Lilium

綾波 宗水

背徳の園

 はや冷たくなりつつある妹の、まだ仄かにピンク色ののった爪の上へ、姉は真っ白のネイルを施した。妹にとって、己が爪の色が変わるのは初めての体験であり、また姉の方にしても誰かに塗ってやるというのは思えばこれまでした覚えのないことであったのに気が付き、いよいよ神妙なる死に化粧ではなく、乙女らのアバンチュールへと心なしか空気が和らいだ。

 嗚呼、もう揺れることのないこの白百合の御手。擦れることが無いのなら、いつまで彼女の手にネイルはその高貴さを讃えていられるのであろうかしら。あるいは、その純潔の終焉を見届ける前に、自分の方こそ先に失せることとなるのではないか。

 聖母はいつまでも天上におわします。されど、生き長らえた凡下の身なれば、お婆さんとなって、もしくはこの愛らしさを、浅ましくも伝え歩こうかしら。もはやこれ以上の出来事が今再び地上に起こるはずもないのに。


 少女に姉妹があり、そして彼女が姉であることを、クラスメイトだけでなく、向こう三軒両隣といえども知る者はいない。

 母親は物心がつく前に既に亡くなっており、父親の方は、様々な考えの末、娘を育てるための資金を毎月、提供する代わりに、娘が残るといって聞かない、過去が温存されている家へはついぞ顔を出しはしなかった。だが、彼女たちの精神構造は、両親の不在を、姉妹の中で秘密を生みだすことで、隠匿の喜びへと書き換えていた。それというのも、妹は目立った病気も怪我もないというのに、体力の消耗が著しく、虚弱体質というのか、高校生の姉のように毎日、十数分の登下校など、比較的近い中学校でも難しく、小学校は半ばお情けで卒業したようなもの。きっと高校は受かることも通うこともなかろう。

 だからこそ、妹にとっては、その家具の変わらない、姉と二人っきりの家こそが、世界のすべてであり、人類の内、唯一無二の天動の場であった。

「お姉さん、お願い」

「ごめんね、待たせちゃったよね」

 妹の一切の世話を、彼女は率先して引き受けていたのだが、妹のすべてを見届けるのが姉としての誉れであるかのように感じていたのだから、隠匿の喜びは、精神的な姉妹関係を越えた、肉体的関係にすら発展していたのだ。

「どう?」

 彼女はいつものように、しかしマンネリ化は避けねばならないので、つぶさに意見を聞き入れているのだが、妹にとってはそれが何よりも恥ずかしく、またある意味においてマゾヒスティックな甘美さもある瞬間なのだ。

 彼女らは窓際に育ったあの白百合に誓って純粋である。

 彼女らは与えられた家で慎ましく生活し、<sister>という関係性を、ときにはかつての女学生らによるのように敬愛をもって体現し、且つまた、修道女の如く、清廉でもあったのだが、この秘密の性的解消のみ、頽廃的デカダンスにして、耽美的エスセティック。それがより二人の仲を惹きつけ、そして排他的となっていった。


「ねぇ、絶対に二個、植えたよね?」

 花粉を取り除きつつ、再び妹にこの話題をふる。茎と葉が伸びだした時点から、二つの球根が埋まっているはずの鉢からは、たった一本しか咲かなかった。二人は冗談で、妖怪が持っていったのではと噂し合ったのも記憶に新しい。

「取り除いたの方がいいのかな?」

 姉妹はいずれも園芸に詳しいという訳ではなく、姉がスーパーで売られていたのを試みに買ってみただけに過ぎない。花はどことなく、病室を思わせるのでそれまで飾ることは滅多になかったが、球根から育てるならばその趣きも違っているだろう。

 結果として、その判断は正解だった。

 男をもはや文字通りに近い意味で知らない妹の背景に、すっくと伸びた白百合が、なるほど、聖母を彷彿とさせ、一方で妹を初めて、愛らしいだけでなく、妖艶に映してみせた。

 独特な芳香が、姉に先ほどまでの余韻を一層高まらせ、雑談があかたもピロートークの如き意義を持ち合わせるのを肌で感じていた。

「毒になるのかな、それとも栄養になるのかな」

 答えにはなっていない妹の返事が、瞬間、妙に姉をゾクッとさせた。

「栄養になるに決まってるよ!」

 声量こそ、さほど大きくなかったものの、震えているのは妹にも判然としており、かえって、暗喩を表へ引き出すこととなってしまった。

「あ、私みたい……だね」

 姉はただ、もう一度、妹の唇にくちづけを。今度は慰めるのではなく、むしろ自分の為のように。キスであれば、うわべの言葉で傷つけずに済む。


 キスを受けたかの姫百合。小さくて愛らしい姫は、その想いを誠に受け取った。綸言汗の如しというが、まさしく彼女らの勅命のように絶対な精神のやりとりは、姉の思惑以上に心を以て心に伝わってしまったらしい。

 だが、伝え返すその隙を、妹は姉へと与えなかった。妹からの初めての離反であり、永遠の追随でもあるこの出来事を、私はどう記すことができようか。その秘めごとを知らぬわたくしが。

 人間というのは非常に不可解極まる。精神的やりとりの積み重ねと浮世離れが影響したのか、まさしく道教の仙人よろしく、妹は見事、この世から脱却してみせた。部屋に残ったのは、姉ひとり。そこに横たわる妹は、瞬間たまゆらに発揮された明確なる意志によって入定したのだ。


 もちろん、具体的な方法は存在する。しかしここではあえて書くことは差し控えさせていただいた。当人、ことに姉にとってはさほど重要なことではなく、例えば流血が、あるいは、瞬時に髪を止めていたリボンで首をきつく縛ったとして、それらの事実確認を重大事と考えるのは、読者ではなく法医学者のみであろう。


 ともかくも妹は、姉をのであった。

 依存の環は永劫回帰する。しかし、一度、咲かない球根を取り除けば、病の温床は取り除かれ、土壌ははじめて、残された一輪の百合へと恩恵をもたらす。

 妹は、姉の使命を赦すことで、自分の執着とみるみる姉の心と体を蝕んでゆく毒を排除することで、祈りを捧げた。

 きっと科学文明の当代には、何が起き、そして私が何を遺しているのかすらも常人には伝わらないだろう。


 まだ固くなっていない妹の素肌に触れた姉は、今度はひとりでを感じた。それまでの直接的な快楽ではなく。

 これで彼女はまた罪を得たのだから。義務教育をしっかり受けた姉の年の功か、妹の思惑こそ、伝播しなかったが、一人で先にいくことを姉は許さなかった。

 閉じられたまぶたの外で、制服を脱ぎ捨て裸になった姉は、妹のもとへと向かっていった。

 妹の存在を知らない世間が、それから先を知る術はない。


「ん? あれは、ユリが揺れているの、それともあの子がこっちに手を振ってるの?」

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Lilium 綾波 宗水 @Ayanami4869

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