第7話旗本・多門重共

 下級旗本の三男坊に生まれた私が地道に努力し、六年前に布衣ほいの着用が許される身にまでなった。

 まさか、一年前の浅野内匠頭の事件がこれほどまでの大事になろうとは一体誰が考えただろう。


 

 ――吉良殿に遺恨あり!――



 浅野殿の狂気に満ちた声が今でも聞こえてくるようだ。時間がなかった事もあるが、恐らく浅野殿は吉良殿に対してどのような恨みつらみがあったのかまでは決して話さなかったような気がする。


『憎い吉良上野介は如何致した!?』


 己の処罰など考える事も無い様子であった。後に残す家族や家臣、また国元の赤穂の事など知らんと言わんばかりに最後まで吉良殿の安否のみを気にしていた。

 怒りで顔を真っ赤にさせギラギラした目と忙しなく歯ぎしりする姿は、およそ常人とは言い難かった。吉良殿が軽傷である事は既に知っていたが、とても言いだせる雰囲気ではなかった。本当の事を言えば暴れて手が付けられなくなるのは必定だった。


『吉良はどうなった!』


 興奮状態の浅野殿は何度も聞き縋ってきた。

 他に言うべきことがあるだろう!と何度思ったかしれない。


『吉良殿は御高齢。長くは持たないでしょう』


 偽りを告げるしかなかった。

 私の応えに対して浅野殿は子供のように満面の笑みを浮かべて喜んでいた。その姿がまた狂人のようで今も夢に見る。


 浅野殿の処罰が決まった時は不謹慎ながらホッとしたほどだ。

 私が思った通り「切腹」であった。


 正検死役の庄田しょうだ殿も此度の浅野殿の件に大層ご立腹であった。

 

『浅野内匠頭の所業は許し難し!切腹の義は庭先でやらせるがいい!』


 大名の切腹に相応しくない場所でやらせようとしたのだ。庭先で切腹などさせられるわけがない。私ともう一人の副検死役であった大久保おおくぼ殿と共に庄田殿を思い留まらせようとしたが、それが返って火に油を注いでしまった。


『そなたたちは罪人に庇い立てするのか!』


 庄田殿を上手く宥められなかったせいで、浅野殿は庭先での切腹を余儀なくされた。

 その後、浅野家は御家断絶となった。

 

 愚かな主君を持つと苦労するのは家臣だ。

 だが、赤穂浅野家には本家である広島藩浅野家がある。

 恐らく、ほとんどの者がそちらを頼るだろう。

 若くして跡目を継いだ浅野殿には熊本藩の細川様が後見人だった。そちらにも伝手があるはず。昔のように流人が江戸に溢れかえる事はあるまい。


 そう思っていたというのに……まさか仇討ちをするとは。

 いや、そういった噂があった事は確かだ。

 しかし本当にするとは誰も思わなかったに違いない。

 当事者である吉良殿も「まさか」と笑い飛ばしていた位だ。

 

 この前代未聞の仇討ち騒動。

 一体どうやって収集を付けるおつもりなのか。

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