ペットのサチ

蓮恭

お別れ

「ママー、パパー、いってきまーす! サチも、ママの言う事聞くんだよ。行ってくるね」


 ふふっと笑顔を浮かべた絵梨花ちゃんが、黒から明るい茶色のグラデーションになった私の耳元の毛をワサワサと撫でる。絵梨花ちゃんお気に入りのシャンプーの香りは前と変わらない。


「クゥゥン……」


 そんな声しかあげられない私の口元からは、ダラダラと涎が垂れた。生臭いような、すえた匂いもする。

 派手な濃いピンク色をしたランドセルを背負った絵梨花ちゃんは、名残惜しそうにこちらへ視線を残しながらも元気よく出て行った。


「いってらっしゃい」

「気をつけてな」


 絵梨花ちゃんの足取りの軽さとは反対に、ギィィという重たい金属の擦れる音。年季の入った玄関扉がズシリと閉まったのを見ると同時に、鳩尾がズンと重くなり、鉛でも飲み込んだように苦しい。


 絵梨花ちゃん、絵梨花ちゃん、どうして……。


 絵梨花ちゃんの出て行った扉に向かって、未だふふっと笑顔を向ける二人は寄り添っていて。いかにも仲の良い夫婦だ。

 

「ウウ……」


 這いつくばった私はそのうち二人に連れられて、ダイニングへと移動する。

 体中が軋んでパキパキと音を立てている。

 そこに置かれた餌皿と水の皿に視線を落とした。それらは家族旅行に行った時のお土産の焼き物で、ササミを茹でた物と水が入っている。


「今日、帰るの遅くなるけど夕飯は家で食べるから」


 夫の隆は近頃上機嫌で笑顔を振りまいている。前はもっと不機嫌で、無愛想で、思いやりが無かったのに。

 

「そうなの。じゃあ準備しとくね」

「最近家の飯が美味いから、外食する気にもならないんだよな。俺も絵梨花も食べた事ないような手の込んだ料理だし」

「ありがとう。嬉しいな。絵梨花も隆さんも喜んで食べてくれるから、手間ひまかけて作る甲斐があるわ」


 ダイニングテーブルで朝食をとる夏菜子と隆の会話。お互いに朝から熱を帯びた視線を絡ませつつ繰り広げられている。この二人、娘の絵梨花が居ないところではまるで恋人同士だ。

 以前は家の中でこんな風に甘ったるい空気が流れた事なんて無かったのに。


「朝飯からこんな本格的な和朝食だなんて贅沢だよなぁ。しかも節約上手だし。夏菜子は良い奥さんだよ」

「そう? 料理は得意だから」

「あ、また今度差し入れ頼むよ。部下にも夏菜子の料理食べさせてやりたいんだ」

「いいわよ。本当はお家に招待したいけど……ダメよね」

「そうだなぁ。今までこの家に来た奴も居るしな」


 夏菜子はいかにも悲しそうに目を伏せた。そんな夏菜子に隆は慌てて、けれども優しく声を掛ける。

 そんな様子に、私の目やにだらけの眦から涙がこぼれた。荒れた肌に涙の塩気が滲みる。


「いや、大丈夫だ! どうせ誰も覚えてないだろうし! 前って言っても、あの時は夜中に酔い潰れたのを部下に送ってもらっただけで。二、三言葉を交わしただけだから!」

「本当? じゃあ今度部下の皆さんをお呼びして、ホームパーティーをしましょうよ」

「いいね! その時はサチを風呂場にでも閉じ込めておけばいいよ」

「そうね、服を脱がしておけば流石に静かにしてるでしょうしね。ほら、サチ。さっさとご飯食べちゃいなさい」


 夏菜子はサチの肩をグリッと足で踏み付けた。汚い部分に触れないよう、着せられた服の上から。

 グリグリグリグリ……と痩せて飛び出した肩の骨を抉るように。


「クゥゥ……くぅ」


 目やにだらけの目で椅子に座る二人を見つめながら、出るのはか細い声とダラダラと流れる涎。

 夏菜子も夫も、刺し殺すような鋭い視線を私に向ける。


 どうして、どうしてこうなったの?


「ねぇ、やっぱり料理以外の家事も私がするから。これサチ要らないんじゃない?」

「そうか? 夏菜子がいいなら別にいいけど。あぁ、でも絵梨花はサチの事気に入ってたからなぁ。最初のお母さんより綺麗好きだからって。さっきも撫でたりしてたしなぁ」

「んー、でもそれも何だか癪に触るのよね。絵梨花のママはもう私だけでいいと思うな」

「そうか。それじゃあ仕方ない。洋子の時みたいに処分するか」

「洋子って最初の奥さんの名前だっけ? もう忘れてた。ふふっ……」

「そうそう、それで次の妻が幸子。だからペットになってからもサチって呼んでる」


 口に噛まされた布切れはもう涎でぐちゃぐちゃになっていた。許可なく洗えない顔も、体も臭いが酷い。それでも絵梨花ちゃんは私を撫でてくれた。ママじゃ無くなっても。新しいママ夏菜子が来て、私が奴隷ペットになっても。


「絵梨花には代わりに新しいペットをあげればいいじゃない。今日ペットショップで可愛いウサちゃんを買ってくるわ。あれなら吠えたりしないし、静かだから」

「なるほどな。じゃあサチはお役御免か。サチ、三年間ありがとうな。綺麗好きのママが欲しいって絵梨花が言ってたから洋子を処分してサチを迎えたけど、やっぱり料理が上手いのが一番だよ。悪いな」


 ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい……!


 それでもグゥっと情けない声が喉で鳴るだけ。無理矢理布切れを口に嵌められた時から、顎が外れて話す事も出来ない。いつの間にか痛みという感覚はあまり感じなくなっていた。


「今日中にサチは処分しとくから。ほら、隆さん、遅刻しちゃうわよ」

「あぁ、悪いな。頼んだよ。気が利く夏菜子は最高の奥さんだ」


 私は絵梨花ちゃんのお母さんになったはずだったのに……!

 シングルファザーで頑張っていた隆さんの奥さんになったはずだったのに……!


 どうして……どうして……どうして……!


「サチ、夏菜子に任せておけば大丈夫だからな」


 夫だった人に久しぶりの笑顔を向けられても、今の私は涎を垂らしながら低く唸るしか出来ない。


「さぁ、サチ。ササミ食べちゃってね。さっさとお片付けしないと。あぁ、そっか。口枷外さないと食べられないわよねぇ。ふふっ……」


 目やにで張り付いた目尻が涙でひりついた。馬鹿な自分に後悔しても、もう遅い。


 




 


 


 


 


 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ペットのサチ 蓮恭 @ponpon3588

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