃないの、ごめん』って……じゃあどういうのなんだー!っていう」

「うんうん」

「必修のレポート間に合わなかったし、就活でめっちゃお祈りされるし、僕は誰にも必要とされてないんです……どうせ一生童貞なんですよ!」


 こんな具合に仕上がってしまった。

 だからこの手の酒はやめておけと言うのに。


「まぁまぁ、今はそうかもしれんけど、君はこれからを知りたかったんちゃうの?」

「……はい」

「それに手っ取り早く童貞捨てる方法も無くはない」


 俺がそう言うと、がばりと拓巳くんが体を起こした。完全に目が据わっている。


「めっちゃ食い付くやん。もしかして一番気にしてたんそれ?」

「風俗はいやです」

「ふーん、じゃあ俺は?」


 俺の言葉に、拓巳くんは澱んだ目をきょとんとさせて、俺の顔と股間とを往復する。視線は正直だ。


「シュウさんて、女のひと?」

「いや男やで。でもどっちも行けるタイプやねん」


 まだ預けられたままの手のひらを、つつ、と指先で撫でる。拓巳くんの体がびくりと撥ねるが、振り払おうとはしない。


「言っとくけど俺はほんまにビール飲みたかっただけで、ナンパしたんとちゃうよ。家に連れ込んだんは君やしね。でも俺もちょうど人肌恋しくなってきてたから、拓巳くんにその気があるなら試してみてもええよ」


 ぐい、と腕ごと体を引っ張れば、あっさりと引き寄せられた。顎に手を添えても無抵抗。


「なぁ、キスしたことある?」

「いちおう、は」

「じゃあ、こういうのは?」


 ついばむようなキスを重ねてから、彼の口内へ舌を差し入れる。彼の舌を捕え、絡め、扱くように愛撫する。温かな体がひくついて声が漏れた。

 たっぷりと唾液を交換してから解放してやると、蕩けた目がぼんやりと俺を見ている。


「シュウさん、きれい」

「はは、よう言われる。でも男やで。やめとく?」


 最終確認のつもりで言った。でも彼の下腹部を見れば、答えはわかっていた。後ろに結んでいた髪をほどく。

 拓巳くんの唾を飲む音が聞こえて、俺は押し倒された。彼からのぎこちないキスが首から胸へ降りてくる。

 荒い息。アルコールと汗。獣のような雄の気配。

 やっぱり、この匂いだ。




 むかし付き合っていた男に、会員制のワインバーへ連れて行かれたことがある。

 ワインはその男の趣味で、俺にはソムリエの「秋の木漏れ日」だの「馬の蹄鉄」だのの説明がさっぱりわからなかったが、お仕着せのジャケットを羽織って、男の金でしこたま飲んだ。

 その中で唯一、味をしっかり覚えているのが「濡れた仔犬の匂い」の赤ワインだった。

 赤ワインらしい渋みの中に滲む、仔犬というには野性味の強い獣の匂い。熟成した香りの一種だとか。うまい、とは思えなかったが強烈に残るワインだった。

 そしてそれは、隣にいた男のお気に入りだったらしい。かつての恋人、俺の名付け親オーナーの。



 雨に濡れた拓巳くんを見たとき、あのワインをふと思い出した。

 最初は本当にそれだけだったけれど、こうしてあまりにも無防備に酔う彼を見て、つい味見してみたくなったのだ。熟成とは正反対の、青くみずみずしい男を。

 彼を誑かす悪い大人は、俺だった。






 結局、俺が精一杯のお膳立てをしてやって、拓巳くんは無事に童貞を卒業した。

 若いってのは強い。彼は俺の中で達した後、ゴムも外さずに寝てしまった。おかげで後始末まで俺がやった。全く。

 そのまま帰っても良かったが、翌日はシフトが休みだったので、拓巳くんに添い寝もサービスした。流石に体がだるい。


「う、うわぁ! えっ、あれえ……?」


 色気ゼロの声で起こされるのもまぁ、想定済みだ。


「おはようさん。卒業おめでとう」


 俺は枕元に肩肘をついてにっこり微笑んだ。

 拓巳くんは前を隠すように布団を抱きしめて、ベッドの上に正座した。


「すすすすみません、僕なんてことを」

「えー、誘ったん俺やん。なに、覚えてへんの?」


 仕方なく俺も体を起こす。伸びた黒髪をかき上げてガシガシと頭を掻いた。


「いやでもこんな、酒の勢いでなんて……」

「んー、でもたぶんやけど、拓巳くんて慣れんうちは酒の力がないとセックスまでたどり着けんタイプやと思う」


 うぐ、と拓巳くんが呻いた。わかりやすくて助かる。


「そういえば何も聞かん内に寝落ちしてたけど、ご感想は?」


 そう尋ねると、彼は抱えた布団に顔をうずめて「スゴイ、ヨカッタデス」とぼそぼそ答えた。耳が赤いのは隠せていない。女の子みたいな反応をする男だ。挿れられたのは俺だけど。


「そりゃ良かった。次は恋人とできるとええな。ほな俺は帰って自分ちで寝直すわ」


 昨夜脱ぎ散らかした服とアクセサリーをじゃらじゃらと回収する。左手小指の指輪は、ちゃんと嵌まったままだった。

 服を着て出ていこうとすると、袖の端を拓巳くんが掴んだ。


「あ、あの」


 しばらく黙っていた拓巳くんが口を開いた。


「また、会えますか?」


 絞り出すような声。

 俺は振り向いて、柔らかな茶髪をくしゃくしゃと撫でてやった。


「アカンよー、こんな大人に本気になったら。でもまぁ、占いが途中やったからな。その続きはしたるわ。今度は営業中においで」


 そう言って、ひらひらと手を降って彼の家を後にした。俺の家より俺の職場に近いやないか、と思いながら。




 彼がもう一度俺の前に現れる確率は、だいぶ低いはずだった。冷静になって男はノーカンだ、という結論に達するかもしれないし、こんなヤバイ奴の占いなんて聞いちゃいけないと考えるかもしれない。世の中そういうものだし、俺がやったのはそういうことだ。


 しかしこの数日後、吉岡拓巳はのこのこ占いブースにやってくるし、その後もストゼロを差し入れに来たり仕事終わりを出待ちしたりする重い男と化すのだが、この時の俺は予想もしていなかった。

 彼の占いはまだ途中だったし、占い師は自分のことを占えないものだから。

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