第45話 救えない命
ネイピアは船着場の階段を上り、通りに出た。閑散としていて物音一つしない。地下街に逃げていない人々の中にもきっと無事な人間はいるはずだ。おそらく、息を潜めて、じっとどこかに隠れているのだろう。
空を見上げると西側の空が赤茶けていた。大聖堂に放った火は燃え続けているようだ。
ネイピアはホースを引っ張って広場へと急いだ。早くリグル草だけを焼いて、消火しないとベルメルン西街区は焼け野原になってしまう。
広場の東側もすっかり黄色い花に侵食されていた。あたり一面覆い尽くされていて行く手をはばんでいる。ふと見ると、初老の女が黄色い花に顔を埋めていた。これが中毒症状だ。効果が切れそうになると、自らその花粉を求める。女は満足したのか、顔を上げた。その顔を見てネイピアは驚いた。
「セレスティアさん!」
間違いない。花の世話をボランティアでしていたセレスティアだ。印象的だった人懐っこそうな表情はなく、ネイピアの姿を認めると警戒感をあらわにしてきた。恍惚感溢れる表情が一変し、獣のような唸り声を上げて襲いかかってきた。
ネイピアは持っていたホースを放り投げて、剣を抜いた。セレスティアも剪定バサミを振り上げた。
ドサ。
セレスティアが倒れた。ネイピアはセレスティアの腹に剣の柄をぶつけて気絶させたのだ。
「ちょっとの間、寝ててくれよ」
リグル草さえなくなれば、セレスティアもジューゴのように元通りになるはずだ。もうこれ以上、犠牲者の数を増やしたくない。ネイピアは、セレスティアを広場の隅に運び、壁にもたれかけさせた。
──さあ、はやく花壇に油をまかなければ。
ジューゴに合図するため、ネイピアは大声を出そうと腹に力を入れた。すると、続々とセレスティアと同じように、魔の花粉を補給しにきた錯乱者たちが押し寄せてきた。
「マジかよ‼︎ こりゃ手に負えん!」
錯乱者たちの数は百人は優に超えているだろう。一斉に黄色い花の中に顔を埋めた。そして……魔の花粉を十分に補給すると、殺し合いを始めた。
ネイピアの姿を認めた錯乱者たちもいる。ジリジリとにじりよってくる。気を失っていたセレスティアもいつの間にかその中に加わっている。
「なんでだよ! なんでそうなるんだよ‼︎」
そして、十人あまりの塊となってネイピアに襲いかかってきた。その叫び声はまるで巨大な魔物の咆哮のように響き渡った。
ごおおおおぉおおおお
船着場に待機していたジューゴはただならぬ声を聞いた。まるで地獄の番犬が牙を剥いているようだ。
──これが合図に違いない。
ジューゴが振り返ると自警団員たちの目が一気に集まった。
「さあ、じゃんじゃん送りこめ‼︎ 油を撒き散らすんだ‼︎」ジューゴが叫んだ。
「おおー‼︎」自警団員たちは地獄の番犬に負けず劣らず威勢のいい声を上げた。
ホースから油が出始めたのをネイピアは確認した。しかし、今は錯乱者たちの襲撃を迎え撃つだけで精一杯だった。次から次へと繰り出されるオノやハンマー、そしてツルハシによる攻撃。ネイピアは防戦一方だ。剣で薙ぎ払うことしかできない。
ネイピアの頭にはラブローの言葉があった。
〈あの花さえなくなりゃ、みんな優しくて善良なベルメルンの仲間なんです! まだ助けられる人だってたくさんおるんやないですか‼︎ 僕は一人でも多くの人を助けたいっち思うんですよ‼︎〉
──わかってるよ。こいつらみんなさっきまで普通の生活してたんだ。酒なんて一緒に飲んだら楽しいヤツらかもしれねえもんな。こんな俺でも友達になれるかもしれねえ。俺だって助けてえよ。助けてえけどさ……
ネイピアは、己の剣で錯乱者たちを斬ることができないでいた。もう人が死ぬのはたくさんだ。
その間にもホースからはどんどん油が流れている。それは花壇とはあさっての方向を向いていて、このままでは広場の周りの建物が油にまみれるだけだ。火を放っても意味がない。早く花壇に向けないと油が底を尽き、黄色い花を焼き尽くせなくなるかもしれない。
「くそっ」
ネイピアは突進して錯乱者たちの壁を破った。そして、ホースを持ち上げ、錯乱者たちに向かって放出した。全員にまんべんなくかけていく。
「すまねえ! 本当にすまねえ! 俺を恨んでくれよ‼︎」
ネイピアはマッチをこすり、油まみれの錯乱者たちに向かって火を投げ入れた。火だるまになった錯乱者たちが暴れる。生き物の焼ける匂いがネイピアの鼻をついた。戦場で何度も嗅いだことのある匂いだ。
──もう二度と、こんな匂い嗅ぎたくなかったのに……
ネイピアは目をぐっと見開いたまま、人間が炎の中で朽ち果てていく様子を見ていた。すると、突然、炎の中から錯乱者がネイピアに飛びかかってきた。その炎に包まれた体をネイピアは容赦なくぶった斬った。
「……」
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