白狐の天女

如月姫蝶

白狐の天女

 古都の花街は、夜にこそ咲き誇り、燃え盛る。

「こぎつねこんこん」

 男に酌をした後、彼女は囁いた。振袖からのぞくなよやかな手で、影絵の狐を形作りながら。丁寧に切り揃えられ、磨かれた爪たちが、桜貝よりも美しかった。

「こぎつねこんこん」

 彼も同じ言葉を返して、頷いた。

 それは、お座敷が終わった後、二人だけで場所を変えて時を過ごそうという、女と男の秘密の合言葉だった。


 舞妓が履くは、彼女が歩くたびに、こぽり、こぽりと可憐な音を立てる。それは、昔は子供の履き物であった厚底の下駄であり、往時の親心の名残りで、わざと足音が際立つように作られているのだ。

 我が子が、知らぬ間にどこか遠くへ行ってしまわぬように。

 もちろん、車などが通ってしまえば、そんな足音も容易に掻き消される。しかし、花街の中心部からいささか外れて夜陰の濃い界隈の石畳には、おこぼの足音はしっくりと馴染むのである。

 こぽり、こぽりというそんな足音が止み、男女の笑いさざめく声がしてから、店の戸は開かれたのだった。

「おばんどすぅ。また寄させてもらいましたえ。ほら、今日も先生に連れて来ていただいたんどす」

 戸を開け、先に入店したのは男のほうだった。しかし、店内が一気に華やいだのは、彼が伴った舞妓が、声も笑顔もはんなりと可憐なすゞ駒すずこまが姿を現した瞬間のことだった。

 舞妓は、スマホの類いを持つことを許されていない。伝統文化を体現する彼女たちには不似合いだという理由からだ。しかし、十人余りの客が集うお座敷で、酌をしたり歌舞音曲を披露したりする仕事を終えた後、馴染みの客と二人切りで連れ立って名残を惜しむには、むしろ好都合かもしれなかった。

 おこぼを履いていながら、親の知らぬ間に、暫し寄り道をすることができる。

 すゞ駒は近頃、美術大学で教鞭をとっている日本画家の男とともに、この小料理屋を訪れることが多いのだった。

「おいでやす」

 店主は、気さくな笑顔を見せた。

 小料理屋といえば、美しい和服姿の女将を期待する向きも多かろう。しかし、ここの主人は、胡麻塩頭で、藍染めの甚平がよく似合う男性である。

「先生、いつものんを頼んでもよろしゅおすか?」

 すゞ駒は、同伴者とカウンター席で身を寄せ合うと、上目遣いにねだったのだった。また可愛らしい影絵の狐をこさえて、彼の腕をつつく。

「ああ」

 画家は、こともなげに頷いた。店内には今、彼ら以外に客の姿は見当たらない。

「ほな、いつもの、梅酒をお紅茶で割ったんをお願いしますぅ」

 男は男で、店主の勧めで、新しい地酒を試すことにした。この店は、単に隠れ家的というだけではなく、近隣の地酒を豊富に取り揃えているのが好ましい。

 すゞ駒は、涼やかなグラスを軽く傾けた後、画家に悪戯っぽく流し目した。

「先生は、これで今夜も、うちの共犯者どすえ?」

 未成年者飲酒のことを言っているのだろう。すゞ駒は、確か、十八才になったばかりだ。

「ここにお見えになる舞妓さんは、み〜んな二十歳はたちやから」

 店主がすかさず、粋な助け舟を出してくれた。さすがは隠れ家的な小さな店を営んでいるだけあって、浮世の聖人ぶった俗物どものように無粋なことは言わないのだ。

 店主はなんでも、一流の板前となることを夢見て、若い時分に京都に出て来たのだという。しかし、高級料亭での修業が成功裏に終わったとはいえず、小料理屋を一人で切り盛りする現状に落ち着いたらしい。

 画家は、そんな店主の経歴に、少なからず親近感を覚えずにはいられなかった。

 彼もまた、日本画家として、画壇の片隅に棲息してはいるものの、それは、青春の頃に思い描いた成功とは程遠い。彼の収入の大半は、美大の教員としてのものなのである。

 しかし、決して一流とは言い難い画家であっても、男には、描くまでは死んでも死にきれないというほど思い入れのある画題が存在した。それは今、彼の隣で、涼やかな酒を嗜んでいる。

