第42話 ディアナの記憶

 ディアナはミューロでワイン工場で働く両親の元に生まれた。ミューロはトロヤン川上流にある。河川貿易の盛んなトランドルから半日歩いたところにある。村には小川が流れていて、水車もあった。ミネラル豊富なラーベ山の伏流水が湧き出していた。水が命の酒造りにはぴったりの場所で、小さい村だったが、村民は裕福に暮らしていた。


 五つ違いの弟がベクトールだ。両親は共働きだったため、昼間、ベクトールの面倒を見るのはディアナの役目だった。やんちゃなベクトールはディアナの手を焼かせた。


 運命を変えた出来事は、ディアナが十三歳の誕生日を迎えて一月ほど経った時に起きた──


 その日、ベクトールは言うことを聞かず、大人たちから「入ってはいけない」と言われている森の中を走り回っていた。


「いい加減にしなさい! お父さんに叱られても知らないからね」弟を追いかけながら、ディアナは叫んだ。


「勇者は怒られないもん」


 ベクトールは木の枝を振り回しながら、勇者を気取っていた。うっそうと茂る木々を魔物に見立てて「俺が倒してやる」などとつぶやいている。なんでこんなところで弟と追いかけっこをしなければならないのか。ディアナはうんざりしていた。友達は花を摘んで花冠をつくったり、恋占いをしたりしているのに。


「うわあ‼︎」


 前を走っていたベクトールが悲鳴と共に、視界からいなくなった。


「ベクトール‼︎」


 慌てて駆け寄ると、前は崖になっていた。茂みで気づかなかったのだ。五メートルほど下で、ベクトールが泣いている。


「ベクトール、大丈夫?」


 ベクトールは応えない。


「上がってこれる?」


 ベクトールは首を振った。


 ディアナはため息をついた。自分が下りて行くしかない。誕生日に買ってもらったばかりの白に黄色の花柄のスカートを汚したくなかったが仕方ない。ディアナは長い丈のスカートを結び、膝上の丈にしてから、慎重に崖を下りて行った。しかし、一メートルも進まないうちに転げ落ちた。


──もう、最悪。


 お気に入りのスカートは泥だらけになった。


 ベクトールは右足を捻挫しており、足首が腫れていた。


 崖を上るどころか、歩くこともできないだろう。おんぶして上ることもできない。泣きじゃくる弟の前で、ディアナは自分が泣きたい気持ちになった。


 どれくらい時間が経っただろうか。ディアナは座り込んでいた。もうスカートの汚れを気にすることもなくなっていた。隣のベクトールは泣き疲れて寝ている。もうすぐ日が暮れる。森の中は急速に闇に包まれていくだろう。


──お父さんもお母さんも心配するだろうな。


 心細くなって、自分にもたれかかって寝ているベクトールを抱きしめた。体温が感じられて少しだけホッとした。とにかく、待つしかない。大人たちが見つけてくれるまで、ここでじっと待つんだ。


「大丈夫かい?」声がしてディアナはハッとした。崖の上から男が覗き込んでいる。


「滑り落ちてしまって動けないんです。弟が捻挫してしまって」


「今、助けてあげるからね」男はロープを垂らして崖を下りてきた。「お姉ちゃんは歩けるかい?」


「はい、歩くだけならなんとか」


 その男はベクトールを背負うと、ディアナの手を引いてくれた。


「ありがとうございます」


 ディアナが礼を言うと、男は黙って微笑んだ。


 崖を登り終えると、荷車があった。荷車にはたくさんの植物が積まれていた。


 なんだろう? ディアナは疑問に思った。ミューロの村では荷車に積むのはワインの瓶くらいのものだ。不思議そうにしていると、その男が教えてくれた。


「これは薬草さ。おじさんは、薬売りなんだ」


「お薬?」


「よく効くって評判なんだ」


 そう言うとその男は植物の葉を一枚摘んだ。それをすり鉢のようなものですり潰すと、ベクトールの腫れた足首に塗った。


「これで歩けるようになるよ」


 それはまるで魔法だった。みるみると足の腫れは引き、すぐにベクトールは歩くことができるようになった。痛みもないようだ。


「おじさん、魔法使いなの?」ディアナは聞いた。


「ハハ、魔法じゃないよ。でも薬の力ってすごいだろ?」


「うん。ミューロにもお薬があるといいな。お薬があれば、みんな苦しまないのに」


 ミューロには薬もなければ医者もいなかった。病気にかかれば、長い道のりを越えてトランドルに行くしかない。その途中に命を落とす者もいた。ディアナたちの村はまともな医療が受けられる環境ではなかった。