 すゞ駒は、今宵は、黒地に金色の蝶の模様があしらわれた帯を締めている。

 舞妓は、だらりの帯と呼ばれる、特徴的な帯の結び方をしている。天使が翼を閉じた有様ではないかと思えるほどに、舞妓の背中の大半を覆うほどに、大きく長く帯が結ばれており、それが、彼女が歩くたびに揺らめくのだ。

「すゞ駒、何を考えているんだい?」

 ふと、画家は尋ねずにはいられなかった。彼女が上の空であるように見えたからだ。

「へえ、こないだのお祭りのことを思い出してたんどす。お姉さんのお点前があんまりにも鮮やかやったから、うちも、お茶のお稽古をもぉ〜っと気張らなあかんなあ思て」

 その祭のことなら、画家もすぐに思い当たった。

 花街の一角には、氏神として稲荷神社が造営されている。先日、花街の繁栄を祈る祭が催され、大勢の舞妓や芸妓たちが参加した。彼女らは舞を奉納したり、一般の参拝客を酒や抹茶でもてなした。そういえば、すゞ駒の姉貴分にあたる年季の入った芸妓が、茶道の腕前を披露していた。


 荼吉尼天だきにてんと呼ばれる天女が存在する。

 それは、多くの場合、白狐にまたがる美しい天女として描かれる。稲荷として祀られることもある一方で、例えば、人間の男と交わり精気を吸い取り、生き肝を喰らい、屍肉まで貪るなどといった伝説にも事欠かないのだ。

 天女とはいいながら、稲荷として崇拝されながら、まるで西洋のサッキュバスの如き一面を持つではないか!

 画家である男も、顧客の要望を受けて荼吉尼天を描いたことが何度かある。なるほど、完熟した大人の美女を愛でる向きには、魅惑的な存在かもしれない。

 しかし、画家が描くことを切望しているのは、天使が堕ちる瞬間だった。舞妓がだらりの帯を乱されて、少女から大人の女に堕ちて花開く瞬間なのである。


「うちの舞妓ちゃんらは、ヌードモデルやあらしまへん!」

 画家は、今から一ヶ月ばかり前、置屋の女将に一喝されたのだ。

 芸能人が事務所に所属するように、舞妓というものは置屋に所属し住み込んでいる。

 事務所が異なれば、芸能人を売り出す戦略に差異があるように、置屋ごとに商売の戦略にもばらつきが見られるのだ。

 ある置屋は、「舞妓は芸は売っても身は売らぬ」という掟に忠実で、事務所の社長に相当する女将が、たかが未成年者飲酒に至るまで厳しく目を光らせている。その一方で、「安売りはしない」といったスタンスの置屋も、探せば存在するらしい。

 画家は、天使が堕ちる瞬間を描きたい一心で、後者のタイプだと噂される置屋ですゞ駒を見初めた。客として一定の信頼が醸成されるのを待って、まずは女将に話を持ち掛けたのだ。すゞ駒をヌードモデルとして絵を描きたいと。

 ところが、女将にはけんもほろろに断られた。画家が「世の中には時給数千円でヌードモデルを引き受けてくれる女性だっているのに」と、事実を語って値切りを試みたことが火に油を注いだようだった。

 しかしやがて、女将は口調を改め、「今時の舞妓ちゃんには恋愛の自由もありますよって」と、画家に健康診断を受けるよう求めた。その健康診断の項目には、性感染症の有無までもが含まれていた。

 舞妓を売るにあたり価格破壊はまかりならぬが、舞妓自身が恋愛を通じて望むというのであれば致し方無しということらしい。

 画家がほくそ笑んで席を立った後、女将は、「これで良かったんやな?」と、襖の向こう側へと問い掛けた。女将と画家のやりとりを、襖越しに聞いていた人物がいたのである。


 健康診断の結果、画家は自分が存外健康であることを知った。そして、すゞ駒に近づくことに女将の黙認を得て、早速彼女に絵のモデルとなるよう懇願したのである。

「うちの旦那さんになってくれはるんやったら」——それが、すゞ駒の提示した条件だった。舞妓の旦那といえば、パトロン兼セックスフレンドのことだろうと画家は思い込んでいたのだが、なんとすゞ駒は、「うちと結婚してくれはるんやったら」と言い直したのである。

 画家は、これには頭を抱えた。彼は、完熟した腐りかけの果実には嘔気しか覚えない。今はまだ美しいすゞ駒も、程無く熟してしまうだろう。それを思うと、一時的にせよ結婚するというのは、自身が腐り果ててしまいそうなほどに不快だった。

 画家は、打開策を思案しながら、恋愛ごっこによってすゞ駒を繋ぎ止めた。お座敷遊びの後には二人で時を過ごし、氏神の稲荷神社の祭にも共に出掛けたのである。


「先生……実は、うちのお父さん、えろう重たい病気なんどす」

 黒地に金色の蝶が煌めくだらりの帯を締めた、今宵のすゞ駒が言い出した。梅酒の紅茶割りの二杯目を口にしながら、唐突にである。

 まさか金の無心ではあるまいなと、画家は眉間に皺を寄せた。

「お父さんを助けるには、もう肝臓移植しか無いんやって、お父さんの本妻さんからうちに連絡があったんどす。なんでも生体肝移植が手っ取り早いらしいんやけど、本妻さんはドナーになるにはもうお年や。本妻さんが産まはった子ぉらはみぃ〜んな、お父さんの長生きよりも遺産相続がお望みや。そやから、うちがお父さんに肝臓をあげるんやったら、お父さんがうちを認知することをもう邪魔せえへんて言わはったんどすえ」

 画家は色を作した。まだ見ぬすゞ駒の柔肌が、肝臓の一部を提供するために切り裂かれるというのか!?

 しかし一方で、画家は察した。どうやらすゞ駒は、裕福な男がもうけた婚外子らしいということを。

「うちはお父さんに認めてほしい! そやから、肝臓をあげるつもりで検査を受けたんや。けど……うちの肝臓は健康な人よりもちょっと弱いよって、お父さんにあげることはできひん言われましてん……」

 画家が夢想する白い裸体から、幸い、醜い傷は消え去った。しかし、肝臓が弱いというのであれば……

「おい、酒なんて飲んだら駄目じゃないか!」

 画家の物言いは頭ごなしだった。まだ見ぬ柔肌を損ないかねない行いは、それがすゞ駒自身によるものであっても許せなかった。

「先生……今さら何を言うてはるんどす?」

 すゞ駒の白面に、驚くほど険のある表情が浮かんだ。紅唇はわななき、柳眉は吊り上がり、目尻に塗られた朱よりも赤い怒りが、見開かれた双眸に点ったではないか。

 天使どころか、天女どころか、鬼女の如き形相だった。

 画家は不意に、強烈な眩暈に襲われた。あたかも鬼女の怒りに当てられたようで、腰を下ろしたカウンター席からもずり落ちてしまいそうだった。

「ああ、やぁ〜っとお薬が回ってきたみたいどすなぁ」

 すゞ駒の紅唇が、裂けるようにして笑みを形作った。

「どうどす? 初めて飲まはるお酒に混ぜたよって、気づかはらへんだみたいやけど、先生がうちに盛ろうとした睡眠薬よりは強烈なはずどすえ? 何倍返しやろ?」

 ああ気づかれていたのかと、画家は、カウンターにしがみつきながら歯噛みした。

 前回この店を訪れた際、彼は密かに、すゞ駒のグラスに睡眠薬を盛ろうとした。

 厭わしい結婚話も恋愛ごっこもうっちゃって、ただただ思いを遂げるためである。朦朧としたすゞ駒を絵のモデルとして、ついでに玩具にしてやろうと企んだのだ。

 しかし、手元が狂って床に転げ落ちてしまった錠剤を、彼は回収できずじまいだった。小粒の錠剤であるため、店主にもすゞ駒にも発見されることは無いだろうと高を括っていたのだが……

「あの錠剤は、柴田しばたが見つけて、何の薬かも特定してくれたんどす。お陰様で、良心の呵責なんてもんは、もう一ミクロンものうなりましたえ」

 誰だよシバタって……痺れたように鈍化した画家の頭脳では、なかなか正解には至らない。

「先生、ご存知どすか? 『旦那』と『ドナー』は、語源がおんなじらしおすえ。

 生体肝移植のドナーには、法的な家族やないとなられへん。お父さんがうちを認知して、うちが先生と結婚したら、先生は晴れてドナーどす。先生の肝臓は、うちのんよりも丈夫らしおすなぁ」

 画家が先月、健康診断を受けさせられた真の意味——それをすゞ駒は告白したのだった。

「柴田、後のことはよろしゅう頼みますえ」

「お任せ下さい、美鈴みすずお嬢様」

 店主は、舞妓に深々と一礼した。それは、料理人というよりもむしろ執事の礼だった。

 店主が一人で切り盛りしているはずの店に、屈強な男たちが音も無く出現する。


 ダキニの如き女に生き肝を無心されたのだ……


 画家は、そのように察した直後、意識を失ったのである。

 

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