「そうだね。じゃ、これを一つあげよう」


 男が差し出したのはギザギザの葉っぱの見たこともない植物だった。


「これは何にでも効く薬草さ」


「もらってもいいの?」


「もちろんさ。それに、黄色いきれいなお花を咲かせるんだ。お嬢ちゃんのスカートの模様みたいな綺麗な花をね」


「へえー、素敵」


「お日様の光をたっぷり浴びられる場所に植えてあげて。すぐに増えるから」


「うん。じゃ、水車のところの花畑に植える。お水もいっぱいあげられるわ」


「それはいいね。おじさんは何日かここにいるから、何かあったらまたおいで」


 ディアナは礼を言って、ベクトールの手を引いて村へと帰っていった。ちょうど夕日が山蔭に隠れた時だった。


──それが、タッカーとの出会いだった。


 翌朝、晴れ渡った空にまぶしい太陽があった。ディアナは水車の前にタッカーからもらった植物を植えた。ここは水も豊かで、野生の花が咲き乱れていた。花冠をつくっていた友達も珍しそうに見ていた。


「これ、どんなお花が咲くの?」


「魔法のお花よ」


 ディアナは早く昨日の奇跡を友達や大人たちに見せてあげたかった。


 植えるとすぐに葉を伸ばし、花が咲いた。タッカーの言う通り、とても美しく陽光に輝いて見えた。それから、日毎に黄色い花は増えていった。村人たちが珍しいと言って、仕事の合間に見物に来るようになった。中には昼間から花畑に陣取って酒盛りをする大人も現れた。


 一週間が経つころには、水車のまわりは黄色い花で埋め尽くされていた。そして、村中の人が仕事をほったらかして集まるようになった。次第に問題が目立つようになってきた。喧嘩が絶えないのだ。村人は仲良く、めったなことでは喧嘩など起きなかったのに、水車のまわりでは日に何件も殴り合いが起きた。


 ディアナは思った。こう言う時こそ、薬が役に立つ。しかし、よく考えてみると、花をどうやれば薬になるのかが分からなかった。葉っぱを煮出すのか、それともあの男がやっていたようにすりつぶせばいいのか。


──聞きに行こう。


 確か、男はしばらくあの場所にいると言っていた。ディアナはベクトールを連れて、再び森の中に入っていった。


 男はすぐに見つかった。しかし、もう一人、ヒゲを伸ばし放題伸ばしたモジャモジャ頭の男がいた。


 ディアナはとっさに身を隠した。男たちの会話が聞こえてくる。


「ロマ、ちょっと効果が弱いんじゃないか?」


「徐々には症状が出てる。いずれ爆発するだろう。しかし、この村くらいならこれでもいいだろうが、ベルメルンではうまくいかないだろうな」


「ああ、あそこは自警団がいる。それに、今度は巡察隊を配備するそうだ」


「くそ、一からやり直すしかないか」


「まあ、あせるな。ちょっと様子を見にいってこよう」


 男たちは、荷車から青い花を取り出した。そして、マスクのようにして、口元にあてて歩いていった。花びらは大きく、口から鼻まですっぽりと隠した。


──なんだろう?


 ディアナは理解ができなかった。ただ、あの男がこの間助けてくれた時と様子が違ったのだけが印象に残っていた。


 ふと見ると、ベクトールはさっそく男たちのマネをして青い花を口元にあてていた。ディアナもやってみた。とくに何の変化もなかった。


「お姉ちゃん、これ何の意味があるんだろ?」


「わからない。でも、薬売りのおじさんたちがやっていたから、きっと体にいいんでしょう」


 村に戻ると、何か雰囲気が違っていた。異様に静かだった。ディアナは思い当たった。そうだ。水車だ。水車が回るときに立てるちゃぷんちゃぷんという音、それがこの村はずれまで聞こえてくるはずなのに。


 水車のところに行ってみると、言葉を失った。川に死体が溢れ、水車がひっかかって止まっていた。ディアナは自分の家を目指した。その途中で恐るべき光景を目にした。クワやオノ、ナイフを持った住人たちが殺し合いをしていたのだ。


 ディアナはベクトールと、納屋に逃げ込んだ。そして、窓から外を伺った。自分の友達もいた。皆、目を見開き、よだれを垂らしている。人間とは思えなかった。大人も子供も入り乱れて、村は血に染まった。


 とてもつもなく長い時間が流れた気がした。ディアナはベクトールを連れ立って静かになった村を歩き始めた。自然と足は村全体を見下ろせる丘の上に向かった。


 そして、そこから見えたのは村中に散らばる死体の山と村全体を埋め尽くす黄色い花だった。


 ふと、気づくと薬売りの男たちが水車の前に立っていた。目があった。追いかけてきたので、ディアナはベクトールと逃げた。懸命に逃げた。それからのことはよく覚えていない。何日か後、郵便屋に発見されて保護された。手にはあの青い花を持っていた。

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